俺だけレベルダウン
まくらカバー
第1話 俺だけレベルが下がる件について
いつからだろう。本やアニメを全く見なくなったのは。見てもちっとも面白いと思わなくなったのは。
人間ってのは、大なり小なり、歳を重ねるごとに趣味趣向が変わっていく生き物だ。かつて女児アニメのコスプレに夢中だった女児が、中学生になる頃には買いこんでいたグッズを全てゴミに出して、化粧に凝り始める、なんてのは別に珍しい話じゃない。それはいたって健全で自然なことだ。
だが、俺の場合はもう少しだけ事情が深刻だった。例えるなら、食い物の好き嫌いが増えたとかではなく、拒食症を患っているのに近い。まあ要するに、何かを見て、「面白れぇー」とか「楽しいぃー」とか、そういう心の栄養を摂取する力そのものが弱ってきている気がするのだ。
原因は、だいたい見当がついている。
俺が「現実の厳しさ」ってヤツを骨身に染みて思い知ったからだ。小学生の頃、世界一面白いと思って読んでいた漫画が、実は打ち切り漫画だと知ったこと。心が張り裂けるくらいに感動した映画が、世間では馬鹿みたいに叩かれまくっていたこと。
そして、自分が誰よりも特別な存在だと思っていたのに、実は全くそうじゃなかったということ。
道端を歩いているアリを、うっかり踏みつぶしてしまったとて何の痛痒も湧かないのは、そこら中に、殆ど同じ見た目の蟻がうようよ歩いているからだ。人間だって同じだ。右を向いても左を向いても、俺と似たような顔をした奴が、其処ら中を歩いている。
本やアニメもそうだった。俺が見たものが、特別に面白かったわけじゃなかった。ただ、「世間で面白いとされている構造」の上に、それがたまたま乗っかっていただけだ。実際、それ以上に面白いもんは、探せば腐るほどあった。その事実に気が付いてしまった途端、まるで魔法が解けたみたいに、何もかもが色褪せて見えた。
つまらねぇ、下らねぇ。そんな、チリトリで回収されることすらなく、部屋の隅で積もり積もったコンテンツの山。その掃きだめの中に、自分も埋まっている。その現実に向き合うのが嫌で、俺は本やアニメから目を背けるようになったのだ。
俺は特別じゃない。テレビやインターネットを見れば嫌でもわかる。特別な奴は、最初から特別なのだ。
全身真っ黒な蟻んこの中に、金ぴかに輝くアリが一匹いたのなら、誰だってそいつを特別だと思うだろう。人間だって、特別な奴は生まれた時から光り輝いてみえるものだ。現に、お釈迦様は生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」とか叫んでたらしいからな。残念ながら俺には、助産師が目玉をひん剥いて卒倒するような、荒唐無稽な誕生秘話はない。てなわけで俺は特別じゃないのだ。QED、証明終わり。
……それでも諦めのつかないのが凡人の凡人たる所以である。生まれ変われたらなぁ、とか、チート能力でズルできたらなぁとか、くだらない妄想を四六時中している。
俺だって例外じゃない。
だから俺は、迷宮に潜ったのだ。
凡人が人生一発逆転を夢見ることのできる、ドリームワールド。迷宮は一般に、そのように捉えられている。
理由は単純だ。ヒトが迷宮に足を踏み入れた瞬間、「オーラ」と呼ばれる不思議な力が与えられるからである。
オーラは、貧富や人種、老若男女を問わない。完全にランダムで発現する。才能も努力も関係ない。
さらに迷宮には、市場価値が青天井の「魔石」や「神器」などといった、トンデモないお宝が数多く眠っている。つまり、強力なオーラさえ手に入れば、一攫千金もアニメじゃない。現に、迷宮探索で年間数十億を稼いでいる人だっているのだ。もっとも、迷宮にはお宝だけじゃなく、ヒトを攻撃してくるモンスターなどもいるから、探索には常に命の危険が付き纏うのだけどな。ちなみに、迷宮探索を生業とする人間は巷で『迷宮探索者(ダンジョンダイバー)』と呼ばれている。
さて。
じゃあ、どうすれば迷宮探索者に成れるのか。答えは明白である。中学や高校の部活動には、迷宮探索部なるものがあるのだ。学生のうちに実績を積み、名を売ることができれば、高校を卒業と同時にプロの仲間入りだ。
高校に入学した俺は、迷わず迷宮探索部に入部した。人生を変える夢の切符があるなら、迷わず買うに決まっている。
そして、入部早々、初めて迷宮に足を踏み入れた時の、あのワクワク感。子どもの頃、サンタクロースに扮した先生にクリスマスプレゼントを手渡された時以来の胸の高鳴り。 今でもはっきりと覚えている。
「もうすでに、君たちにはそれぞれの『オーラ』が発現しているはずだ」
新入部員の先頭に立つ部長が言った。
「オーラは君たちの身体を保護するパワードスーツの様なものだ。オーラが尽きない限り、君たちの身体はいかなる攻撃でも、かすり傷一つ負わない」
オーラと聞いて、新入生たちは興奮を抑えきれない。まるで、針を刺される寸前の風船みたいに震えている。
「オーラがある限り、君たちは超人だ。しかし、オーラが完全に尽きた場合、所謂『オーラ全損状態』に陥った場合、君たちはただの人間に戻ってしまう。その状態での迷宮探索は極めて危険なので、くれぐれも肝に銘じておくように」
肝に銘じておけと言われて、本当に肝に銘じている新入生など殆どいない。全員、固唾を飲んで部長の次の言葉を待っていた。
「ヨシ! それでは手元のタブレットを確認しろ。既に、君たちが獲得したオーラの詳細――『ステータス』が表示されているはずなので、確認できた人から、各自こちらまで報告に来ること」
部長が話し終えるや否や、あちこちから歓声やら奇声やらが飛び交った。
「うぉぉぉ!!!」
「ステータス、オープンンンンっ!!!!」
大変見苦しい興奮だが、気持ちは痛いほどわかる。何せ、今の俺たちは、謂わばトンデモない金額の万馬券を握らされているよーなもんだからな。
そして、もちろん、俺も叫んだ。特に意味はないが。
果たして俺が手にしたオーラのステータスは、以下のようなものだった。
―――――――
【名前】未登録
【レベル】『1』
【能力値】
《アタック》
G 13
《センス》
F 26
《ディフェンス》
G 22
《インサイト》
F 30
《スピード》
F 36
【特殊能力】
《回避E》《回復E》《パワーE》《集中E》
《エンチャヒールE》
【技能】
なし
――――――
「うぉぉぉぉ!!!? おぅっおぅっおうっ!!」
俺はにわかに、興奮したオットセイの威嚇みたいな奇声を上げ、そのままの勢いで、部長の所まですっ飛んでいった。
というのも、初期段階で特殊能力を五つ以上取得しているのは「アタリ」だと聞かされていたからだった。
「エンチャヒール……? 聞いたことのない特能だ」
「まさか……固有能力なのかっ!!?」
部長と周りにいた先輩方がどよめく。まるで、レコードタイムでも出たかのような動揺っぷりに、思わず「オレ、何かやっちゃいましたか?」と言いそうになった。この時点で、俺の心持はまさに有頂天。完全に舞い上がっちゃってます。
「効果を確認してくれっ!!」
「はぁ、それは構わないですけど、どうすればわかるんですかぁ?(すっとぼけ)」
「文字をタップすればいいっ!!」
先輩方に言われるがまま、俺は液晶に光り輝く《エンチャヒール》の文字を人差し指で触れた。
《エンチャヒールE》
――オーラを消費すると、レベルを『1』消費して、オーラを全回復させる
結論から言おう。《エンチャヒール》、この特殊能力はゴミだ。
確かに、エンチャヒールは滅茶苦茶レアな特殊能力だった。レアと言うか、他に前例が無いので、現状俺だけの特殊能力、固有能力と言っていい。それだけ聞くと、すごくカッコいいだろ?
だがこの特殊能力、あまりにも役に立たなかった。いや、役に立たないだけならまだマシだったな。この能力は、なんと! 持っているだけでどんどん弱くなってゆく。
ナポレオン曰く、「真に恐れるべきは有能な敵ではなく、無能な味方である」とのことだが、まさに《エンチャヒール》は無能な味方と呼ぶに相応しい、華々しいほどの無能さを誇っていた。
改めて、エンチャヒールの効果を説明しよう。
「オーラを消費すると、レベルを『1』消費して、オーラを全回復させる」
一見すると、便利そうに見える。オーラが減っても、すぐに全回復。つまりは無敵。俺TUEEE!!
だが、それは迷宮を知らない素人の発想だ。
まず、前提として、オーラは敵の攻撃から身を護ってくれる見えないバリアのようなものだ。だから、攻撃を受けるたび消耗する。RPG風に言えば、HPみたいなものだな。
また、オーラは攻撃を受ける時だけに使うものじゃない。技能――モンスターを攻撃したり、味方を支援するのに使う、必殺技みたいなもの――を使う時も、オーラは消費される。
オーラとは、謂わばガソリンのようなもので、強い技能程、使用するのにたくさんオーラを消費する。当然、迷宮攻略に技能の使用は必須だ。そして技能を使うたび、オーラは減ってゆく。
そして、ここからが肝心なのだが、オーラを消費した瞬間、エンチャヒールは、こちらの意思など一切無視して、自動的に発動する。
つまり、どういうことか。
攻撃を受けると、オーラが減る。するとエンチャヒールが発動して、レベルが1下がる代わりにオーラが全回復する。
技能を使う。そのたびにオーラが減る。するとこれまたエンチャヒールが発動して、レベルが1下がる代わりにオーラが全回復する。
仮に俺のレベルが10だったとしよう。攻撃を十回受けるか、或いは技能を十回使用するだけで、俺のレベルはゼロになる。
この「レベルダウン」と言う副作用は、迷宮探索において致命的な欠陥であった。なぜならば、迷宮探索において、レベルは探索者の強さの絶対的指標であるからだ。単純に言えば、レベルが高いほど強い。
もちろん、条件次第では格下が勝つこともあるらしい。だが基本的に、「レベルが10も違えば、一対一ではまず勝ち目がない」そう言われる世界だ。
そんな世界で、戦うたび、勝手にレベルが下がってゆく人間が、どうなるか。考えるまでもない。
俺はレベルを上げようと必死で迷宮に潜った。そのたび、エンチャヒールは律儀に発動して、有難くもレベルをゼロに戻してくれた。手元に残るのは異様なまでの徒労感だけ。骨折り損のくたびれ儲け。
最初こそ固有能力だなんだと沸き立っていた先輩方も、そのあまりの弱さに幻滅して俺の元から離れていった。新入生も誰一人俺に近づかなかった。皆、強い奴と徒党を組みたがる。弱くなる能力を持つ俺は、論外だった。
こうして俺は、入部一週間にして、完全に干されたのだった。
物の見事に、迷宮探索者デビューと高校生デビューに失敗した俺だったが、そんな、部室の隅で腐った切り干し大根みたいになっていた自分にも、それはそれは優しく話しかけてくれる、菩薩様みたいな先輩がいた。
そのような美人の先輩が、部室で猫からも杓子からも白い目で見られている俺に向かって「おはよう!」とか一切悪意のない善意100%の笑顔で挨拶してくれる。
よって、俺が柚月先輩に惚れるのに、半日も掛からなかった。
そんなある日、俺は柚月先輩に、
「もうすぐ入部から一か月だけど、君はどれくらいレベル上がったかな?」
と無垢な笑顔で言われて、俺はまごついた。
「……です」
「えっ? ごめんね、ちょっと聞こえなかった」
「0です」
「エッ……」
「0です」
俺の言葉に、柚月先輩はしばらく目をぱちくりさせていたが(カワイイ)、徐に、
「じゃあ、君のレベル上げ、私にも手伝わせてよっ」
両手の掌を顔の前でくっつけながら(カワイイ)そんなことを言い出した。
「いいんですか!!?」
「もちろん。新学期が始まったばかり、勉強も部活も、そんなに忙しくないから」
「ホントですか! ありがとうございますっ!! よろしくお願いしまーすっ!!」
というわけで、俺と柚月先輩は二人で迷宮に潜ることとなった。エンチャヒールとかいう粗大ゴミを掴まされたことが、これでチャラになった。
迷宮での先輩はアホみたいに強かった。先輩の力は、俺が百人乗っても大丈夫そうなくらいパワフルだった。
新入生は、迷宮の第一階層の浅層でレベルを上げることになっている。浅層は、閉塞感の強い遺跡の様な場所で、そこに出てくるモンスターは、軒並み弱い。基本的に「バルン」と呼ばれる、黒い水風船みたいな奴が宙をふわふわ漂っているのみで、たまにべたべたした粘液みたいな「スライム」とか、ごく稀に「ゴブリン」と呼ばれる小人の様な奴と出くわすくらいだった。
モンスターが現れるたび、柚月先輩は文字通り瞬殺した。俺が「あ、いた」と間抜けな台詞を吐いた、その「あ――」の時点で、もう既に先輩に倒されているのだ。倒されたモンスターは、うんともすんとも言う間もなく、中空で塵と化して、煙みたいに拡散して消える。
隣を歩いていた先輩が、出来の悪いパラパラ漫画みたいに一瞬ブレたかと思うと、目の前のモンスターが両断される。柚月先輩との探索は、ひたすらそれの繰り返しだった。そんな調子なので、迷宮に入った時の緊張感など、とうにどこかへ吹っ飛んでしまった。俺と先輩は、探索に命の危険があることなど忘れたみたいに、殆ど雑談しながら迷宮を歩いた。
「技能って、ホントにたくさんありますよね? 何を取得したらいいのか、滅茶苦茶迷ってます」
「うーん。とりあえず取っておいて損が無いのは【バリア】かな。オーラの消費は激しいし、連続して使えないけど、どんなに高レベルの敵の攻撃も、一度だけ防いでくれる、すごく便利な技能だよ」
「へー、どんな攻撃でも。……ところで、先輩ってレベルはいくつなんですか?」
「えーっと、61だね」
「61ぃ!!?」
「あはは! そんなに驚かなくても……」
「いやいや、驚きますって……。プロの探索者と殆ど遜色ないじゃないっすか。どうりでアホみたいに強いわけだ」
彼女を見ていると、改めてレベルの暴力というものを実感する。レベルが上がれば上がるほど、基本的な能力も相応に上昇する。腕力はベンガルトラみたいに強くなり、足はトムソンガゼルみたいに速くなり、技能の威力も驚くほど跳ね上がる。要するに、例えどんなに優れた特殊能力を持っていようが、最終的にはレベルを上げて物理で殴るのが一番強いのだ。
「そう考えると、やっぱりエンチャヒールってクソ弱いですよね……」
「うーん、どうなのかな。確かにレベルが下がるのはすごく困るけれど、オーラを全回復するって、すごい効果だと思うよ。同じ効果の技能が無いわけじゃないけど、どれも条件が厳しいからね」
そう言って、先輩は少し考えるように視線を泳がせてから、続けた。
「それに、特殊能力とか技能って、使い続けてると既存の能力が強化されたり、新しい能力が追加されたりもするんだよ。今後の成長次第で、いくらでも化ける可能性はあると思うなぁ」
慰めなのかどうかはわからないが、柚月先輩はそう言って微笑んだ。正直、先輩の笑顔をこうして間近で見られるのなら、エンチャヒールの無能さを差っ引いてもおつりが来るくらいです。
「固有能力なんでしょ? それってすごく特別なことだよ。きっと、キミにしかできないことがあるんだよ」
「先輩の方が特別ですよ」と言う言葉が喉のすぐそこまで出かかった。だけど、何故かそれ以上、口を衝いてまでは出てこなかった。
一週間がたった。俺のレベルは、100%先輩のおかげで0から8まで上がった。
能力値もそれに伴い上昇し、その変化はすぐに実感できた。走る速さも、腕力も驚くほど向上した。試しに迷宮の中で、軽く百メートル走を走って見た。その日、俺はウサイン・ボルトを越えた。
「レベルが上がるってサイコー!! でも、敵を倒すために技能を使うと、レベルが下がっちゃんうですよね……」
今日も今日とて先輩と俺のデート――じゃなかった、レベリングがつつがなく終了し、迷宮から戻った俺と先輩は部室の隅で、雑談に花を咲かせていた。キャッキャウフフと言った具合に(妄想)。
「うーん。モンスターのオーラを削るには、基本的に技能を使うしか方法がないし……。やっぱり今みたいに、キミは支援に回って、代わりに他のパーティメンバーにモンスターを倒してもらうのが良いと思う」
「支援って、俺、なんかしましたっけ」
「えーっと、……私の話し相手になってくれたよねっ」
そう言って、先輩は悪戯っぽく笑った。鼻血が出そうなくらいカワイイ。
真面目に考えると、いや不真面目に考えたとしても、俺がレベルを上げる手段は、誰かとパーティを組む以外にない。パーティを組めば、誰がモンスターを倒そうが、経験値はある程度共有される。戦闘に殆ど関与できない俺でもレベルを上げることができるのだ。
実際、先輩は俺とパーティを組むことで、自分が倒したモンスターから得た経験値を、俺に分けてくれているのだ。
だが、この理屈には決定的な穴がある。それは、お荷物確定の俺と、わざわざパーティを組んでまで、経験値を分けてやろうなんて考える馬鹿タレが、誰一人としていないという事実が抜けている、という点だ。
「やっぱり、独りで戦えるようになりたいっす」
「でも、たとえ迷宮のどんなに浅い所でも、偶にものすごく強いモンスターと出会っちゃうこともあるし、一人で潜るのは危険だよ?」
「つっても、誰も俺みたいな無能と好き好んでパーティを組みたがりませんよ、ハッハッハ」
「じゃあ、これからもずっと、私とパーティ組もうよ」
俺は答えに窮した。
「いやいや、そんなこと軽々しく言っちゃいけないでしょ」とか、
「それってつまりお付き合いするってことですか?」とか、
「それって『月が綺麗ですね』と同義で受け取っちゃって構わないですか?」とか、
いろいろな台詞が脳内を駆け巡った。でも、頭の奥のもっと遠く、脳幹の更に奥深くにある何かが、俺の口をピタリと鎹で縫い付けてしまった。俺はツッコムか、それか何かアホみたいなことを言って誤魔化せばいいと思って、やけに重たい口をこじ開けた。
「いやぁ、あはは」
何じゃそりゃ。後頭部が、焼けているみたいにチリチリした。
「ねぇ、今お腹減ってる?」
「えっ、あ、はい」
俺は咄嗟に嘘をついた。ほんとは、何だかわからないが胸が一杯なのである。
「実は、すごく美味しい定食屋さんを見つけたんだけど……放課後、一緒に行かない?」
「それはっ! ……別に、構いませんけど」
「よかった! お金なら私が出すから、心配いらないよ」
「いや、それは流石に」
「いいのいいの。実は後輩にご飯を奢るのが夢だったから。私の夢を叶えると思って、ネ?」
先輩は「お願い!」のポーズを取った。それが具体的にどんなポーズだったかを記すには、ここはあまりに余白が少なすぎるので敢えて記述はしないが、額が消し飛ぶかと思う程可愛かったとだけは言っておこう。
「じゃ、私。先に校門で待ってるからね」
先輩は、尊死しかけてフリーズ状態の俺を置いて、独りで部室を出て行ってしまった。「なんでわざわざ再集合する必要があるんですか?」とか聞きたかったが、俺がようやくフリーズした脳の解凍に成功した時には、既に先輩の影も形も見当たらなかった。
「おい新入生。ちょっと止まれ」
俺が帰り支度を済ませ、何が何でもたどり着かねば、とばかりの勇み足で校門に向かおうとした時の事である。
「くろぶち先輩? 何か用ですか?」
「いいからこっちこい」
殆どろくに会話もしてこなかった二年の先輩に呼び止められて、俺は狼狽した。俺が近づくと、くろぶち先輩は、角ばった眼鏡の黒縁を神経質そうに指先でいじりながら言った。
「お前、もう柚月先輩と関わるな」
「はぁ?」
何を言いだすんだ。俺は、一瞬、くろぶち先輩をはっ倒そうかと思った。が、多分勝てないのでそれは諦めて、代わりに質問した。
「……どうしてです」
「お前が、柚月先輩にえらく迷惑をかけているからだ」
そう言われると、俺はもう、ぐうの音も出ない。何故なら全く持ってその通りだからだ。迷宮探索の時の俺なんか、よろよろのボクサーがクリンチを仕掛けるみたいに、柚月先輩の腰に執拗に張り付いて離れない、大きなくっつき蟲みたいなもんだからな。
「いいか? あの人はお前なんかと違って特別なんだよ」
その一言で、胸の奥が音を立てて軋んだ。
「先輩はウチのエースだ。夏には大きな大会も控えているし、もう既に何社ものスポンサーから声が掛かってる。プロ入り確定だって噂だ」
改めて突きつけられる柚月先輩の凄さに、まるでハンマーで殴りつけられたかのような衝撃が頭を襲った。やっぱり、柚月先輩は特別なのだ。俺と違って。
「わかったなら、今すぐ無駄なレベリングに突き合わせるのを、止めろ。あの人は優しいから、自分からは絶対に言い出さない。だから」
くろぶち先輩は俺を睨みつけた。
「お前から、先輩を傷つけないように、上手く断わりを入れるんだ。わかったな!」
「はぁ……その、俺、ヒトを待たせてるんで、もう行っていいですか?」
「ふざけるな。誰だよその待たせてる奴ってのは!」
「柚月先輩です」
「馬鹿野郎。お前。待たせてないで早く行け、馬鹿野郎」
くろぶち先輩にぐいぐいと背中を押されて、俺はふらふらと宙を舞う一反木綿みたいによろめきながら、校門へと向かった。
「じゃあ、いこっか」
校門にたどり着くと、柚月先輩は校門に寄りかかって俺を待っていた。俺は、はいとか、うんとか言いながら、必死で先輩の隣についていった。
「北原食堂って名前の定食屋さんでね。素朴な店構えで、凄く優しいおじさんとおばさんが働いてるの。あの人たち、夫婦なのかなぁ」
「どうなんでしょうね」
適当に相槌を打ちながら、俺はくろぶち先輩から言われた言葉を、口の中で何度も反芻していた。彼の言葉を何度思い返しても、俺の中でその言葉がしっくりと収まることはない。何度吐き出しても、かみ砕こうとしても、上手く咀嚼できずにいた。
まるで、歯に挟まったささみの筋が、何時までたっても取れないみたいな感覚だ。俺が、苦渋に満ちた百面相を顔に浮かべて口をもごもごと動かしていると、にわかに柚月先輩が足を止めた。
「先輩?」
突然、俺と先輩の目の前に、何やら怪しい風貌のおっさんが現れた。湿気でヨレヨレの上着に、破けたジーパン。顔は若干酒気を帯びていて、まるでパチンコ屋に屯している万年金欠のじいさんみたいな様相である。
そんな奴が、俺と先輩に、いや、性格には先輩にズカズカと歩み寄ってくる。
すわ変質者か! と俺は反射的に正拳突きの構えをとった。先輩は、迷宮内では無類の強さを誇るが、残念ながら迷宮の外ではオーラが使えない、ただの女子高生なのだ。だから、ここは俺が先輩を好々爺ならぬ嫌々爺の魔の手から守らねばならない。 と、意気込んでいたのだが。
「……お父さん」
「お父さんっ!!?」
俺は思わず正拳突きの構えを解いた。こいつがお父さん?
俺は改めて目の前の男を見やる。どう見たって、お嬢様然とした柚月先輩に似つかわしくない。こんな奴の遺伝子が、先輩に半分も入っているわけがない。
「おう、ユノ」
男は、アルコールでひしゃげた声で、先輩の名前を呼んだ。
「どうしたの? わざわざこんなところまで……」
「ちょっと……」
男は、ちらりと俺の方を見た。殆ど光を移さない虚無の様な瞳に、俺は一瞬たじろいだ。だが、男はすぐに興味を失くしたように俺から目をそらした。それから、先輩の顔を見ているのだか見ていないのだか、よくわからない胡乱な表情のまま、
「金」
という単語だけを発した。
「お金? 今朝振り込んだ分じゃ、足りなかった?」
「……」
「いくら必要なの? 手持ちで足りるかな……」
「十万」
先輩は懐から財布を取り出すと、一万円札の束を抜き出した。男はそれをひったくるみたいに掠めとると、何も言わずに背を向けて歩き出した。
「クルマに気を付けてね、お父さん」
先輩の声が男の背中に投げかけられたが、終ぞ男が振り返ることはなかった。
「さ、いこっか」
「えっ、あ、はい……」
道中、二人はあまり口を開かなかった。開くにしても、先ほど目の前で起こった衝撃的な邂逅には一切触れなかった。
やがて、先輩と俺は定食屋にたどり着いた。店は先輩の言うとおり、なんで未だに潰れていないのか疑問なほど素朴な店構えであり、また店に入った二人を出迎えた店員の老夫婦の接客態度は、先ほど目撃した光景が実は、超高性能のプロジェクションマッピングだったのではないかと錯覚するほど、思いやりに満ちていた。……つーか、こっちが柚月先輩の本当の家族なんじゃねーの? ホントは。さっきの男は多分、ヤバいクスリを常用しているせいで柚月先輩を娘だと思い込んでいたホームレスかなんかだ。 薬中が大層な幻覚見てんじゃねぇ。
「さっきはごめんね。変な所見せちゃって。私のお父さん、吃驚させちゃったでしょ?」
ところが俺の切実な祈りを、先輩はあっさりとぶち壊した。
「い、いえ。俺は全く平気だったんですけど……」
嘘です。滅茶苦茶動揺してました。
「でも、先輩こそ大丈夫なんですか? 凄い大金渡してましたけど」
「うん、大丈夫。迷宮で活動していれば、あれくらいはすぐにもらえるから」
「へぇ、やっぱ探索者って儲かるんですね。先輩くらい強いと……」
そうじゃねーだろ。我ながらなんと間抜けな感想だ。実の親が娘に金の無心をしてるんだぞ。尋常じゃねーよ。俺がやんわりとそのことについて尋ねると、先輩は「家族だから」と言った。
「お父さん、最近競馬に凝ってるんだって。だから、その分をお金を毎月お父さんの口座に振り込んでるんだけど、今日はそれだけじゃ足りなくなっちゃったみたい」
「毎月って……ちなみに、それっていくらくらいか聞いても?」
「だいたい……百万くらいかな」
俺はしばし絶句した。
「そんなに渡して大丈夫なんですか……」
「うん。私は持ってても使うことないし、それに、いつか万馬券当てて、借りたお金も倍にして返すからって、お父さん言ってたよ」
と、にこやかに答えた。俺は再び絶句した。
「ねえ、君はどうして迷宮探索者になろうと思ったの?」
黙りこくった俺の代わりに、先輩は俺にそう聞いた。
「そりゃ……スポーツ選手とか、芸能人に憧れるのと同じですよ。探索者に成れば金も稼げるし、有名にもなれるし、ついでに強くなれるし。それに、万に一つも『迷宮制覇』なんて偉業を達成した暁には、歴史に名を遺すような大スターに成れるじゃないですか。だから、俺は……」
「そうなんだ。立派な夢だね」
先輩はしばらく黙って、窓の外の景色を眺めていた。それから、
「私は……家族のために探索者になったの。お父さんもお母さんも、私の養育費を稼ぐので毎日忙しそうだったし、少しでも二人のお手伝いができればいいなって。そう思って、学生でもお金が稼げる探索者の道に進んだの」
「そう……だったんすね」
家族のため。俺にはまるで想像もできない。家族って、そんなに特別な存在なのだろうか。
二人は、また少し黙り込んでしまった。ちょうどそのタイミングで、都合よく老夫婦たちがとんかつ定食を運んできた。
シャキシャキしたキャベツに、粒の立った白飯。湯気の立つ味噌汁。そして、シャバシャバのソースがさくさくの衣に程よく染みた、大きなとんかつがど真ん中に。
北原食堂のとんかつ定食は、信じられないくらい優しい味がした。先輩の優しさは、もしかしたらここの定食を食べ続けたことで培われたのではなかろうかと、俺に思わしめるほどの絶品であった。けれど、俺の脳裏には始終、先輩の父親、あの大きなダニみたいな男の顔がちらついて、どうも食事が始終、喉の奥につっかえた。
くろぶち先輩の言うとおり、俺は今、柚月先輩の脚を思いっきり引っ張っている。それでも柚月先輩に、目に見えるほどの負担が無いのは、それは単に俺が彼女にとって羽虫みたいなものだからだ。彼女の耳元で喧しく羽ばたいている蠅。それが俺だ。本人は平気だと笑っていても、彼女を慕う人間からすれば、彼女に集る蠅など見ているだけでも鬱陶しくて仕方がないのだろう。
柚月先輩をレベリングに付き合わせるのはもうやめにしよう。何度そう思ったかわからない。けれども、いざ部室にやってきて、彼女と顔を合わせると、「もうやめにしませんか」とは言い出せなくなってしまった。
何故だろう。考えるまでもない。答えは明白だった。
俺は、レベリングを止めたくなかったのだ。少なくとも、先輩の力を借りずとも自力で迷宮を攻略する算段が立つまでは。それに、心の片隅で「先輩がスキで手伝ってくれてるんだから、別にいーじゃん?」と囁いている自分がいた。
「もうすぐ、レベルも二桁になるよね」
「はい……」
今日も今日とて先輩はモンスターを瞬殺していった。そして、俺はそのおこぼれにあずかっていた。まるで鴉につつかれても微動だにしない案山子みたいに、先輩の後ろで突っ立ったまま。これじゃ落ち穂拾いならぬ経験値拾いである。
「私、キミにも使えそうな技能が無いか色々調べたんだけどね――」
「ありがとうございます……」
「どうしたの? なんだか今日は元気少ないね」
柚月先輩が、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。上目遣いがカワイイ……いやいや、そうじゃなくて。
「別に大丈夫っす……」
とは言ったものの、実際はなんだかひどく憂鬱だった。脳裏に、くろぶち先輩の顔や、柚月先輩の父親の顔が、泡のように浮かんでは、弾けて消えてゆく。
「今日中に10レベルまで上がったらいいね」
先輩は余裕綽々の口ぶりで会話しながらも、俺の一歩先を歩いて、常に警戒を怠らない。その年季の入った動きを見ていると、なんだか彼女が、自分とは全く別の世界にいるのではないか、と言う気がしてくる。
前を歩いていた先輩がピタリと足を止めた。
「――くん」
いや、気がするのではなく、先輩は本当に俺とは別の世界に生きているのだ。彼女は才能があって、美人で、後輩にも慕われて、プロ入り確定で――
「今日はもう帰ろう」
「えっ?」
ぼんやりしていた俺を、先輩が後ろ手に制した。
「ゴメンね。ちょっと急ごう」
何が何やらわからない俺を、先輩はぐいっと、少し強引に押した。かと思うと、今度は俺を両手で抱えて、来た道を一気に引き返し始めた。
「ちょっっ!?」
完全にお姫様抱っこである。さすがに高校生でこれは恥ずかしいですって。と、照れる俺の目の前に、人間の手足や胴体がばらばらと音を立てて降ってきた。
迷宮には、宝くじの一等が当たるか当たらないかの超低確率で、「特殊個体」と呼ばれるモンスターが出現することがある。特殊ったって、必ず強いわけじゃない。本来なら現れるはずのないモンスターが、一風変わった特殊能力や技能を持って現れる、ってだけだ。しかも、そいつらは通常のモンスターよりも遥に弱い場合も別に珍しくない。
「うぉっ!!?」
だが、今回ばかりは違った。どうやら、マジのガチでヤバいモンスターと出くわしてしまったらしい。
最初、目の前に落ちてきたものが、人体のパーツの一つ一つだということに、俺は理解が追いついていなかった。パーツの一つ一つに、学生服の断片へばりついているのが見えた。それで、ようやく俺の頭に混乱が追いついてきた。
腕、脚、胴体、そして『頭』
それらが地面に落っこちるより先に、柚月先輩は全速力で、血の雨の降る地帯を一気に潜り抜けた。チーターはたった三秒で時速100㎞まで加速できるらしいが、先輩はそれよりももっと早く、風を突き破らんばかりに走った。新幹線に乗った時よりも更に強力な加速。衝撃的な景色は、はるか後方へと吹っ飛んでいった。
レベルを上げれば壁を走るくらい余裕だと聞いていたが、先輩は垂直飛びでビルを越せるんじゃなかろうか。とにかく身体能力が人間離れしている。
――ところがぎっちょん。
「……まずい、追いつかれちゃう」
後方を振り返りながら、先輩がぼやいた。おいおい、嘘だろ。相手はどんだけはえーんだよ! ていうか、何が起こっているのか、俺には全く把握できていない。
「ゴメン」先輩はにわかに足を止めた。「ここから先はキミ独りで逃げて」
「えっ? でも……先輩は――」
「大丈夫。一階層のモンスターに負けることはないから」
「いや、でも」
だったら逃げろだなんて、言わないでしょ。
逃げるべきか、留まるべきか。まごついていた俺と先輩の目の前に、一陣の風と共に、果たして一匹のモンスターが、音もなく姿を現した。
そいつは、緑色の体色に、異様に細長い身体。筋肉らしい筋肉もなく、骨に皮が張り付いているだけの、謂わば「緑のもやし」って感じのモンスターだった。足取りは覚束なく、吹けば倒れそうなほど弱弱しい。
「なんか……全然ヤバそうなモンスターじゃないんですけど?」
「あの子は『グリーンゴブリン』だよ。見た目の割に強いので有名なんだけど……」
肩の力が抜けた俺と違い、先輩は一切気を緩めることはなかった。
「適正レベルは二十から二十五程度。このエリアじゃ破格の強さだけど、私の脚にはついてこられないはず。きっと何か、ヘンな技能か、特殊能力を持ってる」
ヘンな能力? 俺の、エンチャヒールみたいなものだろうか。しかし、圧倒的なレベル差を覆すような、そんな破格の能力が果たして存在するのだろうか。
【イレブンバック】
「ホントに強いのぉ~?」と疑念の目でグリーンゴブリンとやらを見やっていると、突如、足元に桜色の淡い光が、さざ波が砂浜へ寄せるみたいに、さっと地面を染めてゆく。
「うわっ――」
【居合切りA】
――何だこれ、と言う言葉が口を衝く前に、先輩の右手がブレた。直後、腐ったごぼうみたいなグリーンゴブリンが、ざっくりと上下に両断された。グリーンゴブリンの上半身が、仲良しだった下半身と生き別れて、ロケットみたいにすっ飛んでゆく。
弱っ!
――いや、違う。吹っ飛んだかのように見えた上半身は、中空で静止、それからまるで時間を蒔き戻したみたいに、瞬く間に元鞘である下半身の上へと収まった。まだグリーンゴブリンのオーラを削り切れていないのだ。先輩の一撃で倒れないモンスターは、これが初めてだ。
不意に、グリーンゴブリンの口元が怪しく歪んだ気がした。
「走って!!」
先輩が叫んだ。俺は狐に睨まれた兎みたいに飛び上がって、それから脱兎のごとく逃げ出した。
【ワールウィンド】
【バリア】
「うぉぉああっ!!?」
背後ですさまじい突風が吹いて、俺は勢いよく後方に吹っ飛ばされた。俺の躰はまるで枯葉みたいに風に煽られながらも、特に怪我もなく地面にふわりと着地。どうやら、先輩が俺のことを上手く守ってくれたらしい。それに、自分の身体がやけに身軽なのも、きっと先輩が何かしたおかげだろう。先輩様様である。
先輩は大丈夫だろうか。振り返ると、先輩も傷一つない。一先ず安心だ。というか、全く大丈夫そうだ。もしかして、別に逃げる必要もなく先輩が圧勝してしまうのではなかろうか。そんな楽観的な考えが首を擡げ始めた。しかし、対する先輩の顔色は遠目にも優れなかった。
「おかしい」
先輩はそう呟いた。先輩は、もうさっきからずっと顔色が悪い。彼女曰くどうも何かがおかしいらしいが、何がおかしいのか、俺にはさっぱりわからない。
「【ワールウィンド】は確かに威力の高い強力な技だけど、使用後は全ての能力が大きく下がるはず。それにオーラも沢山消費する。連続使用はできないのに……」
そう言われて、俺は思わずグリーンゴブリンを見やった。確かに、先ほどまでのひょろ長い腐ったもやしはどこへやら、妙にいきり立って元気も溌剌と言った具合に、身体がピンと伸び始めている。見た感じ、弱くなっているどころかむしろ……。
【ワールウィンド】
混乱する俺たちなぞお構いなしに、グリーンゴブリンが先輩に向かって手をかざした。それだけで凄まじい旋風が吹き荒れて、先輩は避けきれず後ろにいた俺の所まで吹っ飛ばされた。
「うげぇっ!!」
【エンチャヒール】
レベル『8→7』
咄嗟に飛んできた先輩を受け止めたものの、凄まじい衝撃にうめき声が漏れる。同時に、なんだかすごくいい匂いが鼻孔を擽ったが今はそれどころではない。
「大丈夫ですかっ!」
「うん、ありがとう! でも、キミは私に構わなくていいから、早く逃げて!」
「先輩独りで勝てるんですか!?」
「大丈夫。あと何発かは、あの攻撃にも耐えられるから」
確かに、先輩の躰はおろか、服にも切り傷一つ見られない。というかそもそも、仮に俺がいたところで、俺に何ができるわけでもない。早く逃げてくれた方が、先輩も戦いやすいのかもしれない。だが、何かが俺の頭の中に引っかかっていた。
「でも……敵の能力もわからないんでしょ!?」
「それも大丈夫。多分……相手が持ってる特殊能力は【あまのじゃく】」
「あまのじゃく?」
【あまのじゃく】
あらゆる能力の影響が、あべこべになる。
「だから『能力が下がる技能を使えば能力が上がる』し、『ダメージを受けると逆に回復する』んだと思う。前例が殆どないすごく珍しい特殊能力だよ」
「そんなの……」
だから、先輩の攻撃は一切効かず、逆に敵は、本来デメリットの大きい技能を、適当に連発するだけでどんどん強くなっていくチート技能として何度も使えたのだ。
てことは。
「そんなの、絶対勝ち目ないじゃないですか!!」
あまりにも強すぎるし、理不尽極まりないチートそのものだ。十中八九先輩に勝ち目はない。
「ううん。そうでもない」
ところが先輩はあっさりと頭を振った。なんでやねん。
「あまのじゃくは、『ダメージを受けると回復する』。逆に言えば『回復したら、逆にダメージを与えられる』。決して無敵なわけじゃないの」
「……あ、なるほど」
確かに、謂われてみれば無敵ではない……のか? と言うことは、先輩は相手を回復するための何かしらの手段を持っているってわけだ。
「ね? 大丈夫だから」
「わ、わかりました」
先輩の目は確信に満ちていた。俺はそれを信じて、先輩を置いて独り走り出した。考える時間はなかった。既にグリーンゴブリンはすぐそこまで迫ってきている。
「そのまま迷宮を出て。絶対に振り返らないでね」
先輩に言われるまま、背後でまた突風が吹いても、俺は構わず走った。それが最適解だと思ったからだ。俺がいても、先輩の足手まといにしかならないからだ。
風に吹かれて、俺の足元へ不意に何かが転がってきた。思わずそれに躓きそうになってしまった。俺は咄嗟に避けて、そのまま走り抜けようとして――ハッそれを二度見した。
足元に転がってきたのは、ズタズタに切り裂かれた右腕だった。
俺は振り返った。柚月先輩の右肩から、血が勢いよく噴き出しているのが見えた。
――あと何発かは耐えられるから。
先輩はああ言っていた。俺もそれを鵜呑みにした。実際、先輩は傷一つ負っていなかった。違う、そうじゃない。馬鹿か俺は。入部の際にちゃんと教えられただろうが。オーラは見えない強化外骨格のようなものだ。オーラが尽きない限り、決して肉体が傷つくことはない。だが、オーラは技能による攻撃を受けると減少する。そしてオーラが完全に尽きる――つまり、オーラ全損状態になると、オーラは失われて、普通の人間に戻ってしまう。
グリーンゴブリンが放った二度目の【ワールウィンド】が直撃した時、既に先輩のオーラは完全に尽きていたのだ。先輩はそれを、俺に悟らせないよう、気丈に振舞っていたのだ。先輩は、殿を務めるつもりなのだ。俺の代わりに、死のうとしている。実際、もう死にかけている。
どう考えたって、次の攻撃で、先輩は死ぬ。放置しても、出血多量で死ぬ。
先輩が死ぬ。
死ぬ。
足元に転がっている、先輩の右腕を見た。次は、先輩の全身がこうなる。じゃあ、俺が引き返して先輩の肉盾になったら? もちろん意味などない。ミンチがもう一つ出来上がるだけだ。
なあ、キミならどうする?
答えは決まってる。
俺は
―――目を閉じて、そのまま逃げだした。
誰だって、そうするはずだ。俺が特別クズだからってわけじゃない。世話になった先輩を見捨てるわけにはいかない、などという御託は、まず命があってのものだ。そうだろ?
これは至極当たり前の行動なのだ。そもそも、先輩は俺に逃げろと言った。それが先輩の願いなら、それを全うするのが後輩の務めじゃないか。
とかなんとか。言い訳ならいくらでも思いついた。でも、じゃあなんで俺は目を閉じながら走っているのだろうか。それだけがわからない。
そんなアホなことをしていたので、案の定すぐにコケて、額が地面に激突した。
【エンチャヒール】
レベル『7→6』
頭を打ってもまるで痛くない。オーラが俺を護ってくれている。でも、先輩は違う。既にオーラを失い、何ならもう片腕も失ってしまった。もう、彼女は死んでしまっただろうか。目を開けるのが怖い。目を開けて、使い古されたボロ雑巾の様な肉片が、あたりに散らばってるのを目にしてしまったら、ちょっと立ち直れそうにない。せめて、さっさと起き上がってまた逃げ出せればいいのに、どういう訳か顔を上げることもできない。頭が、巨大な岩で押さえつけられているみたいに、重たい。
ふと、先輩の父親の男の顔が、脳裏に思い浮かんだ。あいつは、クズだ。先輩から、娘から金を巻き上げる腐れ外道のダニ野郎だ。
だけど、俺は? アイツがダニなら、俺はなんだ?
続いて、くろぶち先輩の顔がさっと脳裏をよぎった。彼は、白い目を向けて俺を軽蔑していた。敬愛する先輩に寄生するダニを、蔑む目だ。俺が、先輩に寄生するダニを見る目で彼女の父親の男を見ていたのと同じだ。くろぶち先輩も、俺を、先輩に寄生するダニを見る目で見ていたのだ。
そのことに気が付いた瞬間、俺は初めて、クズだと思っていた父親の男の気持ちが、ほんの少しだけ解った。親にとって、子どもは特別な存在なのだろう。まして、迷宮で華々しく活躍して、大金を稼いでくる娘なら、なおさらだ。
彼女は特別だ。特別だから、凡人たる父親は、その特別さに甘えているのだ。特別だと分かったから、安心して彼女から金を搾り取っているのだ。そして、それは俺も全く同じだ。彼女を、何の得もないレベリングに付き合わせても。危険な目に遭わせても。それでも平気で見捨てて逃げ出せたのも。彼女が特別だからと、心のどこかで割り切っていたからだ。
特別だから、生まれや育ちが違うから。天から与えられた才能があるから。そう言い訳して、俺たちは先輩から何もかも搾り取って、素知らぬふりをしていた。
俺は、どうしようもなく凡庸だった。この先、何度だって言い訳を繰り返して、他人から搾取し続けるだけの人生を惰性で過ごす。簡単に想像がついた。
皆が右を向けば、右を向く。決して左を向かない。そうやって俺は生きてきた。何故なら、もし一度でも左を向いてしまえば、右を向いているその他大勢と目が合ってしまうから。俺にはその重圧に耐える自信が無い。今だってそうだ。先輩が俺のせいで死ぬという事実から、目を背け続けている。
でも。だって。しょうがないじゃないか。
そんな言葉が何度も頭の中を駆け巡り、その最後に、いつか見た先輩の顔がよぎった。あれは確か――先輩が父親にお金を渡していた時の顔だ。口元に微笑みを浮かべながらも、どこか空虚な、あの。
あの時の先輩の顔を、俺は知っている。あれは、そうだ、俺が「くだらねー」とか呟きながら、web小説や漫画、アニメやドラマを流し見していた時の、自分の顔。先輩も、あの時の俺と全く同じ顔をしていた。何もかも諦めて、見ないふりして、世の中を白眼視して、それでも何かに縋りたくてうずうずしている。そんな顔。
――何で、先輩がそんな顔するんですか。
何もかも、特別な……先輩が。
――家族だから
そうか。
そうだったのか。
先輩も、俺と同じで特別なものに憧れていたのだ。手に抱えているズタボロのぬいぐるみに必死にしがみついて、決して手を離そうとしない、小さな子供みたいに。
ハッとして、きつく閉じていた目を、開けた。
目の前に、グリーンゴブリンが立っていた。
「なんで戻ってきたの!?」
後ろで先輩が叫んだ。いや、なんでって……自分でも――
【ワールウィンド】
先輩の叫びに応えようとしたその直後、にわかに突風が前方に巻き起こり、目の前に巨大な空気の壁が押し寄せてきたかのような、凄まじい衝撃に全身が襲われた。
「おわあああっ!!」
【バリア】
咄嗟に右手を突き出して、先輩に勧められて俺が唯一取得した技能、【バリア】を正面に展開した。すると、全身を濁流の如く取り囲んでいた風が、ピタリと止んだ。
【エンチャヒール】
レベル『6→5』
【エンチャヒール】
一定の熟練度に達したため、ランク上昇 『E→D』
「先輩、今分かったんですけど!」
凄まじい風圧に思わず後ろに半歩下がると、すぐ後ろでへたり込んでいた先輩に、腰がぶつかった。
「先輩が勧めてくれた、バリア。俺には全く意味ないみたいです! 攻撃を防ごうが防ぐまいが、結局エンチャヒールが発動してオーラを全回復しちゃうみたいなんで」
【エンチャヒール】
レベル『5→3』
「――えっ?」
先輩がギョッとして、自分の右肩を見た。先ほどまで、蛇口のようにコンコンと流れ落ちていた血が、俺と接触した途端、ぴたりと止まった。
「オレ、特別な人間になりたかったです」
「えっ、何?」
グリーンゴブリンは既に、両手を構えて、ほとんど間髪入れずに次の攻撃に移ろうとしている。だが俺は構わず、茫然と座り込んでいる先輩に続けた。
「何時も食べてる飯も、着てる服も、住んでる家も、全部他人からもらったもんばかりで……。そういうものに囲まれて生きてると、なんていうか、すごく辛いんですよ。まるで自分が、世界から切り離されたみたいに孤独で……。だから、特別な人間になりたかった。先輩みたいな人に、なりたかった」
声が震えた。先輩は「急になんだこいつ」とでも思っているだろうか。だったとしても構わない。もう、孤独の痛み、心の炎症を小賢しい冷笑で誤魔化すのは、止めにしたいんだ。
「先輩には色々助けてもらってばかりで、なのに、俺は先輩になんにも返せるものが無くて」
【ワールウィンド】
伸びきった襟や裾の様な、みっともない冗長性に満ちた俺の、到底理解不能な独白など、敵が悠長に待ってくれるはずもなかった。再び全身が旋風に呑まれる。
【エンチャヒール】
レベル『3→2』
折角先輩からもらった経験値も、粉雪みたいに、あっさりと溶けて消えてゆく。もらったもの何もかも無駄にして、どころか今度は先輩から命まで奪う。
頼むからこれ以上、自分を失望させるのは止めてくれ。お願いだから先輩だけは助けさせてくれ。
「俺だって、人生で一回くらいっ!! 人助けしたいっ!! ありがとうとか言ってもらいたいっ!!」
これが俺の本当の気持ちだ。俗物感丸出しの吐露。でも、そんなに悪い気分じゃない。子どもの頃大嫌いだった食べ物を、大人になって食べたら思ったよりもおいしかった時と、似た気分だ。
俺は先輩の方をちらりと見やった。彼女は目に玉のような涙を浮かべていた。感動して泣いたのか、それともアホすぎて泣けたのか知らないが、ごめんなさい。泣かないでください。
先輩は、俺みたいに寂しい顔を浮かべないで、笑っていて欲しいです。特別な人なんだから。
俺は出来る限りの全力でもって、前へと駆けだした。
結局のところ、俺が選んだのは考えなしの特攻。
「――君っ!!」
遠くで、先輩の声が聞こえたが、俺は構わなかった。渦を巻く突風を無理やり突き破って、乾坤一擲、捨て身でグリーンゴブリンの懐に飛び込んだ。
巨大な壁の様な風圧を突き破って、あらんかぎりに手を伸ばした。
【エンチャヒール】
レベル2→0
ランクE
『オーラを消費した場合、レベルを1だけ消費して自動的にオーラを全回復させる』
ランクD
『触れた対象のオーラを、レベルを2だけ消費して全回復させる』
俺の手がグリーンゴブリンに接触した瞬間、グリーンゴブリンは塵と化した。
塵は旋毛風となってクルクルと天井へと舞い上がり、やがて、暗い迷宮の闇の中に溶けて、
消えた。
エンチャヒールの新たな能力。それは、レベルを2だけ消費する代わりに、触れた相手のオーラを全回復する、というものだった。
グリーンゴブリンが即死したのは、奴がもっていたであろう特殊能力、【あまのじゃく】の効果によって現象が反転したためだ。本来は全回復するはずだったオーラが、【あまのじゃく】によって逆に全損してしまった。結果、グリーンゴブリンは即死した。
全く役に立たないハズレ能力の【エンチャヒール】が、奇跡的なかみ合いによって功を奏した形での決着である。ただただ運がよかっただけともとれるが、藁にも縋る想いが実を結んだのだと考えるのは――さすがに頭がお花畑だろうか。
事実として、敵を倒したから大団円! って訳にはいかない。何故なら、別に敵を倒したからといって、ゲームのドロップ品みたいに、先輩の右腕がそっくりそのまま帰ってくるわけではないからだ。右腕の欠損は、不可逆的な損失なのだ。それは、取り返しのつかない俺の罪である。
先輩の出血は、オーラを取り戻したおかげで止まっている。痛みも軽減されているはずだ。だが、それはあくまでも迷宮に限った話である。迷宮を脱出したら、すぐにでも病院に行かなくてはならない。
「すいません、俺のせいで」
「ううん。キミのせいじゃないよ。寧ろ助けてもらった」
「でも……」
探索者にとって、片腕の欠損は致命的だ。プロ野球選手が腕を失うのと同じくらい、いや、それ以上に致命的かもしれない。まして、右腕は先輩の利き腕だ。
というか、そもそも探索者がどうこう以前に、片手を失えば普通の生活を送るのすら困難になる。
先輩の腕は、半ば俺が盗ったようなもんだ。一生かけても、償い切れない罪。何もかも俺がダメにしてしまったのだ。
「……ねぇ」
俺が下を向いて涙を堪えていると、先輩が徐に声をかけてきた。
「何をあげても、どんなに頑張っても、満足することなんて一度もなかった。
たくさんお金を使って豪遊してみても、
逆にお父さんの好きなようにお金を使わせてみても、お母さんがどんな人を家に連れ込もうが文句を言わないことにしても、
優しい人を心がけて、それで周りのヒトから感謝されても、……『寂しい』って気持ちは満たされなかった。だから、いつ死んだって別に構わなかった」
先輩は、残された左手で俺の手をそっと掴んだ。
「今は違う。不思議なんだけど、今、すごく満足してる。満たされてるって気がする。初めて孤独じゃない。キミに、大切なもの、『特別』なものをもらったから」
特別なもの?
「『生きてていいんだよ』って気持ちを、もらった」
その言葉を聞いて、びっくりして顔を上げた。先輩は笑っていた。右腕以外の全てが、そこに在った。欠落した右腕は、俺が、先輩の気持ちを踏みにじって、言い訳しながら先輩からかすめ取ってきた、あらゆるものの象徴であった。でも、だとしたら、それ以外の全部は、俺が先輩に与えた、かけがえのないものだってことなのだろうか。それとも、これも全部、俺の都合のいい妄想じみた解釈なのか。
どう思う? 少なくとも、先輩はあの時みたいな、寂しそうな顔はしていない。先輩は、笑いながら、俺に言った。
「――ありがとう、サガル君」
先輩のその言葉を聞いた瞬間、俺は年甲斐もなく涙を流した。今だけは、世の中の理不尽さや、自己の惨めさを忘れて、赤ん坊みたいに泣いてもいいって、素直に思えた。
今この瞬間に、俺ははじめてこの世界に生まれた。そんな気がしたから。
次の更新予定
2026年1月14日 00:00
俺だけレベルダウン まくらカバー @Dogramagra
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