第2話 いわくつきの猫(後編)
ドアを開けると、目元が優しそうな女性が立っていた。俺の住んでいるアパートの大家だ。ふくよかな体型で、身長は平均よりも少し小さい。年齢は知らないが、恐らく50から60代の間だろう。
服装は半袖のシャツにロングスカート。エプロンを掛けている。
手には四角形で大きめのプラスチックの容器を持っていた。
「あの……」ドアを開けて俺は少し震えた声で相手を見た。
「これ」大家は笑みを浮かべ、プラスチックの容器を手渡してきた。
「肉じゃが作りすぎちゃったから。食べて」
「ありがとうございます」
受け取ったプラスチックの容器はずっしりと重かった。ほんのりと温かい。
「ちゃんとご飯食べてる?1人だと億劫になるから、栄養摂らないと駄目よ」
「ちゃんと……食べてますよ」俺は笑顔を作った。我ながらぎこちない。
大家は眉毛をハの字にしながら、俺の頭から足の爪先まで見つめた。心配してくれるのはありがたいが、今はすぐに帰ってほしい。背中から嫌な汗が流れるのを感じる。
「あー、そうそう」大家が外にあるダンボール箱に視線を移した。「これ何?」
見つめている箱は、猫が入っていたものだ。しまった。しまい忘れた。
俺は慌てて箱を拾い上げ、両手で抱えた。
「これは学校で使うんです。帰りにスーパーで貰ってきたものでして」
情報を言い連ねただけの駄文的な言い訳だ。いけるか?俺はなるべく表情に出さないよう、大家を見つめた。
「ああ、そう!」
表情を見るに納得したようだ。今にも膝から崩れ落ちそうだ。
「それじゃ、学校頑張って。肉じゃが、いっぱい食べるのよ。食べ終わったら容器洗って袋に入れてドアのところ掛けてくれればいいから。後でわたしが回収しておくからね」
「ありがとうございます。いただきます」俺は軽く頭を下げ、礼を言った。
「それじゃ、また。寂しい独り身のおばちゃんの話に付き合ってくれてありがとね。また時々来るわ」
大家はサンダルをカランカランと鳴らしながら去っていった。
去っていくのを確認すると、俺は軽く息を吐いた。体全体が軽くなるような感覚に包まれた。
ドアを閉め、肉じゃがの入った容器を冷蔵庫に入れてから、猫のいる居間に戻った。
猫は本棚の前で姿勢正しく座っていた。
「何とかやり過ごしたみたいね」
「そのようだ」
俺は胡座(あぐら)をかき、猫と視線を合わせた。話そうとしてある疑問が生まれた。人と話す時に重要な情報。
「なぁ、何て呼べばいい?」
「名前を訊くなら、自分から名乗るのが礼儀よ」
確かにそうだ。猫に指摘されるとは。
「俺は網代一輝だ」
「わたしは絵本千蔭。アジロ?何て書くの?」
「ネットの網に、代表の代」
「ふーん、変わった名字ね」
「エモトって、さんずいに片仮名のエか?」
「いいえ、子供が読む絵本でエモト」
「お互い変わった名字だな」
「そのようね」
絵本さんと呼ぶ事にしよう。聞きたいことが山程ある。まずは、
「それで絵本さん、何で人の言葉が話せるんだ?」
「わたしは人間だからよ。ついさっきまで人間だったのに、猫になっちゃったの」絵本さんはさも当たり前の様な口調で話した。
俺はしばらくの間、次の言葉が思い浮かばなかった。
彼女の名前を聞いた時、名字と名前があった。その時点で勘付くべきだった。人間が猫に?どういうことだ。理解が追いつかない。
「困った顔してるけど、わたしもそうなの。こんな超常的な現象、ありえない」
俺は唸りながら後頭部を掻いた。返答に困っている俺を見て、絵本さんが改まってこちらを見てきた。
「ねぇ、網代くん。確認なんだけど、わたしここにいていいの?」
俺は肩を落とした。嗚呼、忘れてた。
「いや、帰ってきたときにも言ったが、雨が降ってる間だけだ。止んだら、一緒に絵本さんと暮らしてくれる人を探す」
「……そう」絵本さんは窓から空模様を確認した。外はまだ雨が降っている。
「ごめん」
「ううん、いいの。雨が止むまでの暇だから、話しましょう。何か面白い話して」
うーん、最近聞いた話ししてみるか。
「ここに住んでから知った話なんだけど、このアパートいわく付きらしい」
「誰かが死んだの?」
「うん。さっき来てた大家さんの息子。たしか……15歳だったって」
俺は思わず声を潜めた。お世話になっている人の話を暇を潰すためにするなんて、少し心が痛む。だが、
絵本さんが「それで」と話の続きを促してきたので、俺は更に続けた。
「で、その頃からペット禁止になった」
「それって、いつの話?」絵本さんの声に緊張が走る。
「去年としか聞いてないな」
「らしいとか、聞いてないなって、その話は誰から聞いたの?その情報は確か?」
彼女の早口の質問攻めに、俺は怯んだ。
「俺のいるクラスに噂好きな人がいて、その人が言うには、去年まで住んでいた人から聞いた話だから間違いないって」
「ねぇ、網代くん。ここがペット禁止じゃなくなったら、ここにいていい?」
絵本さんは何か企むような声で訊いた。
その問いにすぐ答えられなかった。絵本さんと話せる人はきっと他にもいるはずだ。ここより、もっと良い環境があるはずだ。
俺は首を横に振った。
「何か秘策があるようだけど、やっぱり無理だ。ごめん」
彼女が落ち込む表情を横目に、俺は立ち上がって冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出した。キャップを捻り口に含んだ。
「網代くん!」絵本さんがこちらに駆けてきた。
「お願い、わたしここにいたいの。コインパーキングに捨てられた時、とても寂しくて。会った人も全然言葉通じないし」
彼女は言葉を詰まらせ、時折涙交じりの声になった。
「網代くんと話せた時凄く嬉しくて。だから……」
「俺以外にも話せる人はきっといる。もっと広い部屋で、あたたかく迎えてくれる所があるはずだ」
これ以上訊くと辛くなる。俺は言葉を遮った。
「もしいなかったら?」
絵本さんの大きな目から涙が落ちていた。
俺は彼女の顔を直視できなかった。喉に何かが詰まったような感覚に襲われる。
彼女言う通りだ。もしいなかったら、誰とも意思疎通ができなくなってしまう。俺が少しでも孤独を和らげられるのなら、力になれるのなら。
「そのペット禁止じゃなくするやつ、上手くいく保証は?」
「え?」絵本さんは元々丸い目を更に丸くした。
「どうなんだ?」
「上手くいく。絶対に成功させる」
絵本さんの目の奥から熱意を感じた。
「それで、具体的には何をするんだ?」
「わたしを抱きかかえて、大家さんの所に行って」
秘策と訊いていたので、傘の件のような鋭い洞察力を生かした策があると思ったが、絵本さんと大家さんに会いに行くのは無謀すぎる。
「それはちょっと……」俺は苦笑いした。
「大丈夫。実はさっき網代くんと話していた大家さんを観察してたの。服装や行動、言動すべてね。あと、あの面白い話─大家さんの息子の話─で確信した。この作戦で上手くいく」
「上手くいくって言っても、大家さんがどこに住んでるのか分からない」
「簡単よ、まずは服装。半袖のシャツにロングスカート。前にエプロンを掛けていた。そしてあのサンダル。
遠くに出かけようと思えば、エプロンを外すし、もっと歩きやすい靴を履いてくるはず。だけど、大家さんはエプロンを掛けて、長距離を歩くには向かないサンダルを履いてきた。割と近所に住んでる。
次に行動。わたしと網代くんが帰宅した時、さほど時間が経たずに大家さんがやって来た。なぜか?わたしたちが帰ってきたと分かる位置に住んでいるに他ならないからよ。
最後に言動。ペット禁止にも関わる重要なことを言っていたの。網代くんもね。あの面白い話よ。
思い出してみて。大家さんが言っていたことと、網代くんが話してくれたこと」
「絵本さんに話した内容は、まぁ思い出せるけど、大家さんとは緊張してて全然覚えてない」
「それじゃ、わたしの方から言うわ。大家さんが帰り際に言ったの。『寂しい独り身のおばちゃんの話に付き合ってくれてありがとう』って。去年息子を亡くしたばかりの母親が言うには自虐的すぎる」
「気丈に振る舞ってた可能性は?悲しみ方は人によって違う」
「命を軽んじているともとれない?」
「言動に関しては、色々な解釈ができるな。他には?」
「網代くんが最初に言ってた、このアパートはいわく付きだ、と言うところよ。息子は15歳、まだ子供よ。親と住んでいるはず。あぁ、最初に言えばよかった。大家さんはこのアパートのどこかの部屋で住んでるの」
「まぁ、とりあえず場所は分かったけど、ペット禁止じゃなくするやつっていうやつは、どういう根拠を持って言ってるんだ?」
「このアパートの構造。厳密に言えば、部屋の間取りね」
「間取り?」俺は腕を組みながら訊いた。
「この部屋の間取りは1K。親子で暮らすには現実的じゃない」
「別々の部屋とか……」俺は別々の部屋で暮らす親子を頭の中で描いた。「ないか」
俺は組んでいた腕をといて、絵本さんに訊いた。
「じゃあ、息子って……」
「網代くんの言っていることが確かなのか、確かめたのはそこなの」
俺は絵本さんが言っていたことを思い出した。早口の質問攻めにはちゃんと意図があったのか。
“らしいとか、聞いてないなって、その話は誰から聞いたの?その情報は確か?”
「確かなら、息子は動物よ。恐らく去年まで住んでいた人に大家さんはこう言ったはず。“うちの子”ってね。可愛がりすぎて、思わず言った言葉が間違って伝わってしまった」
「それが本当なら15歳か。長生きだ」
「そうね」
「ペットを禁止したのは、長く連れ添ってきた動物との別れが辛かったから。他の動物を見ると思い出すから……か」
「それが大家さんなりの悲しみ方だった。だから、一緒に暮らしてた動物が亡くなった去年、ペット禁止にしたの。これがわたしの推理」
推理を訊いて、絵本さんの秘策が無謀でないことが分かった。
「それじゃ、大家さんに会いに行くか?」
「ええ。そうしましょう」
俺は絵本さんを抱きかかえた。毛がフワッとしていて、触り心地が良かった。抱えていた腕から彼女のあたたかみを感じる。
ドアを開けると、
「2階に行ってみて」と絵本さんからの指示があった。
大家さんが去っていくのを確認したところは覚えていたので、1階はない。俺は指示に従い、階段を登る。
201号室から虱潰し。ドアをノックすると聞き馴染みの声。大家さんだ。虱潰し作戦は必要なかった。
「はーい」と言ってドアを開けた大家さんは、目を丸くした。
「こんにちは」俺は絵本さんを抱きかかえながら、軽く会釈した。
「あら、可愛いわね」大家さんの目は輝いていた。
心臓の鼓動が速くなるのを感じる。
推理を訊いて確信していたが、いざ提案するとなると勇気がいるものだ。
「あの……ペット禁止と書いてあったんですけど、飼っても良いですか?」
大家さんは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて、
「もちろん。良いわよ」と言った。
俺は大家さんの表情を見て、胸を撫で下ろした。
一陣の風が吹く。朝から降っていた雨は、もうすっかり止んでいた。
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