厄落とし

月雲風華

厄落とし

【除夜の鐘】

地方都市「なぎ」の冬は、底冷えがする。盆地特有の、湿り気を帯びて重く沈殿した冷気は、逃げ場を失ったまま街の隅々にまで浸透し、人々の骨の髄まで凍てつかせる。


 十二月三十一日、二十三時を回った頃。佐伯瑞希は、静まり返ったリビングで一人、スマートフォンの淡い光を眺めていた。両親は急な親戚の不幸で隣県へ向かい、今夜は帰らない。古い木造住宅の合わせ目から忍び込む隙間風が、瑞希の足首を冷たく撫でていく。


 不意に、遠くの寺から重厚な音が響いた。


 ――ゴォォォォォン……。


 除夜の鐘だ。百八つの煩悩を祓い、清らかな心で新年を迎えるための儀式。だが、その音は瑞希の耳には、救済の響きというよりは、巨大な鉄塊が世界を押し潰す断末魔のように聞こえた。低く、長く尾を引く残響が、凪いだ空気の層を物理的な圧力となって震わせていく。


 瑞希は寒気を覚え、カーテンの隙間から外を覗いた。

 街灯の下、雪がちらつき始めている。隣家との境界にある庭先で、二つの人影が揺れていた。


 隣に住む高木夫妻だ。夫の高木氏は地域の自治会長を務め、夫人は婦人会の中心人物として、この「椥」の平穏を支える模範的な市民として知られている。二人は防寒着に身を包み、まるで明日の燃えるゴミの出し方でも相談するかのような、あまりに日常的で事務的な佇まいで向き合っていた。


 瑞希は、なぜか視線を逸らすことができなかった。窓を数センチだけ滑らせる。冷気が刃のように入り込み、彼女の頬を刺したが、それ以上に、漏れ聞こえてきた言葉の断片が、彼女の思考を氷結させた。


「……予定通り、二十三時三十分から開始でいいわね?」


 高木夫人の声だった。いつも瑞希に「お勉強、頑張っているわね」と微笑みかける、あの穏やかなトーン。だが、その内容は耳を疑うものだった。


「ああ。寺の方とは打ち合わせ済みだ。今年は例年より鐘の突きを強く、間隔を詰めろと言ってある。……多少の音は、あれでかき消せるだろう」


 高木氏が、手元のタブレット端末を確認しながら応じる。その画面から漏れる青白い光が、彼の彫りの深い顔を、まるで死者の仮面のように不気味に浮かび上がらせていた。


「リストの最終確認をしましょう。まずは三丁目の佐藤さんのところ。あそこの息子さん、もう二年も学校へ行っていないでしょう? 将来的な納税の見込みも薄いし、親も甘やかすばかりで更生の兆しがないわ。社会的損失よ」


「それから、裏の通りの独居老人、加藤さんだ。先月、認知症の徘徊で警察沙汰になった。地域の安全管理コストを著しく増大させている。……彼らもまとめて『在庫処分』の対象だ」


 在庫処分。

 その言葉が、瑞希の鼓動を跳ねさせた。聞き間違いではない。彼らは確かに、近所に住む生きた人間を、倉庫に眠る不良品か何かのように呼んだのだ。


「椥は、美しい街でなければならない。公共の利益に資さない不純物は、新年の前に取り除いておくのが、我々選別委員の義務だ。瑞希ちゃんのご両親も、そのあたりは理解がある方たちだから助かるよ」


 瑞希は息を止めた。

 自分の名前が出た。両親も「理解がある」? まさか、この街の大人たちは全員、この狂気じみた選別を容認しているというのか。


 ――ゴォォォォォン……。


 二度目の鐘が鳴った。

 先ほどよりも、明らかに音が大きく、鋭い。空気が激しく振動し、窓ガラスがガタガタと悲鳴を上げる。


 その轟音の最中、瑞希は気付いてしまった。

 鐘の音が響き渡るのと同時に、どこか遠くで「あ、あああぁぁぁ!」という、短く鋭い絶叫が上がったことを。だが、その声は重厚な鐘の残響に、いとも容易く飲み込まれて消えた。


 高木夫人が、満足げに頷いた。

「いい音ね。これなら、多少の『清掃作業』に伴う雑音も、神聖な儀式の一部として処理できるわ」


 瑞希の指先が、ガタガタと震え出した。

 除夜の鐘。それは煩悩を祓うためのものではない。この街「椥」が、その平穏と美観を維持するために行う、無慈悲な処刑の悲鳴をかき消すための遮音装置なのだ。


 不登校の少年。認知症の老人。身寄りのない者。社会にとって「利益」を生まないと見なされた者たちが、この聖なる夜に、事務的に、効率的に、この世から抹消されていく。


「さて、次は……」


 高木氏がタブレットをスクロールする。その視線が、瑞希のいる佐伯家の方へと向けられたような気がして、彼女は反射的に身を隠した。

 心臓が、耳元で鐘の音よりも激しく警鐘を鳴らしている。


 瑞希は、自分自身を振り返った。成績は上位。学校での素行も問題ない。これまで「優等生」として振る舞ってきた。だが、もし、少しでも基準から外れたら? もし、この街の「公共の利益」にそぐわないと判断されたら?


 暗い部屋の中で、瑞希は自分の吐息が白く濁るのを見た。

 外では、三度目の鐘が鳴ろうとしている。その音は、かつて感じていた安らぎを完全に剥ぎ取られ、今や死神の鎌を研ぐ音にしか聞こえない。


 椥の街は、静かだ。

 あまりにも静かで、あまりにも美しい。

 その美しさが、どれほどの「在庫処分」の上に成り立っているのかを、瑞希は知ってしまった。


 庭先から、雪を踏みしめる音が近づいてくる。

 ザク、ザク、と規則正しい足音。

 高木夫妻の会話は、もう聞こえない。ただ、残酷な意志を秘めた足音だけが、佐伯家の玄関へと向かってくる。


 瑞希は床にへたり込み、口を両手で覆った。

 叫んではいけない。音を立ててはいけない。もし自分が「不良在庫」だと見なされれば、次の鐘の音が、自分の最期をかき消すために鳴り響くことになるのだ。


 一分、あるいは一秒が、永遠のような苦痛を伴って過ぎていく。

 不意に、庭の足音が止まった。


 静寂。

 耳が痛くなるほどの、圧倒的な静寂。


 そして――。


 ピンポーン、と。

 この世で最も日常的で、最も暴力的な電子音が、無人のリビングに突き刺さった。


 瑞希の視界が、恐怖で白く明滅する。インターホンのモニターが、青白く起動した。そこに映っているのは、おそらく。


 瑞希は、震える膝を抱え込み、ただ次の鐘の音が鳴るのを待った。

 それが救いなのか、それとも終わりの合図なのかも分からぬままに。


-------------------


【生存査定】

ピンポーン、という電子音が、静まり返ったリビングの空気を鋭く切り裂いた。


 瑞希は反射的に呼吸を止めた。喉の奥が引き攣り、肺に溜まった空気が熱を帯びていく。モニターに手を伸ばす指は、自分のものとは思えないほど激しく震えていた。

 恐る恐る、インターホンの液晶画面を覗き込む。


 魚眼レンズが捉えたその光景は、悪夢を具現化したような歪みを伴っていた。

 そこに立っていたのは、高木夫人だった。ベージュの高級なダウンコートを纏い、首元には上品なカシミヤのマフラーを巻いている。その身なりは、どこからどう見ても「善良で裕福な隣人」そのものだ。しかし、広角レンズで引き伸ばされた彼女の顔は、中央が異様に膨らみ、縁に向かって溶け落ちるような異形の相を呈していた。


 彼女の背後、暗い夜の底では雪が激しさを増している。

 そして、あの音が響いた。


 ――ゴォォォォォン……。


 四度目の鐘。空気が物理的な質量を持って押し寄せ、家の建付けをガタガタと震わせる。その轟音に紛れるようにして、またしても遠くで「やめて、離して!」という女の叫び声が聞こえた気がした。だが、それは鐘の重厚な残響にかき消され、雪の降る闇の中へと吸い込まれていった。


 高木夫人が、カメラのレンズをじっと見つめている。彼女の瞳はまるで死んだ魚のように光を反射せず、ただ無機質な黒い穴となって瑞希を射抜いていた。

 瑞希は直感した。

 このドアを開けてはいけない。もし鍵を開け、彼女を招き入れてしまえば、自分もまた「在庫」として、あの鐘の音の裏側へと連れ去られる。


 瑞希は震える手で応答ボタンを押した。スピーカーから漏れるノイズが、静寂を汚す。


「……はい。どなたですか」


 精一杯、冷静な声を絞り出す。優等生として、何度も壇上でスピーチをこなしてきた自分を呼び覚ます。恐怖を、喉の奥に無理やり押し込む。


「あら、瑞希ちゃん。夜分に失礼するわね」


 高木夫人の声は、驚くほど艶やかで、慈愛に満ちていた。だが、その語尾には、獲物の喉元を見定める猟犬のような鋭利な冷徹さが潜んでいる。


「ご両親がいらっしゃらないのは、伺っているわ。自治会の『年末特別清掃』の巡回なの。この街を清らかに保つために、一軒一軒、資産価値と資源の確認をさせていただいているのよ」


 清掃。資産価値。

 彼女は、人間を人間として扱っていない。瑞希の背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。


「お気遣いありがとうございます、高木さん。でも、うちは大丈夫です。父も母も、明日の朝には戻りますから……」


「いいえ、瑞希ちゃん。これは『今』行わなければならないことなの。新年の光が差す前に、不純物はすべて処理されなければならない。それがこのなぎの街の、美しき掟でしょう?」


 夫人の顔から、笑みが消えた。モニター越しでもわかる。彼女の視線は、瑞希の肉体を通り越し、彼女の「価値」をスキャンしている。


「瑞希ちゃん。あなたは今年、県内でも指折りの進学校で学年三位を維持したわね。模試の判定もA。将来は国立大学の法学部、あるいは医学部を志望している……。ここまでは、非常に『優良な資源』と言えるわ」


 夫人の指先が、手に持ったタブレット端末の画面を叩く。その冷ややかな音が、インターホンのマイクを通じて瑞希の耳に届く。


「けれど、気になるデータがあるの。先月のボランティア活動、あなたは体調不良を理由に欠席したわね? 地域の互助精神は、この街の存続に不可欠なコストよ。それを怠るということは、納税能力があっても、社会的な維持管理に寄与しない『利己的な不純物』になる可能性があるということ。……どうかしら、瑞希ちゃん。あなたには、これからもこの街に利益をもたらし続ける、確固たる保証があるのかしら?」


 査定が始まった。

 瑞希は、足の指先が麻痺していくのを感じた。これは会話ではない。生存を賭けた裁判だ。

 一歩間違えれば、あの「在庫処分」のリストに、自分の名前が書き加えられる。


 ――ゴォォォォォン……。


 五度目の鐘が鳴る。先ほどよりも間隔が短くなっている。処刑の速度が上がっているのだ。

 瑞希は壁に背を預け、必死に言葉を探した。脳細胞をフル回転させ、最も「正解」に近い論理を組み立てる。


「……高木さん。先月の欠席については、不徳の致すところです。ですが、それは決して怠慢ではありません。私はその時間、次年度の特待生資格を維持するための集中学習に充てていました。私が将来、高度な専門職に就き、この街に高額な納税を行い、また指導的立場として自治に貢献するためには、今、一分一秒を惜しんで自己の価値を高めることが、最も効率的な『投資』であると判断したからです」


 瑞希の声は、自分でも驚くほど硬質で、感情を排したものになっていた。恐怖を遮断し、自分自身を一つの「商品」としてプレゼンテーションする。


「私の生涯推定納税額、および地域への波及効果を算定すれば、一回のボランティア欠席による損失を遥かに上回るはずです。私は『不純物』ではありません。この街が誇るべき、将来の『基幹部品』です」


 沈黙が流れた。

 インターホンのモニターの中で、高木夫人は無表情のまま瑞希の言葉を咀嚼しているようだった。雪はさらに激しく、夫人の肩に白く積もっていく。


「……基幹部品。面白い表現ね」


 夫人が再び、薄く笑った。その笑みは、刃物で切り裂いたような不自然な形をしていた。


「でも、瑞希ちゃん。部品は、壊れたら取り替えられるのよ。あなたの代わりなんて、いくらでもいる。隣の三丁目の佐藤君を知っているかしら? 彼は不登校で、もう『処分』が決まったけれど、彼の両親は泣いて命乞いをしたわ。でも、私たちは情には流されない。この街に必要なのは、感情ではなく、機能なの」


 夫人が一歩、ドアに近づいた。モニター一杯に、彼女の歪んだ顔が広がる。


「あなたは今、自分が『機能』であることを証明しようとした。それは賢明な判断よ. でも、言葉だけでは足りないわ。……瑞希ちゃん、そこにあるドアを開けてちょうだい。あなたの瞳の奥を見て、その決意が本物かどうか、私が直接『検品』してあげる」


 瑞希の心臓が、喉元まで跳ね上がった。

 開けてはいけない。開ければ、彼女の背後に控えているであろう「清掃業者」たちが自分を組み伏せ、トラックの荷台へと放り込むだろう。


「……高木さん。私は、今この瞬間も『生産』を止めていません」


 瑞希は震える手でスマートフォンの画面を操作し、学習管理アプリの記録をカメラに向けた。


「今夜も、私は新年の模試に向けた最終確認を行っています。ドアを開け、挨拶を交わす時間は、私の生産性を損なう無駄なコストです。高木さんが真に『椥』の利益を考える選別委員であるならば、私のこの貴重な時間を奪うことは、街に対する損失だとご理解いただけるはずです。……検品は、結果で示します。次回の全国模試の成績表を、真っ先に自治会へ提出することをお約束します」


 瑞希は、狂気的なまでの冷徹さを演じきった。爪が手のひらに食い込み、血が滲む。それでも、呼吸一つ乱してはならない。


 ――ゴォォォォォン……。


 六度目の鐘。

 その轟音の中で、高木夫人は動かなかった。ただじっとモニターの向こう側を、瑞希の気配を、その魂の強度を測るように凝視していた。


 永遠とも思える時間が過ぎる。

 やがて、夫人は小さく鼻で笑った。


「……いいわ。合格よ。今のところは、ね」


 彼女はタブレットに何かを書き込み、背を向けた。


「瑞希ちゃん、あなたは本当に賢いわ。自分の価値を、正しく理解している。その『冷たさ』こそが、この街の市民として最も必要な資質なのよ。……期待しているわ。あなたが立派な『部品』として、この街の歯車を回し続けてくれることを」


 ザク、ザク、と雪を踏みしめる音が遠ざかっていく。

 モニターのライトが消え、リビングは再び濃密な闇に包まれた。


 瑞希はその場に崩れ落ちた。

 激しい過呼吸が彼女を襲う。床に額を擦り付け、嗚咽を漏らした。

 助かった。

 だが、その代償に、彼女は何かを決定的に損なってしまった。


 ――ゴォォォォォン……。


 七度目の鐘が鳴る。

 遠くで、また誰かの短い悲鳴が上がった。それは、先ほど自分が「価値がない」と断じた、佐藤君のものだったのかもしれない。あるいは、あの徘徊していた老人だったのかもしれない。


 瑞希は、自分の手が氷のように冷たくなっていることに気づいた。

 この街で生き残るということは、自分もまた、あの高木夫人と同じ「選別する側」の論理に染まるということだ。


 外では、鐘の音が激しさを増していく。

 百八つの煩悩を祓う鐘。

 だが、今の瑞希にとって、それは「不要な命」を削り取り、この街を完璧な、静謐な、死の庭へと作り替えていくための、冷酷な彫刻刀の音に他ならなかった。


 瑞希は暗闇の中で、じっと自分の手を見つめた。

 そこにはもう、少女らしい温もりなど、微塵も残っていなかった。


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【お裾分け】

新年の朝は、暴力的なまでの静寂とともに訪れた。


 昨夜、なぎの街を包み込んでいたあの狂気的な除夜の鐘の音も、闇を切り裂くような断末魔も、すべては幻影であったかのように。窓の外に広がる世界は、ただただ白く、清らかに、そして残酷なほどに整っていた。


 佐伯瑞希は、一睡もできぬまま夜を明かした。まぶたの裏には、インターホンのモニター越しに見た高木夫人の、あの三日月のように歪んだ笑みが焼き付いて離れない。


 午前七時。瑞希は重い身体を引きずるようにして玄関へ向かった。

 ドアを開けると、肺の奥まで凍りつかせるような冷気が、肺胞の隅々まで突き刺さる。昨夜の雪は止み、路上には数センチの積雪があるはずだが、驚くべきことに、家の前の私道には一点の汚れも、誰かの足跡さえも残っていなかった。


 「清掃」は、完璧に行われたのだ。

 まるで、最初からそこに誰も訪れなかったかのように。最初から、あの「不純物」など存在しなかったかのように。


 瑞希は震える指先で、門柱に設置された郵便ポストの蓋を開けた。

 カチリ、という乾いた金属音が、静謐な空気の中で不気味に響く。

 中には、新聞の元旦号とともに、一つの小包が入っていた。

 丁寧に白い奉書紙で包まれ、麻の紐で几帳面に結ばれたその包み。表書きには、流麗な、あまりにも美しい毛筆の書体でこう記されていた。


 ――『お裾分け』


 瑞希の心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。

 「お裾分け」。それは本来、幸福や収穫を分かち合うための慈愛に満ちた言葉だ。だが、この椥の街において、その言葉が持つ意味は、辞書に載っているものとは決定的に異なっている。

 彼女は包みを抱え、逃げるように家の中へ戻った。暖房の効いたリビングが、今はかえって窒息しそうなほどに息苦しい。


 ダイニングテーブルの上に、その「お裾分け」を置く。

 瑞希はキッチンから鋏を持ち出し、麻紐を切った。紙を剥がすと、中から現れたのは、見覚えのある二つの品だった。


 一つは、携帯型のゲーム機。

 画面には無数の細かな傷があり、角には使い込まれたことによる塗装の剥げがある。裏側には、人気アニメのキャラクターのシールが、少しだけ斜めに貼られていた。

 それは、隣の三丁目に住んでいた不登校の少年――佐藤君が、いつも肌身離さず持っていたものだった。昨日、高木夫人が「処分が決まった」と告げた、あの少年の。


 瑞希は、その冷たいプラスチックの感触に指を触れた。ボタンの隙間には、まだ彼が昨日まで生きていた証であるかのような、微かな手垢が残っている。だが、その機械に熱は宿っていない。ただの、機能を失ったプラスチックの塊だ。


 もう一つは、重厚な輝きを放つ黒檀の万年筆だった。

 金色のペン先には、精緻な彫刻が施されている。それは、近所に住んでいた独居老人の形見に違いなかった。元教師だというその老人は、公園のベンチでいつもこの万年筆を使い、何かに熱心に筆を走らせていた。「社会的な維持管理に寄与しない」と見なされた、老いた知性の残骸。


 瑞希は、それらをじっと見つめた。

 吐き気がせり上がってくる。この街のシステムは、排除した人間の所有物さえも「資源」として回収し、生き残った「優良な資源」へと再分配するのだ。これを受け取るということは、彼らの死を、その肉体と人生がシュレッダーにかけられた結果として生じた「余剰利益」を、肯定するということだ。


「……これが、私の生存報酬」


 瑞希の声は、乾いた砂のように掠れていた。

 昨夜、彼女は高木夫人に対し、自分を「基幹部品」であると定義した。部品。そう、自分はもう人間ではない。この街という巨大で冷酷な機械を動かすための、代替可能なパーツに過ぎない。


 佐藤君やあの老人は、その機械の回転を阻害する「摩耗した部品」として、昨夜のうちに廃棄された。そして、彼らが持っていたわずかな機能性は、こうして瑞希という新しい部品の潤滑油として差し出されたのだ。


 瑞希はゲーム機を握りしめた。

 指先に力を込めると、プラスチックがミシミシと悲鳴を上げる。

 悲しいとは思わなかった。ただ、圧倒的な「不可逆性」に対する絶望が、彼女の全身を支配していた。


 一度この論理を受け入れ、生存を許された以上、もう後戻りはできない。明日からは、さらに高い生産性を、さらに完璧な「価値」を証明し続けなければならない。もし一度でも躓けば、次は自分が「お裾分け」の品として、誰かのポストに届けられることになる。


 恐怖は、いつの間にか消えていた。

 代わりに、心の中に芽生えたのは、凍てつくような冷徹な決意だった。

 

 生き残る。

 そのためには、選別される側でいてはいけない。

 いつまでも検品を受ける「製品」のままでいては、いつか必ず廃棄される日が来る。

 ならば、自分が「清掃する側」になればいい。

 この街の美しさを維持するために、どの部品が不要で、どの不純物が有害かを判定する、あの高木夫人のような立場に。


 瑞希は立ち上がり、洗面所へと向かった。

 鏡の中に映る自分を見つめる。

 顔色は青白く、目の下には隈が浮いている。だが、その瞳の奥には、以前のような怯えは微塵もなかった。そこにあるのは、緻密な計算と、生存への執着だけだ。


 彼女は、鏡に向かって口角を上げた。

 頬の筋肉を意識的に動かし、理想的な角度を探る。

 最初は、引き攣ったような不自然な形だった。

 だが、瑞希は諦めない。何度も、何度も、筋肉の動きを微調整していく。

 「優良な市民」として、隣人に安心感を与え、同時に底知れぬ威圧感を与えるための、完璧な仮面。


 やがて、鏡の中の少女は、不気味なほどに完璧な微笑みを完成させた。

 慈愛に満ちているようでいて、その実、相手の魂の価値を冷酷に計量する、選別者の笑み。それは昨夜、インターホン越しに自分を追い詰めた高木夫人の笑みと、驚くほど酷似していた。


「あけましておめでとうございます」


 瑞希は、鏡の中の自分に向かって、鈴を転がすような清らかな声で囁いた。

 その声には、もう何の迷いもなかった。

 

 彼女は、万年筆を手に取った。

 死者の遺品であるそのペンを使い、彼女はこれから、自分の価値を証明するための「計画」を書き記していくのだ。

 誰を排除し、誰を残すべきか。

 この街をより「清らか」にするために、自分がなすべき「厄落とし」のリストを。


 窓の外では、新年の陽光が雪に反射し、世界を眩いばかりの白光で満たしていた。

 すべてが新しく塗り替えられた街で、瑞希の新しい人生が始まる。

 それは、人間としての死であり、椥の街の「部品」としての、完璧な誕生であった。


 瑞希の微笑みは、冬の朝の光の中で、いつまでも鏡の表面に張り付いていた。

 その表情が崩れることは、もう二度とない。

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