2話
三〇一号室へ向かおうとした、そのとき。受付センターにいた看護師らしい物が、こちらに声をかけてきた。
「あの、すみません。どちらへ――?」
すいさんが一瞬戸惑ったみたいに脚を引く。僕は先に口を開いた。
「あ……こちらカスタムワールド制作会社のスタジオ・ジェネシスの者ですぅ。三〇一号室の岩本さんにお会いしに来ましたが……」
意識しなくても、保存してある音声データを再生するみたいに、声がするすると口から転がり出た。自分の声なのに、人間らしい温度がひとかけらもない。
「あ、でしたらこちらで手続きお願いします」
「はい」
ロビーで受付したはずなんだけど、大学病院って二回チェックするもんなのか。そんなふうに勝手に納得して、僕はもう一度、訪問受付番号を伝えた。
「あ、もう受付済みですね。そのままお進みください。
「あっ、はい……」
こうして、ダメなコントみたいに一瞬だけ間抜けになった二十代の若い青年二人は、言われるがまま手を消毒し――いよいよ、目的のお客様の部屋の前に立った。ドアのプレートには、〈岩本ことは〉と記されている。
僕はいったん両手の荷物を足元に置き、コートに手をかける。
「それ、貸して」
「あ、はい。ありがとうございます」
すいさんは自分の上着を脱ぎながら、僕のコートまで当然みたいに受け取った。その動作と一緒に、皺ひとつない灰色のスーツの内側から、百合みたいに白いブラウスがのぞく。
僕だって、同じようなスーツをいつも着ている。なのに、なぜだろう。急に肩がこそばゆいというか、居場所が悪いというか、背筋が勝手に伸びる感じがした。
ふう、と大きく息を吸う。ノックしようと手を上げた、その瞬間。
ガララ――
引き戸が音を立てて開いた。
白衣に眼鏡の中年男性がひとり。どこかガーフィールド猫みたいな、むすっとした顔つき。その横から、きっちり整えた団子頭の若い女性が、見慣れない紙の書類らしいファイルをいくつも抱えて出てくる。
二人が通り過ぎ、また戸がすっと閉まる。
僕は宙に行き場をなくした手を、空振りのノックみたいに軽く動かしてから、ネクタイを整え直した。そして、改めて手を上げる。
トン、トン――少し間を置いて、二度ノックした。
「失礼いたします。わたくし、スタジオ・ジェネシスの者でございます」
すると中から、低いのに妙に芯のある、落ち着いた男性の声が返ってきた。
「……どうぞ」
引っかからないように、そっと戸を開ける。
目に飛び込んできたのは――高級木材をそのまま張り詰めたような、深い茶色の床。埃ひとつ見えない。大きな窓の外には、小さな木製テラス。さらにその先には、紙をハサミで切り抜いたみたいに、几帳面に整えられた
右手の壁際には、妙に目を引く真っ白な入院用ベッドがひとつ。そこに一人の身体が横たわり、いくつものホースが静かに繋がっていた。その脇の小さな棚には、いくつかの写真立てとインコの形をした小瓶に挿された、
そして、その正面。小ぶりな木製の丸テーブル。青い波だけがゆらゆら揺れている空気清浄機。その前の椅子に、中年の男性がひとり座っている。
僕が自然に部屋の中を視線でなぞっている間に、すいさんが先に口を開いた。
「初めまして。スタジオ・ジェネシスの杉浦と金子でございます」
「ああ……はい。ようこそ、お越しくださいました」
中年の男性――お客様は立ち上がり、僕たちを自分の横の二人掛けソファへ案内した。
腰を下ろした瞬間、僕は彼から目を逸らせなくなる。磁石でも仕込まれているみたいに、視線が吸い寄せられてしまうのだ。
首元まで詰まった、ところどころ
ただ、切れ長で奥行きのある濃い茶色の瞳の下には、
沈黙を先に割ったのは、すいさんだった。
「それにしても、よく整えられたお部屋ですね。事情は伺っております。奥様のことは、本当に――」
言葉が、最後まで形になる前に。
「……大丈夫です。それより契約を進めましょう。早いほうがいいですので」
お客様は淡々と言った。まるで旧式ヒューマノイドと会話しているみたいに、声にも息にも温度がない。
すいさんが用意していた営業用の決まり文句は、机の上で紙を断ち切られたみたいに、途中でふっと消えた。残ったのは、すいさんの口元がほんの一ミリだけ引きつる、その小さな歪みだけだった。
「あ……失礼いたしました。では、契約内容につきまして、医療営業担当の杉浦より改めてご説明いたします」
視線を落とすこともなく、すいさんは
「ホログラム端末はお持ちでないと伺っていますので、こちらを使用いたします。よろしいでしょうか」
「構いません」
「では、契約者様の本名を確認いたします。岩本――ハヌ……ハ……ハヌル様。お間違いありませんね」
「はい」
お客様は鼻筋を一度、指先でゆっくりなぞった。それから一拍だけ間を置き、もう一度、口を開く。
「……数日、お世話になると思います。呼び名は通名のそらでお願いします」
「では、そら様。承知しました」
――ハヌル。音だけが、舌の上に残った。
彼の通名とペンネームなら、すでに知っている。しかし、初めて聞くはずの本名もどこかで聞いたことがある気がした。たしか、何かの漫画か小説だったような……けれど手を伸ばした瞬間に崩れるパズルみたいに、輪郭が掴めない。思い出そうとするほど、記憶は裏返って遠ざかっていく。
今どき珍しい名前でもない。それなのに、なぜだろう。喉の奥に、小さな
僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う うめ紫蘇 @umeboshi03
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