第16話 静かな衝撃
6 永田兆治郎 捜査一課 警部補
デスクの上に山積みにされている捜査資料の横に、見覚えのない黄色い付箋が貼られていた。永田は怪訝な表情を浮かべ、それを取った。
「永田警部補宛に拘置所から入電あり。大槻京詞郎が会って話がしたいとのこと」
非番の時に貼られたものだろうと永田は顎を掻いた。椅子に腰を下ろしながら首を捻った。
大槻京詞郎は、先日逮捕された組織的な強盗事件の指示役の男だ。永田は連行に駆り出された経緯があった。彼は高校の社会科教師で、友人の網代一輝の担任教師でもあった。危険な人物が担任をしていたなんて、今でも信じられない。
今更会って、何を話したいと言うのか──。永田は付箋を指先で弄びながら、大槻が話すであろう内容を考えた。他の実行役の名前を吐く代わりに減刑を持ちかけてくるのではないか。だが永田は逮捕に向かった応援にすぎない。
話すなら俺じゃないだろう──。そう思いながら永田は電話機を手に取った。
「昨日、伝言をもらった永田ですが、大槻の件です。今日行きたいんですが、面会室は空いてますか?」
「はい。10時以降でしたら空いています」拘置所の担当職員は低く落ち着いた声で言った。
永田は承知した旨を伝え、腕時計に目を落とした。ちょうど9時5分になろうとしていた。
「10時にそちらに向かいます」
「わかりました。調整しておきます」
「ありがとうございます」永田は電話を切った。
ここからなら拘置所まで車で30分といったところか。永田は席を立つと、係長にこう言った。
「ちょっと今から拘置所に行って大槻と話をしてきます」
「大槻?」係長は太い眉を片方だけ上げた。「強盗で逮捕した奴か」
「はい。俺と直接話したいことがあるそうで」
「そうか」係長は腕を組んで低く唸った。「わかった、それじゃ行ってこい」
永田は返事をして頷き、捜査用車両の鍵を取って警察署を後にした。
車内の窓越しに見る拘置所は、まるで鉄の要塞だった。正門横の受付で警察手帳を見せると、若手の男性職員が姿勢を正して敬礼した。入ってもいいということだろう。
所内に入ると、陽の当たらない陰の涼しさを感じた。永田は思わず腕を擦った。
「永田警部補ですね」低い声で分かった。電話対応してくれた拘置所の職員だ。年齢は40代半ばに見える。肩幅が広く、表情から感情が読み取れない。
「はい。そうです」
「それでは、所持品をこちらに預けてください」男性職員は受付の窓口を手で示した。
永田は受付でスマートフォンや鍵類を預けると、男性職員の方へ体を向け頷いた。準備ができたという意思表示だ。
「ご案内します」
永田は男性職員の後についていく形で歩みを進めた。彼が腰につけた鍵束が揺れる音と、2人の足音だけが所内に響いていた。奥に行くにつれてまた温度が下がったように感じる。
やがてドアの前で止まった。第一面会室と書かれたアクリル板がドアの上部に掲げられていた。ドアノブに手を掛けると、ヒンヤリと冷たかった。
「大槻を連れて参りますので、中でお待ちください」
「わかりました」
中に入ると、鉄の格子が入った窓が目に入った。日光が入ってきて、眩しいほどだった。椅子が2脚、机を挟んで置かれており、永田は手前の椅子に腰を下ろした。背もたれに体を預けて背中を伸ばした。
体感だが3分ほど経った後、廊下からサンダルで歩いたような足音が聞こえてきた。永田は首の骨を鳴らした。
ドアが開くと、男性職員に連れられ大槻京詞郎が向かいに座った。白いシャツにスラックスという出で立ちで、以前よりも頬がこけて老けて見える。高校教師の面影はすっかり消えていた。
腰に白い綿の縄が、腕には手錠がかけられていた。腰の縄が椅子に固定されると、大槻は指を組んで机の上に置いた。
大槻は男性職員に鋭い眼光を向けてから、永田へ視線を移した。深く溜め息をつくと、
「いやぁ、永田警部補。遠いところすまないな」
「それで、話というのはなんだ?」永田は腕を組んで背もたれに寄りかかった。
「つれないな。話し相手がいなくて困ってるんだ。少しぐらい……」
「用件だけを言え」と脇にいた男性職員が言葉を遮り叱責した。
「分かった、分かった」大槻は手を広げた。「それじゃ、単刀直入に伝える」目が真剣なものに変わった。
「絵本千沙都が亡くなった事件を調べているそうだな」
「だったら?」なぜ絵本千沙都の名前を知っているんだ──。永田は顔に出さず訊いた。わずかに背中が浮いた。
大槻は鼻で笑い「上手いな、さすが刑事だ。顔に出ない」と言った。
だが、と言って口元を緩めながら大槻は続けた。「体に反応が出ているな。図星だろ?」
コイツ、反応を見て楽しんでいるな──。
「用は済んだみたいだな」永田が勢いよく腰を浮かせた瞬間、
「悪かったよ。さっきも言ったが、話し相手がいないんだ。大目に見てくれ。事件について知っていると言ったら、座ってくれるか?」
「早く要点を言え。こっちだって暇じゃないんだ」永田は目を細めながら腰を下ろした。
拘置所にいた人間が知りようのない情報を、なぜ知っているのか気になった。
「わかった、それじゃ言おう」大槻は言った。「千蔭は犯人じゃない。これだけが言いたかった。あの子は母親を殺していない」
「それはどういうことだ?」今にも前のめりになって聞き出したいところだったが、寸前のところで堪えた。
「千沙都が亡くなる数週間も前から、千蔭は別の場所にいたからだ。警部補が一番知っているんじゃないか?」大槻は組んだ指の先を、永田の方へ向けた。
記憶を呼び起こしたが、まったく見当がつかない。気付けば永田の眉には皺が刻まれていた。
「俺が連行される時だ。警部補の隣にいただろう、誰がいた?」
「男子生徒だ」
「そうだ。ただの男子生徒だ。だが警部補にとっては違う。名前で呼んでいたじゃないか、一輝と」
網代一輝──永田の古くからの友人だ。網代の両親が殺害された事件を担当して以来、彼のことを気にかけている。
「俺があの時、彼に何と言ったのかを思い出してみろ」
『お前の推理じゃないことは分かってる。千蔭によろしくと伝えておいてくれ』
脳裏に蘇ってきた。網代に言った言葉だ。大槻は捲し立てるように続けた。
「千蔭は今、網代のところにいる。一緒に暮らしてるんだ。猫の姿でな」
にわかに信じられない内容だ。人間が猫になるなんて非現実的な出来事だ。
「猫だと?」永田は鼻で笑った。「冗談も大概にしろ」
「だったら本人たちに訊いてみるといい」
永田は先週のことを思い出していた──絵本千沙都の捜査資料を見ながら、網代に電話を掛けた日だ。
行方不明になっている娘の名前の千蔭と、大槻が言った『千蔭によろしくと伝えてくれ』という言葉に引っかかっていたからだ。
千蔭という名前は珍しいし、何か知っているのではないかと淡い期待を抱いての電話だった。
網代に千蔭について知っているかと訊いた時、電話口から動揺した息遣いが聞こえた。だが、その時は言っていることに筋が通っていたから気にせずにいた。
『永田さんがうちに来たときにいた猫がチカゲという名前で、大槻先生とも猫の話で盛り上がったんで、飼っている猫によろしくと言ったんだと思います』
と網代は言っていた。だが目の前の犯罪者の言うことを信じて、長い付き合いの網代を疑うなど、道理に合わない。
「デタラメを言うな。誰もお前のことなんて信じない」
「千沙都の戸籍を調べてみろ」
「何だと?」永田の眉毛が吊り上がった。
「千沙都とは元夫婦で、千蔭は俺の娘だ。署に戻ってすぐに裏を取るといい。記録は誤魔化しようがないからな」
大槻は嘲笑うように言った。
「千蔭が猫になったのは、ある追っ手から逃げるためだ。もちろん信じなくていい。でもこれが真実だ」
「何だその追っ手というのは」永田は身を乗り出した。
「もう用は済んだ。これ以上話すことはない」
大槻は男性職員を見上げた後に立ち上がった。腰縄が解かれると、彼は歩き出した。
「おい!」永田は出て行こうとする被収容者を呼び止めた。
「ここからは自分で調べることだな」
突き放すように静かに告げると、大槻は第一面会室から出て行った。
永田は拳を作ると、力いっぱい机を叩いた。
受付で私物を受け取ると、永田は車に乗り込んだ。すぐに走り出すことができなかった。
座席に背中を預けると、ポケットからスマートフォンを取り出し操作した。面会室で話している間、連絡がなかったか確かめたかったからだ。
不在着信が2件入っていた。2件とも地域課の佐久間巡査からだった。発信ボタンをタップし、耳に当てた。
ワンコールで繋がった。「もしもし、すみません。何度も電話して」
「いや、大丈夫だ」聞き覚えのある声に安堵した。頭の中から早くあの犯罪者の声を消したかった。
「警部補、大丈夫ですか?」
「問題ない。それより、用件を言え。2度もかけてくるということは大事な用件なんだろう?」
「はい」佐久間は言った。「実は、先程まで絵本千沙都の職場に行ってきまして」
「そうか。それで何が分かった?」
巡査からの報告で分かったのは、絵本千沙都は同僚たちと良好な関係を築いていて、客とのトラブルもなかったということだった。そして永田が気になったのは次に言った佐久間の言葉だった。
「俺たちの他にも、絵本千沙都のことについて調べている人物がいるみたいなんです」
「誰だ?」永田は体を起こしてハンドルを掴んだ。
「歳は高校生くらいの男性で、何やら娘の千蔭さんと知り合いらしいんです」
「それはいつのことだ?」永田の頭の中で、見覚えのある顔が浮かんだ。
「昨日です。男性は同僚の1人に絵本千沙都さんが亡くなった日、他に変わったことはなかったか、と訊いたそうです」
「それで、その同僚はどう答えてた?」
電話口から手帳を開く音が聞こえた。間を置いて佐久間は答えた。
「午後2時頃、社長から化粧品の箱が入った紙袋を預かって、1時間後の3時にお得意様に渡すように頼まれたと。些細なことでも構わないのでと、男性に言われたそうです。なので思わず答えてしまったと」
永田はスマートフォンを持ち替え、手を口に当てた──よく考えるときにする仕草だ。
「なるほどな」
「何か分かったんですか?」答えを求める時の期待を込めたような口調だ。
「佐久間、悪い。一旦この件を俺に預けてくれないか。調べたいことがある」
「分かりました」
「ああ、そうだ。佐久間、頼みたいことがある。絵本千沙都の戸籍を調べておいてくれ。離婚した相手を知りたい」
「……分かりました」
通話終了をタップし、電源ボタンを押すと助手席にそれを投げた。キーを回しエンジンをかけると、署に向かう逆方向へ車を走らせた。
アイツに聞き出さなければならない。隠していることを洗いざらい話してもらう──。
永田はハンドルを強く握った。
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