後編 銭河原ネロルの本懐
ロロルイとの奇妙な共同生活が始まった。数日は大人しくして警戒心を解くために何もせず様子を見ていた。
ある夜。寝息だけが安らかに響く中、ネロルは音もなくロロルイが眠る寝台へ近づいた。足の不自由な老人はいつも同じ場所に座っており微動だにしない。
(すみやせん。出る杭は先に打たせてもらいやすね)
ネロルは静かに寝息を立てるロロルイの額に指を伸ばし、「この女の苦悩が晴れますように」と【忘却】の祝福付与を施そうとする。
だが、指先が触れた瞬間、ネロルの意志は跳ね返り、静電気でも触れたように腕が弾かれた。少女の内側から溢れる圧倒的な「光」を前に、影が焼き消されたのだ。
「……っ」
指先が焦げるような感覚に、ネロルは手を引っ込めた。相手の意志と反するというような失敗ではない。この少女は既に何者か――恐らくは世界そのものに【祝福】されている。仮にその上で祝福を重ねようとするならば、それ以上の力が必要になる。例えるならば神。もしくは悪魔だ。
疑いようもない事実が突きつけられた。ネロルは下唇を嚙みながら恨めしそうにロロルイを見下ろした。この少女こそが本物。正真正銘、聖女ロロルイの生まれ変わりだと。
(だから、なんだってんです)
ネロルはギリと奥歯を噛んだ。
(本物? だったら、そんな事実はすり替えやす。贄になる前にあしが街中に祝福を施して、あしの力で塗り潰してやりゃあいいんです。贄を止めるんです。解放という粗治療なんかじゃなく、祝福という依存の力で)
ネロルはロロルイへの干渉を諦めた。その代わり、毎朝、毎夜と街へと繰り出した。人が誰しも持つ小さな不満、欲望、妬み。それらを陰ながら肯定してやり、増幅させる【祝福】を伝染病のように付与し続ける
「誰もが獣なんです。理性なんて皮一枚、脱ぎ捨てちまいやしょう」
「犯すなんて言葉に騙されちゃあいけやせん。これが人間の姿じゃありやせんか」
着実に、街はネロルの色に染まっていく。それが本来の【祝福】付与であるかどうかは最早、ネロルですら見失っていた。贄の儀式の日にこの街は聖女の処刑で延命するのではなく、ロロルイの解放で解き放たれるのでもなく、ネロルの祝福による新たな街の誕生に歓喜することになるはずだ。
そして、当日の朝。
目覚めたネロルは、世界が変質してしまったような違和感に襲われた。体が驚くほど軽いのだ。五年間、片時も忘れたことのなかった全身の焼けるような痛み。皮膚が引き攣る感覚。それが嘘のように消え失せていた。
「おはよう、アンナ」
窓辺でロロルイが微笑んでいた。その顔色は土気色で、ひどく消耗しているように見えた。隣に座る老人も変わらずに一点を見つめている。正確には見つめていた、が正しい。最初から息はしていなかった。
「……何をしやした?」
「えへへ、勝手にやっちゃってごめんね。アンナ、毎晩うなされていたから。ロロの【解放】で、アンナを縛っていた『痛みの記憶』を解いてあげたの」
ロロルイは無邪気に笑った。ネロルは呆然と自分の腕を見る。爛れた火傷の痕はそのまま残っている。だが、そこにあったはずの「怨念」や「衝動」といった熱だけが、きれいに洗い流されていた。
(あしの、思い出が……)
それはネロルのアイデンティティだった。この痛みがあるから世界に祝福の返礼を施せた。この熱があるから両親が永遠に侵されないように街全体を支配を企んだ。それを奪われた今、ネロルの中に残ったのは、空っぽの虚無と――言いようのない安らぎだった。
「どうして……あしなんかに」
「だってアンナ、毎晩泣いてたんだよ?」
(あしが泣くですって? あしにはそんな感情ありゃしやせん)
「大丈夫。もう痛くないからね。これは今までのお礼なんだ。たくさんお話を聞かせてくれて、世界はもっと広くて素敵だって教えてくれたから。だから、この街を解放する意味も見つけられた。それに、アンナが笑ってくれるなら、ロロは嬉しいから」
視界が歪んだ。目から垂れる水が涙だと気づくまで数秒かかった。ふざけるな、と叫びたかった。余計なことを、と罵りたかった。けれど、震える体でネロルが絞り出したのは嗚咽だけだった。体中が、意と反するような安堵に包まれている。
(ああ、あしは……)
憑き物が落ちたようにネロルの顔に生気が戻ってきた。この子がこの街を救うのならそれでいい。もうどうでもいい。ネロルは初めて、付与師としてではなくただの女の子として涙を流したのだった。
鐘の音が遠くで聞こえる――
森を切り抜いた贄の場には、埋め尽くす群衆の熱気で煮え、最高潮に達していた。断頭台の上、白装束のロロルイが跪いている。彼女は恐怖に震えることもなく、ただ静かに、群衆の中にいるネロルを見つけて微笑んだ。
(さようなら、聖女様)
ネロルはフードの下で目を伏せた。介入はしない。彼女の望み通り、その命で街が解放されるなら、それを見届ける想いだった。
覆面の男が鉈を振り下ろし、重厚な刃が落下する。
そういえばいつの間に炎から刃になったのだろう? と、思うがどうでもいい話だった。鈍い音と共に、丸くてブロンドに覆われた小さな影が飛沫を上げながら空に飛んで行った。
その瞬間だった――。
弾けた命は、目に見えるほどの「光の波紋」となって広場を、街全体を飲み込んだ。ロロルイの最期の奇跡が、あらゆる束縛、心に刻まれる苦痛から【解放】されていく。
光が収まった時、あたりはしんと静まり返っていた。誰もが言葉を失くしたように黙り込み空を見上げている。ネロルもまた、じめじめした風ではなく、清涼な風を感じていた。
終わったのだ。
これで街は、正しい姿に――。
「あぁっ、気持ちいい」
誰かが気持ちよさそうに言った。それは祈りではなかった。
「簡単なことじゃねえかははは」
屈強な男が手を広げながら断頭台の前で回った。
「最初からこうすりゃいいんだ!」
群衆の一人が隣の男を殴り飛ばした。それを皮切りに、悲鳴ではない歓喜の咆哮が上がった。気に入らない隣人を刺す者。服を脱ぎ捨てて踊り狂う者。男女が乱雑に入り混じる。街全体に広がった解放は、更なる欲望を丸裸にしていく。
子供の笑い声と、男の断末魔が同時に響いた。女が笑いながら夫の頭を地面に叩きつけていた。
咆哮、悲鳴、哄笑――まるで合奏のように、祝福の号令のように鳴り響いた。
ネロルは目を見開いた。これは救済ではない。
ロロルイの【解放】はあまりにも強力すぎたのだ。そして、ネロルがこの一ヶ月で植え付けた欲望の種の【祝福】と最悪の形で噛み合ってしまった。
理性のタガが外れる。法の鎖。道徳という縛り。人間を人間たらしめていた「枠組み」さえも、ロロルイは解放してしまったのだ。解き放たれた街の人々は、剥き出しの欲望のままに暴れ回る獣と化していた。
ロロルイはきっと笑顔で、こうではない未来に希望を託し旅立った。
彼女は満足だっただろう。
自分の力で救うと、そう信じていたから。
「ぎゃっははは! 俺のもんだ、全部俺のもんだ!」
「死ね! 死ね! ずっと殺したかったんだ!」
燃え上がる家々。飛び交うのは血飛沫だ。それは、因習に縛られていた頃よりも遥かに醜悪だったが、生き生きとした地獄絵図だった。
ネロルは燃える街を背に、ゆっくりと歩き出した。誰もネロルを止めない。人々は互いを貪ることに忙しい。火傷の痛みはない。けれど胸の奥には、以前とは違う冷たい穴が開いていた。
「……皮肉なもんでござりやすね、ロロルイ」
ネロルは空を見上げた。空だけは、どこまでも澄み渡るように青かった。
「命を懸けて解き放った結果がこれですよ。あしを負かさねえでどうするんです……?」
聖女の希望の【解放】は、汚れて変色した器には劇薬だった。これこそが人間の本来の姿なのかもしれないが、ネロルが望み、仕込んでいた【祝福】は、皮肉にも聖女の生まれ変わりであるロロルイの手によって完成された。
街はもう贄のことなど忘れただろう。力があろうがなかろうが、関係なしに潰し合う。歯止めが効かない宴によって新たな姿に生まれ変わるかもしれない。
ネロルは聖女だった塊をブロンドの髪で包み込むようにして抱きかかえる。
「安らかに眠って。お父さん、お母さん」
街の傍に時間を掛けてネロルは墓を建てた。
フードを脱ぎ、それぞれに【祝福】を施して旅路を祈る。
目の奥にずっと溜まっていた膿を出し切り、戸惑うような顔をしていた。
「……ロロルイ」
――どうか、この者たちが戻ってきませんよう。
そうして、銭河原ネロルは振り返らずに歩き出した。
三つの墓標は淡い光で覆われている。その効果は【鎮魂】。
末路に幸せが残ったのかどうか。
それは、狂乱の炎の中に消えた聖女と、祝福を呪う付与師だけが知っている。
(了)
祝福呪いの付与師《エンチャンター》~銭河原ネロルの述懐~ たーたん @taatan_v
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