第2話

 契約の儀が終わった後、俺たちはその足で「契約管理室」へと連行された。

 どうやらルヴィナシアとの契約は、学校側にとっても特級の重要事案らしく、すでに話が通っていたのだ。


 契約管理室は、寮の管理棟の一角にあった。

 薄暗い室内には書類の山が積み上げられ、その奥に一人の女性が座っていた。

 マグダ・ヘルムート室長。銀縁眼鏡の奥から冷徹な光を放つ、鉄の女だ。


「報告は受けています。古代神ルヴィナシアとの契約。対価は……『恋人の営みの供覧』ですね」


 事務的な口調で読み上げられたその内容に、俺とセラフィナは同時に顔を覆った。

 死にたい。今すぐ消えてなくなりたい。


「恥じることはありません。神契約の対価は千差万別。過去には『一日中全裸で過ごす』という対価を要求された英雄もいましたから」


「何の慰めにもなりません……」


 俺が呻くと、マグダ室長は表情一つ変えずに一枚の木札を差し出した。


「こちらを。特別面会許可証です。これを所持していれば、消灯後であっても異性の寮への立ち入り、および専用面会室の使用が許可されます」


「せ、専用面会室……ですか?」


 セラフィナがおずおずと受け取る。


「はい。対価の履行にはプライバシーの確保が不可欠ですから。防音、遮光、あらゆる盗聴防止の結界が施された個室を用意してあります。本日より使用可能です」


「本日より……」


「契約の条項には『毎日』とあります。一日でも怠れば、神の不興を買う恐れがある。したがって、今夜から直ちに履行を開始してください」


 無慈悲な宣告だった。

 俺たちはよろよろと管理室を出た。

 廊下を歩く足取りは重い。


「……あの、カイル様」


 寮への帰り道、セラフィナがぽつりと呟いた。

 夕日が彼女の銀髪を茜色に染めている。その横顔は、戦場に向かう兵士のように悲壮だった。


「今夜、二十二時に。女子寮の裏口で」


「……ああ。わかった」


 まるで決闘の申し込みだ。

 だが、これから俺たちがやることは、決闘よりも遥かに心臓に悪いことだった。



 男子寮の自室に戻ると、すでにリオンがベッドでくつろいでいた。


「おっ、お帰りカイル! どうだったよ契約の儀は? 俺なんてさ、結局どの神様とも縁がなくて……って、おい、顔色が悪いぞ?」


 リオンが心配そうに起き上がる。

 俺は無言でベッドに倒れ込んだ。


「……契約は、したよ」


「マジか! すげえじゃん! どんな神様だ? やっぱり魔法系の?」


「まあ、そんなところだ。ただ、対価がちょっと……重くてな」


「重い? 寿命とかか?」


「いや、もっと精神的にくるやつだ」


 俺はポケットから密会許可証を取り出し、チラリと見せた。

 それを見たリオンの目が点になる。


「お前、それ……特例許可証じゃねえか! しかも消灯後外出可のやつ! これ持ってるのって、相当ヤバい対価を背負った奴だけだぞ……」


「ああ、だから今夜から早速、履行しに行かなきゃならないんだ」


 俺の死んだ魚のような目を見て、リオンは何かを察したらしい。

 同情と、畏怖の入り混じった表情で俺の肩を叩いた。


「詳しいことは聞かねえよ。それが神契約のルールだからな。……生きて帰ってこいよ、カイル」


「戦場に行くわけじゃないんだがな……」


 ある意味、戦場より過酷かもしれない。



 二十二時。

 消灯の鐘が鳴り響き、寮内が静寂に包まれた頃。

 俺は専用面会室の前に立っていた。

 寮の地下にあるその部屋は、重厚な扉で閉ざされている。鍵を開け、中に入ると、そこには予想外にこじんまりとした空間が広がっていた。

 ソファが一脚。小さなテーブル。そして奥には、仮眠用と思われる簡易ベッドが一つ。

 質素だが、清潔感はある。


 先に到着していたセラフィナが、ソファの端に座っていた。

 制服ではなく、白のワンピースにカーディガンを羽織った私服姿だ。髪を下ろしており、昼間の凛とした騎士の姿とはまるで別人のように幼く、可憐に見える。


「……こんばんは、カイル様」


 彼女は立ち上がり、深く一礼した。

 その動作一つ一つが優雅で、育ちの良さを感じさせる。

 だが、その顔は緊張で強張り、指先は小刻みに震えていた。


「こんばんは、セラフィナさん。……座ってくれ。そんなに畏まらなくていい」


「は、はい。失礼いたします」


 俺たちはソファに並んで座った。

 距離は三十センチほど。

 近いようで遠い、絶妙な距離感だ。

 沈黙が落ちる。

 空調の音だけが微かに響く。


 どうすればいいんだ、これ。

 神様が見ている手前、何かアクションを起こさなきゃいけないのは分かっている。だが、初対面の、しかもこんな深窓の令嬢みたいな子相手に、何をどうすればいい?


「あの、カイル様。わたくし、男性とこのような……夜に二人きりになるのは初めてでして」


 セラフィナが消え入りそうな声で言った。


「その、手順などもよく分からず……不束者ですが、ご指導いただければと」


「俺だって初めてだよ! 指導なんてできるか!」


 思わずツッコミを入れてしまった。

 彼女は目を丸くし、それからふっと小さく笑った。


「ふふ……そうですか。カイル様も初めてなのですね。それを聞いて、少し安心いたしました」


「そりゃあな。俺みたいなのに女っ気があるわけないだろ」


 少しだけ空気が緩んだ。

 俺は深呼吸をして、覚悟を決めた。

 これは任務だ。業務だ。世界の平和のため……ではないが、俺たちの異能のために必要な対価なのだ。


「とりあえず……手、繋いでみるか?」


「手、ですか。……はい、わかりました」


 セラフィナがおずおずと左手を差し出す。

 白くて、細い指。でも、掌には剣だこがあるのが見て取れた。

 俺は自分の右手を重ね、そっと握った。

 彼女の手は少し冷たくて、でも柔らかかった。


『うーん、しょっぱいねぇ』


 脳内に直接、ルヴィナシアの声が響いた。

 俺とセラフィナは同時にビクリと肩を震わせる。


『小学生のお付き合いじゃないんだからさぁ。もっとこう、密着度を高めてくれないと。僕の好奇心が満たされないよぉ』


 うるさい神様だ。

 俺はセラフィナと顔を見合わせた。彼女も声が聞こえたらしく、涙目になっている。


「……だ、そうです」


「聞こえました……。もっと、密着しろと……」


 セラフィナは決死の覚悟を決めたように、ギュッと目を閉じた。


「カイル様。わたくしは武家の娘。一度決めたことはやり遂げます。……どうぞ、わたくしを抱き寄せてください」


「い、いいのか?」


「許可します。業務ですから」


 業務。いい言葉だ。全ての羞恥心と倫理観をその二文字でラッピングできる。

 俺は頷き、意を決して彼女の肩に腕を回した。

 引き寄せると、彼女の身体は驚くほど軽く、そして硬直していた。

 石像を抱いているみたいだ。


「ち、近いです……」


「そりゃ抱き合ってるからな」


 彼女の頭が俺の胸元に触れる。

 シャンプーの良い匂いが鼻をくすぐる。フローラル系の、甘い香り。

 心臓が早鐘を打っているのが自分でもわかった。彼女の心音も、服越しに伝わってくるようだ。


 ――これで文句ないだろ?


 俺は心の中で神に問いかけた。

 だが、返ってきたのは呆れを含んだ声だった。


『甘いなぁ。全然甘くないよぉ。もっと熱情的なやつをお願いしたいね。具体的に言うと、唇と唇を重ねるとかさ』


 キスしろってことかよ!

 俺の心の叫びは、またしてもセラフィナに共有されたらしい。

 彼女はパッと顔を上げ、俺を見つめた。その顔は茹で上がった蛸のように真っ赤だ。


「き、きき、キス……!? 初日で、ですか!? 早くありませんこと!?」


「俺に言うなよ……。神様の要求だ」


「で、ですが……キスなんて、結婚する相手とするものでは……」


 彼女はおしとやかだが、貞操観念は古風で堅固らしい。

 しかし、ここで拒否すれば契約不履行。異能没収。最悪の場合、天罰だ。

 俺たちは追い詰められていた。


「セラフィナさん。……これは、人工呼吸のようなものだと思おう」


「人工呼吸……ですか?」


「ああ。救命措置だ。俺たちの未来を救うための」


 我ながら苦しい言い訳だ。

 だが、セラフィナは少し考え込んだ後、真剣な表情で頷いた。


「……わかりました。カイル様がそう仰るなら。これは救命措置……医療行為の一環……」


 彼女はブツブツと自分に言い聞かせると、震える手で俺のシャツの裾を掴んだ。


「準備、できました。……お願いします」


 彼女がそっと目を閉じる。

 長い睫毛が震えている。薄く開いた唇は、桜色で、瑞々しく潤っていた。

 俺は唾を飲み込んだ。

 やるしかない。男なら、ここで引くわけにはいかない。


 俺は彼女の頬に手を添えた。熱い。火傷しそうなくらいだ。

 ゆっくりと顔を近づける。

 互いの吐息が混じり合う距離。

 そして――


 触れた。

 柔らかい感触。

 マシュマロよりも柔らかく、温かい。

 ほんの一瞬、軽く触れるだけのキス。

 「チュッ」という可愛らしい音が、静かな部屋に響いた。


 俺はすぐに顔を離した。

 心臓が破裂しそうだ。これで十分だろう。これ以上は俺の精神が持たない。


「……っ」


 セラフィナは目を開け、呆然と俺を見ていた。

 その瞳は潤み、焦点が定まっていない。

 怒っているだろうか。それとも泣き出すだろうか。

 俺が謝罪の言葉を探していると、彼女の口から思いがけない言葉が漏れた。


「……ふわぁ……」


 それは、ため息のような、感嘆のような声だった。

 彼女は自分の唇に指先で触れ、夢見心地で呟く。


「なんだか……頭が、ぽわぽわします……」


「え?」


「カイル様の唇……不思議な感触でした。柔らかくて、温かくて……それに、電気が走ったみたいに、背筋がゾクゾクして……」


 彼女は俺を見上げた。

 その瞳に宿っているのは、羞恥だけではない。何かもっと、熱を帯びた感情。

 それは、初めて知った甘い蜜の味に魅せられた子供のような、純粋な渇望だった。


「あの……カイル様」


 彼女は上目遣いで、シャツの裾をクイと引いた。


「業務……ですよね? 神様が満足されるまで、やるのですよね?」


「あ、ああ。まあ、そうだが……」


「今のだけでは、神様もまだ物足りないのではないかと……わたくし、愚考いたします」


 彼女の顔は赤いままだったが、その言葉には奇妙な積極性があった。


「もう一度……確認のために、してみませんか? 今度はもう少し、長く」


 俺は息を呑んだ。

 おしとやかで真面目な彼女が、自分からねだっている?

 いや、これは真面目さゆえの暴走か? それとも、本能的に何かに目覚めてしまったのか?


 拒否できるはずもなかった。

 俺は無言で頷き、再び彼女を抱き寄せた。

 今度は、彼女の方から腕を俺の首に回してくる。

 二度目のキスは、最初よりも長く、深く、そして甘かった。


『おやおや。素質あるねぇ、あの子』


 脳内で神が楽しげに笑う声を聞きながら、俺は、とんでもない泥沼に足を踏み入れてしまったことを悟っていた。


 翌朝。

 寮の食堂で顔を合わせた俺たちは、互いに目も合わせられず、真っ赤になって下を向きながらパンを齧ることになった。

 だが、その日の放課後には、またあの面会室で「業務」が待っている。

 俺たちの奇妙で、甘くて、そして過酷な日々が、こうして幕を開けたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月3日 12:01
2026年1月3日 13:01
2026年1月3日 14:01

チート異能の対価が毎日のイチャラブだったので、女騎士と任務として愛を営んでいます タツキ屋 @tatsukiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画