Dear Frederic ーBrand-New Soundー

aoiaoi

第1話

 優希は、人気のない堤防沿いの道を歩いていた。

 真冬の海から吹く風が、髪を乱していく。けれど、一月の午後の明るい陽射しを反射して煌めく海は、もう新しい季節を先取りするような力に満ちている。

 潮風に吹かれるまま、優希は冷たく澄んだ青空を仰いだ。





 梶山かじやま 優希ゆうきは、十四歳になったばかりの中学一年だ。

 三か月ほど前、優希は自宅であるマンションのベランダから飛び降りた。

 毎日母から受ける地獄のようなピアノの練習に、耐えられなくなった。


 幼い頃から音楽とピアノの才能の片鱗をみせはじめた優希に、母は厳しいピアノのレッスンを付けた。自分自身が断たれたピアニストへの道を息子に歩ませるために。

 母の鎖は、日を追うごとに激しく優希を締め上げた。

 どれだけ辛くても、逃げ場がどこにもなかった。

 母とピアノから逃げられるなら、どこでも良かった。


 折れそうな優希の心を傍で見守ってくれていたのは、心から敬愛する作曲家——フレデリックだった。 

 彼は、優希自身の心が作り出した幻だったのかもしれない。けど、そんなことはどうでもよかった。

 追い詰められた優希のもとにそっと現れ、祐樹の心が静まるまで寄り添い、励ましてくれた。

 飛び降りたあの日も、フレデリックが優希の手を握っていた。

 彼と手を固く繋ぎ合い、ベランダを蹴った。

 そのまま、青灰色の空に染まりたかった。


 なのに、計画は失敗した。

 病院で目覚めた自分の体は、数箇所に打撲傷を受けただけだった。

 奇跡としか言いようがない、と医師は繰り返した。


 なぜ、僕は死ななかったのか。

 フレデリックは——彼は、なぜ僕を置いていったのか。

 それを考えようとすると胸がギリギリと強烈に痛む。優希は混乱した感情をそのまま胸の奥に放り投げた。


 病室の窓から差し込む晩秋の日差しは、ただ静かに暖かかった。



 約ひと月後、退院した優希の体を、母親は窒息するほどの強さで抱きしめた。

 涙を流すことも、叱責することもなく。

 腕をほどき、優希を見つめると、母は言った。

「これからは、あなたの好きに生ていい。

 どんな生き方を選んでもいい。

 あなたが、心から幸せだと思える生き方を選んでくれれば、それでいい」


 優希は、唇を噛んだ。

 意を決して顔を上げ、少しずつ心に生まれ始めていた思いを、母に伝えた。

「——母さん。

 僕、おばあちゃんのところに行きたい」

「え……?」

「正子おばあちゃん。銚子に住んでるんだよね?」

「…………」


 祖母の額賀ぬかが正子と母は、母娘でありながら酷く疎遠だった。

『あの人は、勝手なひとだから』

 昔から、それが祖母のことを話す時の母の口癖だった。冷たく言い捨てるような口調は、優希の胸にも寒々しく響いた。

 四年ほど前に、祖母は一度だけ優希たちのマンションへ来たことがあった。何を話すでもなく、紅茶を一杯だけ飲んで帰ってしまったが。

「優希くん、大きくなったわね」

 そう言って、十歳だった優希の頭を撫でてくれた手の温もりを覚えている。小柄でふわりと柔らかな容姿と物腰の、笑顔の温かいひとだった。


 祖母と母は、どうして仲が悪いのか。……大きな喧嘩になるような何かがあったのか。

 元々必要なこと以外あまり話さない母にそんなことを聞けば、きっと機嫌を損なうだろう。

 気になりながらも、優希はそれをずっと聞けずにいた。

 そして、暖かな日差しの中にいるような祖母に、優希はいつも心のどこかで手を伸ばしていたのかもしれない。


 嫌っている祖母のもとへ行きたいと言えば、母は悲しむだろう。

 だけど。

 その夏に父も出ていったこのマンションで母と二人きりで過ごす時間は、胸を押し潰すような息苦しさしか想像できない。


 どんな返事が返ってくるか。

 息を詰めて答えを待つ優希に、母は淡く微笑んで言った。

「——そうね。

 うん、それがいい。

 おばあちゃんに聞いてみるね。優希がいってもいいかどうか。

 きっと、二つ返事で了解するんじゃないかしら。二年前におじいちゃんが亡くなってから銚子でひとり暮らしだしね」


 優希の両肩に優しく手を置き、母は笑って言った。

「新しい場所での、新しい時間。

 思い切り楽しんでね」


 肩に置かれた手が、そっと離れていく。

 すいと立ち上がると、母はそのまままっすぐ自分の部屋へ向かっていった。

 その背中が、随分と痩せて小さくなったことに、優希は初めて気づいた。




 十二月下旬。中学が冬休みになったタイミングで、優希は都内のマンションから銚子の祖母の家へと居を移した。

 夏場の観光地の顔と、シーズンオフの寂れた顔。二つの顔を持ちながら、それらのものが常に波音に洗われているような、鄙びた海の街だ。


 母の実家でもある祖母の家は、駅から15分ほど歩いた、小高い土地の中腹あたりにぽつぽつと建つ住宅の中の一軒だった。落ち着いた赤色の屋根の、二階建ての木造住宅だ。

 なだらかな坂を上がり、小さな石段を上る。鉄の門扉をキイと開き、玄関まで続く砂利の細い道を踏む。

 植木と垣根に囲まれた、小さな芝生の庭。玄関ドアの横には「額賀」と書かれた立派な表札が見える。

 初めて来たのに、何かたまらなく懐かしい。

 

「待ってたわよ、優希くん」

 玄関へ出迎えた祖母は、ちょいちょい顔を合わせている相手を家へ上げるような自然な空気で微笑んだ。

 会いたいと思い続けた温かな笑顔が、目の前にあった。

「——梶山 優希です。これから、よろしくお願いします」

 優希は、変なところから込み上げる声で、ガバリと頭を下げた。背中のリュックが頭の方へずり落ちるほどに。

「よく来たね」

 祖母は、可笑しそうにちょっと笑ってから、顔を上げた優希を柔らかく包むように抱きしめた。


 その途端、今まで予感すらなかった涙が、一気に胸から目の奥へ突き上げた。


「…………っ」


 優希は、初めて思い出したように祖母の腕で涙をぼろぼろと落とし続けた。







 堤防までは、家から自転車で10分ほどだ。途中にポツンと建っているコンビニで買った水のペットボトルを、優希は小さく空へ投げ上げた。

 キラリと光を反射しながら落ちてくる水の容器を、両手で受け止める。

 

 広い空と海。

 鳴り続く潮騒、潮風の匂い。太陽と波の眩しさ。

 ここには、これまでどこを探しても感じられなかったものに溢れている。

 ベランダから飛び降りて以来これまでの約三ヶ月間、自分の身体からすっかり消えてしまっていた何か。

 この場所で暮らし始めて、それが少しずつ戻ってくることを感じる。

 ——音と、色。

 匂い。光。

 そんなものたちを、感じる力。

 美しいと、感じる力。

 もしかしたら、飛び降りるよりもずっと以前から、既に忘れてしまっていた感覚かもしれなかった。


 両腕を大きく広げ、新鮮な潮風を肺いっぱいに吸い込んだ。

 自由だ。

 長い間、自分をギリギリと縛り上げていた鎖は、もうない。


 音を、聴きたい。もっと。


 祖母の家には、グランドピアノがある。

 かつて母の使っていたピアノだ。

 触るのが怖くて、その部屋には近づけずにいたけれど。


 ——弾きたい。彼の旋律を。

 彼に、会いたい。

 フレデリックに。


 気づけば優希は、堤防の道を再び家に向かって足早に歩いていた。



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