最初の事件編

第3話 書籍暗号

 1


 早朝、呼吸困難で目を覚ました。猫が前足で俺の鼻を塞いでいたのだ。


 俺は重たい瞼を擦りながら、枕元にいる猫の全身に焦点を当てる。彼女はピンと姿勢を正し、こちらを見下ろしていた。


「おはよう……絵本さん」


「おはよう、網代くん」


「危うく同居人を殺すところだったぞ」


「色々考えたのよ、猫らしい可愛げな起こし方をね。喉元に噛みついたり、目を引っ掻いたり……」


「ありがとう、鼻を選んでくれて」


 俺は完全にベッドから体を起こした。近くにあったスマートフォンの電源を入れると、時刻は5時と表示されていた。


「早くないか?」


「仕方がないでしょ。元人間とはいえ、体内時計は猫で動いてるんだから」

 

「うーん」俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。


 猫になった元人間、絵本千蔭との生活が始まり1週間が経った。猫の世話に必要なものは、去年まで猫と一緒に暮らしていた大家さんから譲り受けた。


 未だに猫化の謎が解けず、俺は今、彼女の食事を作っている。

 

 猫が食べてはいけないものを色々調べた。ネギ類が食べてはいけないことは受け入れてくれた。だが、


「カフェインが摂れないなんて信じられない!チョコも好きなのに」と嘆いていた。


「できた」俺はキッチンから居間に移動し、テーブルに置いた。


「えー、今日もリンゴ」絵本さんはうんざりしたような口調で言った。


「他のは高いんだ。許してくれ」


 口には出さないが、朝5時からリンゴの皮をピーラーで剥いて、食べやすい一口サイズに包丁で切った手間を労ってほしい。


 彼女の咀嚼する音を横目に、俺はテレビのリモコンを取った。つけると、丁度天気予報が流れていた。今日俺の住んでいる地域は晴れのようだ。


「ごちそうさま。ねぇ、網代くん」


「うん?」俺はテレビから視線を離さなかった。


「本棚にある本、本当に良い趣味してる。傑作の名作揃いで、上質なミステリー小説が置いてある」


「煽てても朝食の内容は変わらないぞ」


「違うの」


 俺は怪訝な表情になったことを自覚した。視線を絵本さんに移した。


「もう全部読み終わっちゃった」


「えっ、30冊以上はあったぞ。1週間で読んだのか?」


「ええ」絵本さんはさも当たり前のように言った。


 俺は鼻で大きく息を吐いた。早すぎだろ。


「そこで、お願いがあるんだけど……新しい本が欲しい」


「いや、無理だ」


「何で?」


「経済的な理由だよ。1週間で30冊も読む人を満足させるだけの本を買ったら、いくらかかると思う?」


「それなら……借りるのよ」


 絵本さんの言葉を頭に落とし込み、整理する。なるほど、そういうことか。


「図書館はここからかなり遠い。図書室なら、借りてきてやれる」


「そうと決まれば、頼みたい本があるんだけど」


 俺は彼女から指定された小説をメモして、高校へ登校する支度を始めた。



 2


 放課後になり、図書室へ向かった。校舎の2階、西側に位置する。日当たりは悪く、ここだけ少し気温が低い。


 木の引き戸を開けると、利用している生徒は見当たらない。奥の方を見たが、誰もいなかった。


「あれ、網代くん?」


 背後にある受付カウンターから、女性の声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。俺は振り向いて、


「ああ、坪内さん」


「どうしたの?図書室なんか来て」


「目的は1つしかない」


「あっ、借りに来たのね」


「そういうことだ」


 坪内十和香。俺と同じ1年で、図書委員。そして噂好き。俺が住んでいるアパートがいわく付きだと教えてくれた張本人。縁のある大きな眼鏡を掛け、知的な印象を受ける。長い髪を後ろに纏めている。


 俺は制服のポケットから、朝メモした紙を取り出し、目当ての本を探す。


 2冊目を見つけ手に取ると、横から声が飛んできた。


「ねぇ、網代くん。1回に借りられるのは2冊までだよ?」


「あっ、そうなのか」


 驚きを前面に出さないように誤魔化したが、坪内さんは手を後ろで組みながら、いたずらっ子のような笑みを浮かべる。彼女の身長は、女性としては長身の方だった。


「メモに書いてある小説、全部借りるような勢いだったから、一応声をかけておいたの。全部取って、カウンターに持ってきても、お互い手間が掛かるだけだもの」


「確かに、そうだな」


 メモに書いてある小説は10冊。俺がカウンターに運ぶ労力は気にならないが、坪内さんは借りることが出来なかったら8冊を元の位置に戻さなくてはならない。彼女に手間を掛けてしまう。


 手間については今朝、俺も痛感している。


「ミステリーが好きなんだ」坪内さんは肩が当たる距離まで詰めて、俺の手元を見た。柔軟剤の良い香りがする。


「あっ、うん。そうなんだ」俺は思わず少し距離を置いた。


 坪内さんは「どうしたの」と首を傾げた。彼女はいつもこの調子だ。噂話をしてきた時も、訊いていないのに1から10まですべて教えてくれた。心の距離感を測るのが苦手なのかもしれない。


「この2冊を借りることにするよ」


「分かった。じゃあ、受付まで来てくれる?」


 彼女に後ろについていく形で受付カウンターに着くと、


「網代くん」坪内さんは勢いよく体を捻って振り返った。「これから時間ある?」


 壁に掛けられた時計を見ると、針は16時3分を指していた。まぁ、帰りが少々遅くて大丈夫だろう。


「あるけど」


「耳寄りの噂話があるんだけど」


「簡潔に頼む。この前は……」


「大丈夫!」


 上目遣いで見てくる坪内さんの瞳は、眼鏡のレンズ越しからでも分かるほど輝いていた。


「分かった、話してくれ」


「それじゃ」彼女は咳払いを1つした。「この図書室で、秘密の情報交換がされてるっていう噂、知ってる?」


「情報交換?」


「そう。ある1冊の本を使って行われてるの。昼休みと放課後、図書室を開放している時間帯に生徒が代わる代わる1冊の本を読んでて、生徒は皆、借りずに本棚に戻して図書室を後にしている」


「それは……普通に本を読んでいるだけじゃないか?」


「それが違うの。色んな人の読んでいる様子を観察してたんだけど、共通してたのが、ページを何度も先に進めたり戻ったりを繰り返してるの」


「伏線の確認とかじゃないか?その本のジャンルは?」


「……ミステリー」


「じゃあ、伏線だ。登場人物が多い作品だったり、あの時登場人物は何て言ってたっけとか思い出すのにページを行ったり来たりするもんなんだよ」


「でも……」


 俯いて握り拳を作る坪内さんを見ていると、何か少し悪いことをした気分になる。程なくして考えが整理されたのか、彼女は閃いたような目になり俺を見た。


「だったら……伏線を確認するくらい熱心に読んでいたなら、何で借りないの?わたしだったら続きが気になって借りちゃう


 本を使った秘密のやり取りがされているって考えるのが自然じゃない?」


「まぁ、確かにな」俺は腕を組み考えた。言われてみればそうとも考えられるか。


「どんなやり取りがされてるのか、気にならない?」


 また坪内さんが距離を詰めてきた。


「いや、うーん……あっ」俺は思い出したように言ってから話題を少し変えた。「その、代わる代わる来てたっていう生徒は、どんな人たちだったんだ?男子と女子なら触れちゃいけない領域もあるだろ?」


「全員男子だけど」


「色恋沙汰ではない……」


「ねっ、気になるでしょ?」


 1度話を持ち帰らせてほしい、と言って坪内さんに別れを告げた。2人で議論し答えを出しても良いのだが、彼女の納得のいく答えが出せる自信が俺にはない。


 猫の姿になった元人間の力を借りることにしよう。


 校門を出ると、空はオレンジ色に染まっていた。



 3


 帰宅し部屋のドアを開けると、耳の奥に響くほどの声が飛んできた。


「遅い!」


「ごめん、本を探すのに少し手間取った」


「それで、見つかった?」


「ああ」俺はバッグから本を2冊出した。


「え、2冊だけ?」


「1回に借りられるのが2冊までなんだよ。許してくれ」


「まぁ、良いけど」


 靴を脱ぎ、居間に移動すると借りてきた本をテーブルの上に置く。


「持ち帰ってきたのは、2冊の本だけじゃないんだ」


「なに?」


 俺の勿体ぶった言い方に、絵本さんは棘のある口調だ。さっさと話そう。


「前に話した、噂好きのクラスメイト覚えてるか?」


「まぁ、覚えてるけど」


「今日の放課後、その人に会って話をしてた。そうしたら、解けない謎にぶち当たってしまって」


「ふーん、それで?」


 絵本さんの口調は、不機嫌なものから興味を示すものへと変わっていく。本題に移ろう。


「図書室で秘密の情報交換がされているという噂話で……」


 俺は坪内さんから訊いた話を絵本さんに話した。内容から会話のやりとりまで事細かく。


「ふん」絵本さんは考え込むように床の1点を見つめ

た。そしてあっさりとこう言った。


「簡単よ、書籍暗号ね」


「暗号?どうやってやり取りするんだ?」


「書籍暗号は、あらかじめ鍵となる本を決めるの。代わる代わる生徒が利用していた本のことね。


 本の役割は主に暗号を掛けたり、解いたりすること。


 肝心の方法だけど……例えばそう、わたしと網代くんが書籍暗号暗号のやり取りをしたいとする」


「うん」


「わたしが200、10、5と書いた紙を網代くんに渡す。受け取った網代くんは、図書室に行って、あらかじめわたしと決めておいた本を開く。数字の意味は、


 それぞれページ数、行数、何文字目かを表しているから、該当の数字に当てはまるページを開いて、何行目で何文字目かを見る。


 メッセージのはずだから、文字数は当然複数個あるはず。だから、図書館に来ていた生徒は、何度もページを進めたり戻したりしてたの」


「なるほど」


 暗号の仕組みは分かった。これで坪内さんの疑問にすべて答えられる。俺は胸を撫で下ろした。


「網代くん……坪内さん?っていう人に言ってほしいんだけど」


「何だ?」


「この件、深入りは禁物と伝えて」


 絵本さんの声に緊張が走った。さらに、


「これがただの仲良し女子グループのやり取りなら良いんだけど、男だけというのは良くない」

 

「分かった」


 絵本さんはテーブルの上にある本を見て「本、ありがとう」と言った。彼女の目には影が差し込んでいた。

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