第15話 母の秘め事


 5 網代一輝 高校生


 絵本さんが次に行きたいと言い出したのは、彼女が住んでいた場所──絵本千沙都が亡くなった部屋だった。刑事ドラマでよく見る現場検証というやつだろう。


 ただの男子高校生である俺が、部屋に入れるものなのだろうかと不安に覚える中、絵本さんの足取りは早かった。最寄り駅に降りると、彼女は肩に掛けていたバッグからピョンと出てきた。狭いところに入れられて運ばれるのがよっぽど嫌だったのだろう。


 俺は絵本さんの後をついていった。彼女の住む町は、先日行った市立図書館よりも遠く、俺のいるS町から電車で30分もかかるところだった。


「アスファルトって思ったよりも熱いのね」絵本さんは自身の肉球を見ながら言った。「まぁ、いいわ」と言ってまた歩き出した。


 俺は絵本さんにかける言葉を探していた。今から彼女は自分の親が亡くなった場所に行くのだ。どういった心境なのか読み取れないほど、態度や口調がいつもと変わらない。


「絵本さん、俺……」俺に何かできることはないかと言おうと思ったが、


「わたしね、母のことよく知らないの」と遮ってきた。


「知らないってどういうことだよ、一緒に住んでたんだろ?」俺は眉間に皺を寄せた。


「住んでたけど、顔を合わせなかったの」絵本さんは淡々と言った。「小さい頃から凄く厳しくて、あの人の笑顔、結局最後まで見られなかった」


「そんなのって……」


 俺は自分の過去と重ねた。小学生の時に俺は両方の親を亡くしている。最後に覚えているのは2人の笑顔だった。愛情深い優しい笑顔だった。


「だからずっとわたしは、あの人に褒めてもらえるように良い自分を演じたの。それでやっと怒られることはなくなったわ。今はもう本来のわたしだけど。気にする相手がもういないから」


「そうだったのか」と反射的に言葉が出ていた。彼女のことを少し知った気でいたけれど、まだまだのようだ。俺は小さく息を吐いた。


 やがて高架橋の下を通ると、道が開けてきた。吹く風が心地良かった。右手に広大な緑の絨毯が見える──田んぼだ。見とれていると、絵本さんが言った。


「もう先客が来ているみたい」


 彼女が見ていたのは右手の方だった。2階建てのアパートがあり、奥に多くの家が建っていた。


「アパートの方。網代くんの知り合いがいるわよ」


 俺は目を凝らした。俺のいる位置からアパートのある位置まで30メートルほどといったところか。3人の男性らしき人影がちょうどアパートの階段を上がっていくところだった。


「よく見えるな」俺は更に目を細めた。「やっぱり見えない」


 絵本さんは獲物を狙うような鋭い目をアパートに向けた後、考え込むようにゆっくりと歩いた。


「永田さんが来てるの」絵本さんは足を止めた。「もう警察が調べているみたいだし、わたしたちは別の場所に行きましょ。ここにいても時間の無駄よ」


「警察?」警察が来ているのに規制線が見えない。それにボンヤリとだが、スーツ姿ではなくて私服のように見える。


「網代くん?ほら、行くわよ」すでに彼女は迷いのない足取りで、来た道を元に戻っていた。


「あっ、待ってくれ。別の場所って言っても、どこに行くんだよ?」俺は彼女を追いかけながら、ポケットからハンカチを取り出して汗を拭った。


「交友関係よ。捜査の基本。習わなかったの?」


 習うわけないだろ、という顔を絵本さんに向け、俺は言った。


「それでどこに行くのか心当たりはあるのか?」 


「明確なものはないわ。だってわたし母親のこと知らないもの」絵本さんは言った。「でも今、頭の中で考えをまとめてるの。訊いてくれる?」


「ああ、いいけど」


「あの人はいつも、足の親指の付け根が変形して外側に曲がっていて、爪も皮膚に食い込んでいた。それぞれ、外反母趾と陥入爪(かんにゅうそう)の症状よ。分かる?」


 彼女が言った状態を頭の中で想像してみた。分かったことと言えば、


「痛そうだな」


「まぁ、そうね」訊いた相手を間違えたような相づちだった。「この症状が出るのは、長時間ヒールを履いている人に多いの。そして、あの人が帰宅してきたときにファンデーションやパウダーが混ざったような複雑な匂いがした。このことから、ヒールを履いて化粧品を売っている職業だということがわかる。


 そうなってくると、場所が限られてくるでしょ。薬局はないわね。ヒールを履かないから。だとすると、百貨店か専門店になる。ここからの通勤圏内で考えると、場所はひとつしかない。藤堂百貨店よ」


「藤堂……」俺は宙を見た。「あの大きい百貨店か」


 何度か行ったことがあるな。伯父と伯母に連れられて高校の制服を買ったのが直近の思い出だ。その後7階のレストランでそばを食べた。値段が高かったのをよく覚えている。


「そう。藤堂グループがやっている百貨店。他の事業から撤退したって新聞で読んだけど、百貨店はどうなるのかしらね」


「縁起でもないことを言うもんじゃない」俺は絵本さんの隣を歩いた。「あそこは皆が利用してるんだから本とか雑貨とかいろんなもの売ってるし」


「まぁ、行ってみましょ。そこにあの人の同僚がいるはずだから」


「わかった」


 藤堂百貨店は、絵本さんたちが住んでいたアパートから電車で2駅と近かった。亡くなった彼女の母親──絵本千沙都もこの電車を利用し通勤していたのだろう。


 建物の階層は7階で、近くで目の当たりにすると大きさをより感じる。日曜日ということもあり、多くの利用客で混雑していた。化粧品売り場は1階のようだ。俺は入ってすぐ目の前にあるエスカレーターを利用するだけで、1階は縁遠い世界だ。


「それで、俺たち警察じゃないけど、どうやって聞き込みをするんだ?」


 俺は肩に掛けているバッグに視線を移した。さすがにこの人混みに彼女も観念して、バッグの中に入っていた。


「まずは警戒されないように近づくの。母親にプレゼントがしたいから、選ぶの手伝ってくれませんかってね」


「母親か……」


「あっ、ごめん」以前に絵本さんには両親のことを話している。


「いや、大丈夫だ。その作戦で行こう」


「うん」


 百貨店の中に入るとまず、フロアマップを見た。1階すべてのフロアが化粧品売り場のようだ。辺りを見回すと、有名な女優が口紅を塗っているポスターが貼られている。目元だけを写した写真には綺麗なまつ毛が写し出されていた。


 人混みを掻き分けながら歩いていると、


「ここよ」とバッグの中から声が聞こえた。他の人からは猫の鳴き声にしか聞こえないため、外で話すときは注意が必要だが、この人混みなら猫の鳴き声など気に留めないだろう。


「ここか?」


 立ち止まった売り場は、どこか落ち着いた雰囲気だった。鼻に突く甘いような、何かが混ざったような複雑な匂い。


 俺は絵本さんがここへ来る前に推理を話していたときのことを思い出していた。


 「ファンデーションやパウダーが混ざったような複雑な匂いがした」彼女は匂いで判別したのか。これが猫の嗅覚なのか。感心していると、バッグから猫の頭が出てきた。


「間違いない。部屋にあったブランドがある。あの人、ここですべてを揃えていたのね」


 社員の鏡じゃないかと思っていたら、次は前足が出てきた。


「あの人に聞いてみて」


 足が伸びた先を見ると、若い女性店員がいた。身長は小柄で目が大きい。年齢は20代といったところだろうか。他の店員と比べると、話しかけやすい印象を覚えた。絵本さんもそう思って選んだのかもしれない。他の店員はいかにもベテランといった感じだ。


「分かった」


 女性店員の方に近づくと、気配を感じてか相手の方が先に気付いた。胸元のネームプレートを見ると斎藤と記されていた。


「いらっしゃいませ」斎藤さんは眩しい笑顔を見せた。「何をお探しですか?」


「母の誕生日が近いんで、プレゼントを選ぼうかと……」


「それはいいですね。でしたらこちらがおすすめですよ。先週発売したばかりで最新の──」


 一生懸命説明してくれるのはありがたいが、どうアプローチして話を絵本さんのお母さんに持っていくかで頭がいっぱいで内容が頭に入ってこない。


「あの……」俺は思考を巡らせた。「ここに絵本さんという店員さんはいましたか?」


「え?」斎藤さんから笑顔が消えた。大きな目だけが開かれていた。「いますよ。正確に言うと、いました」


「以前、ここに来たときに絵本さんに接客してもらったんです」俺は店内を見回した。「今日はいないみたいなので聞いてみたんですけど」


 斎藤さんの顔が固くなった。目だけで周囲を見てから「亡くなったんです」と声をひそめた。


「そうだったんですか」俺は声を落とした。「すごく親切にいろいろ教えてくれて。いい人だったのに」


「わたしにも接客のいろはを教えてくれて……良い先輩だったのに病気で亡くなるなんて。やっぱりあの時……」


「何かあったんですか?」俺は静かに訊いた。自然体でいることに注意を払った。


「あっいや、頭が痛いって」斎藤さんは後頭部に手を当てた。「ここが痛いって、退勤する時に言ってたんです。病院に行った方がいいってあの時強く言っていれば」


「あまりご自身を責めないでください」心からの声だった。そういう後悔は心を蝕むのを俺は知っている。


「ありがとうございます」斎藤さんは目元を指で拭った。


 次の瞬間、俺の脇腹に絵本さんの肉球が当たった。何度も力強く押してくる。痛いほどだ。バッグが揺れないように手で強く押さえた。その様子を斎藤さんは心配そうに見つめて言った。


「どうされました?」


「いえ、ちょっとトイレに行ってきます。またここに来ます」


「はい」


 俺は急いでその場から離れた。出てすぐ右手に行き、自動販売機の脇にあるベンチに腰を下ろした。ここなら小声で話しても大丈夫だろう。


「絵本さん、いきなりなんだよ。順調だったろ」


「ええ、すごく上手かったわ。将来スパイになれるんじゃないかってバッグの中で感心してたほどよ」


「だったら──」


「訊いてほしいことがあるから会話を止めたの」


「訊いてほしいこと?」俺はパンチされた脇腹を擦った。


「そう。あの人が亡くなった日、他に何か異変がなかったのかを聞き出してほしいの。些細なことでもいいからってちゃんと付け加えて」


「わかった、やってみるよ」俺は頷いてから立ち上がった。


 俺は大きく息を吐いてから、やれやれといった表情を作った。斎藤さんと目が合うと、軽く会釈をした。


「すみません、いきなり」


「いえ、大丈夫でしたか?」


「はい」俺は笑顔を作った。「大丈夫です。ご心配かけました」


「あの、絵本が案内した商品ってどの商品ですか?在庫も確認したいので……」


「えっと……」俺はショーケースにある化粧品を見た。嘘がバレてはいけない。「これです」と近くにあった香水を指差した。


「それでしたら、在庫はありますよ」斎藤さんに笑みが戻っていた。さすが接客のプロだと俺は感心していた。


「あっ、すみません」俺は受付カウンターへ行く彼女を呼び止めた。このままでは訊くタイミングを逃してしまう。


「どうされました?」斎藤さんは振り返って首を傾げた。


「あの……絵本さんが亡くなった日って、何か他に変わったことありませんでしたか?」


 斎藤さんは眉間に皺を寄せ、むりやり口角を上げた。「どうしてそのような質問をされるんですか?」


「深い意味はないんです」心臓が飛び出そうなほど、拍動が速くなるのを感じる。俺は後頭部を掻いた。


「実は俺、絵本さんの娘さんの千蔭さんと知り合いなんです。悲しそうにしている彼女が放っておけなくてここに来ました。心不全なんておかしい。何かあるはずなんです。だから、教えてくれませんか。些細なことでも結構なので変わったことがあれば」


 こうなっては正直に言うしかない。絵本さんが思っていることを俺は代弁した。


「千蔭ちゃんの……そうだったんですか」斎藤さんは指を組んで、視線をそらした。「先輩、千蔭ちゃんのことを誇らしそうに話していました。」


 肩に掛けていたバッグが動いた気がした。


「そうでしたか」絵本さんから訊いていた話とだいぶ違うな。


 斎藤さんは考え込む表情に変わった。どうやら記憶を呼び起こしてくれているようだ。


「そういえばあの日、社長から化粧品の箱が入った紙袋をお預かりしました。お得意様に渡してほしいと」


 脇腹にまた押してくる痛みを感じる。もっと詳しく、ということだと俺は認識した。


「それは何時頃でしたか?」


「たしか……」斎藤さんは唇に手を当てて目を瞑った。「社長から紙袋をお預かりしたのが午後2時頃で、渡したのが午後3時でした。男性のお客さまでした」


 脇腹に当たっていた足が引っ込んだ。これで十分ということだろう。


「ありがとうございました」俺は頭を下げた。


 礼を言って指定した香水を購入すると、俺は百貨店を後にした。


 外はもうすっかり夕暮れ時になっていた。まとわりつくような風が体を包み込んだ。今はこの風も心地よいと感じるほど、俺の神経はすり減っていた。


「絵本さん、大丈夫か?」


 彼女は答えなかった。代わりに小さく爪を立ててカリカリと掻いた。斎藤さんから訊いた言葉が堪えているのだろう。絵本さんはずっと母親の笑顔を見ずに育った。そんな母親が、外では娘のことを誇らしげに話している。受け止めきれないよな。


 俺はそれ以上何も言わず、バッグを抱え直して帰路についた。


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