第2話 三名同時、止まらない手術
――仕事の音――
海上プラント事故。負傷者、三名。外傷。その報せを受けた瞬間、スクナの中は一気に“仕事の音”へと切り替わった。誰も叫ばない。誰も指示を待たない。それが、かえって落ち着かなさを生んでいる。
――まだ誰も、この病院船で患者を受け入れたことはない。
だが、生存確率六十パーセントという数字が、この場にいる全員の背中を、すでに押していた。
「……外傷か」誰かが、ぽつりと言った。「じゃあ、着替えないとですね」
――名前の刻まれたロッカー――
男たちは、自然と男性更衣室へ流れ込む。私服のまま立ち止まる者はいない。ロッカーが、一斉に開く。中には、スクナのロゴが入ったスクラブと白衣。サイズも、ほぼぴったりだ。
そして――ロッカーの扉には、“見学のはずだった”メンバー全員の名前が、それぞれ刻まれていた。
「……は?」診療放射線技師の光岡が、眉をひそめる。「俺の名前……入ってるんだけど」検査技師の波多野が、苦笑する。「冗談、きついな。まだ正式に、何も決まってないだろ」誰かが、舌打ちした。「なんなんだよ、これ」「もう、ここのメンバーって勝手に決められてるみたいじゃないか」
空気が、ざらつく。イライラ。不安。得体の知れない違和感。ほとんどの男たちは、無言でスクラブに袖を通した。納得していない。だが、拒否もできない。
その中で――「……すごいな、これ」臨床工学技士の工藤だけが、目を輝かせていた。「船に、名前入りロッカーって……映画みたいじゃないですか」誰も返事をしない。工藤は気にせず、スクラブに腕を通しながら続ける。「しかも、外傷対応でこの装備。最初から“止まらない前提”ですよね」
ワクワクが、隠れていない。「……性格、出てるな」誰かが、ぼそっと言った。
――準備という覚悟――
女性更衣室の扉が閉まると、外のざわめきが、すっと遮断された。静かだ。その静けさが、緊張をはっきりと浮かび上がらせる。
速水灯は、ためらいなく私服を脱いだ。下着姿になることに躊躇はない。医療従事者にとって、大事なのは、間に合うかどうか。看護師の手島陽菜と花村しずくも、ほぼ同時に私服を脱ぎ、オペ着に袖を通していく。動きは速く、無駄がない。二人は自然な流れで、帽子をかぶり、マスクをつけた。そこに、迷いはなかった。
「……外傷ですね」しずくが、マスク越しに言う。「ええ」陽菜が、短く答える。「搬入は、山本さんがやる」「触るのは、まず向こう」「私たちは、先にオペ着になっておく」
説明というより、確認だった。灯が、オペ着の袖を整えながら言う。「私、非接触オペですよね」陽菜が、マスク越しに視線を向ける。「はい。判断と指示」
一瞬の間。灯は、淡々と答えた。「でも、オペ着の方が気合が入るし」「何かあったときのためにも、着替えるよ」準備としての判断だった。
しずくが、小さくうなずく。「……分かります」「着てる服で、自分のスイッチも切り替わりますから」
三人は、無言でオペ着を整える。灯には、帽子もマスクも必要ない。——触らない。——決める側。その立ち位置が、服装だけで分かる。
隅で、管理栄養士の稲葉つむぎが静かに白衣を羽織った。私服の上からだ。「……私も、白衣にします」声は小さいが、揺れていない。「気持ちだけは、皆さんと一緒に、仕事モードになります」
薬剤師の薬師寺澪も、つむぎに続くように白衣を広げた。「私も、白衣にします。……私はまだ、この状況を認めていません。ですが、劇薬や未承認薬を管理する人間がここにいないわけにはいかない。薬剤師として、職務を果たします」眼鏡のブリッジを押し上げる動作は、冷徹なほどに正確だった。
灯は二人を見て、短く言った。「それで十分」
女性更衣室には、冗談も、戸惑いもなかった。あるのは、もう始まっている、という共通認識だけだった。
――受け入れ――
ヘリのローター音が、昼の海を切り裂いた。白い空の下、甲板は一気にあわただしくなる。自衛隊機が着艦する。衝撃が足の裏に伝わり、金属音が低く鳴った。
後部ハッチが開く。担架が、一台、二台、三台。間を置かずに降ろされる。「外傷患者、三名!」「海上プラント爆発事故!」「一名、意識障害あり!」声が重なり、甲板は病院の救急車前と同じ空気になる。あわただしい。だが、混乱はない。
村上が前に出る。医師として、顔色、呼吸、出血の有無だけを一瞬で拾う。「――初療室」短く、通る声。「まず、全員そこへ」
自衛隊員が即座に動く。その横で、山本が声を出す。「直進」「止めないで」「初療、すぐ入れる」担架は、救急車がストレッチャーを押し込むように、迷いなく初療室へ運ばれていく。
その流れを、少し後ろから理久が見ていた。何もできない。ただ、ここまで想定してきた光景が、現実になっていることを見届けている。
――選ばないトリアージ――
扉が閉まると、甲板の騒音は一段、遠ざかった。初療室の中は、すでに「実戦」の密度に満ちている。
村上と山本。二人だけとは思えない手際で、モニターが起動し、資機材が次々と展開されていく。そこに「指示を待つ時間」は存在しない。あわただしさはある。だが、混乱はない。その落ち着きは、余裕ではない。命の瀬戸際に立つ者たちの、覚悟に近いものだった。
村上は、三台の担架を一度に見渡せる位置に立つ。ここでやるのは、詳細な診断でも、根本的な治療でもない。意識。呼吸。循環。「今、この瞬間に死ぬかどうか」を、一つずつ確かめる作業だ。
―トリアージ―
患者A
四十代。呼吸は浅く、速い。腹部が不自然に上下し、シーツの下に、にじむというより、溜まるような暗い影が広がっている。山本が、無駄のない動きで状態を確認する。その少し後ろで、村上は腹部の動きと顔色だけを見る。触らない。止めない。触れた瞬間に、状況が変わることがあると知っているからだ。
一歩引いた位置から、灯が視線を送る。長居はしないが、この一瞬は見逃せない。「腹部外傷……出血、多そうですね」声は低く、安定している。「刺さったというより……爆風で、内側が一気にやられてる感じです」灯は言葉を選び、断言はしない。
それでも、軽い所見ではないことだけは全員に伝わった。「このあと、検査ですね」 「ああ」それ以上は、いらなかった。
患者B
三十代前半。意識はあるが、呼吸が追いついていない。「息が……吸いにくい……」言葉の合間に、息が途切れる。村上は、胸郭の動きと呼吸数を見る。肋骨の動きが、左右でわずかにずれている。「……呼吸音、左右で違うな」
灯が、モニターを一瞥する。数値は、まだ、かろうじて形を保っている。「今は、保ってます」“今は”。誰も、その続きを口にしない。落ちるときは、準備の時間すらないことを、全員が知っているからだ。
患者C
五十代前後。担架の上で、動きはない。呼びかけに反応はなく、瞳孔の動きも鈍い。側頭部の髪が、血で固まり、乾き始めている。山本が、頭部と頸部の固定を確認する。ずれはないが、それで安心できる段階ではない。
村上は、呼吸のリズムと脈を確かめる。遅く、浅い。「……呼吸はある」それだけを告げる。灯が、距離を保ったまま言う。「頭部外傷ですね。中を強くやられてる可能性があります」断言はしない。だが、この患者が今いちばん静かに、いちばん危ないことは、全員が分かっている。
村上は、三人分の凄惨な状態を頭の中で並べる。どれも、単独なら普通の病院では――いや、大学病院の救急センターであっても、リソースの“選択”を迫られるレベルだ。誰を優先し、誰を後回しにするか。その残酷な決断を、本来なら今ここで下さなければならない。
だが、ここでは違う。村上は一歩下がり、声を出す。「――検査、行きます」低く、だが、はっきりと。「三名、続けて」
山本が即座に動く。担架が鮮やかな手際で旋回し、初療室から次々と流れ出ていく。
灯は、初療室を出る直前、ふと足を止めた。背後に立つ理久の視線に気づき、一瞬だけ、強くにらみつける。
言いたいことは山ほどある。なぜこんな真似をしたのか。なぜ私なのか。だが、灯は何も言わない。今、言葉にすれば、理不尽への怒りが先に溢れ出してしまう。それよりも、今は――。
灯は、救う側の医師でいることを選んだ。一瞬で視線を切り、迷いのない足取りでオペ室へと向かった。
理久は、灯の鋭い視線を真正面から受け止めていた。言葉を、かけたかった。だが、今の彼にそれは許されない。
医学部を辞めたという立場で、臨床の言葉は使えないのだ。「大丈夫だ」も、「任せた」も、今の理久が口にすればそれは偽りになる。期待も、判断も、すべてはあの日、臨床の現場に置いてきたものだった。
だからこそ、今の自分にできるのは見守ることだけだ。理久は、検査ユニットへ向かう担架と、一度も振り返らず背を向けて歩く灯の姿を、同時に見送った。
――逃げなかった。
それだけは、はっきりと分かっている。担架が視界から消え、静寂が戻る。理久はその場に残り、これから起きるすべての責任を引き受ける覚悟だけを、静かに、深く、固めていた。
――判断は、もう走っている――
担架が、静かに滑り込む。照明が落ち、モニターの光だけが空間を支配した。
「自動採血、開始」三人分の採血が、ほぼ同時に始まる。その瞬間、波多野がモニターに身を乗り出した。
「……早い」思わず、声が漏れる。「まだ一本目だろ」「もう凝固系、出てる?」返事を待つ前に、ガス、炎症、電解質、代謝といった数値が流れ込み、画面が一気に埋まっていく。
「同時……?」光岡光一が横から覗き込む。「順番、ないな」「全部、同時だ」波多野はもう、目を離していない。「誤差、ほとんど出てない……。“今この瞬間”の血だ。人が採って、運んで、回して……その前提、最初からない」
HAKUTOの音声が、淡々と割り込む。「同時採血・同時解析を、基本設計としています」波多野が乾いた笑いを浮かべた。「基本、ね……。人間、どこで入る想定だよ」
ほとんど間を置かず、画像の再構成が始まる。CTとMRI、本来は別々に撮り、
別々に読むはずのものが、一つの画面で同時に立ち上がる。立体像が完成形に近い状態で浮かび上がった瞬間、光岡は言葉を失った。
「……見えすぎる」血管。臓器。微細な出血点。その深さも、広がりも、重なりも。「CTとMRI……こんな風に、同時に“分かる”もんじゃない。これは……撮ってるんじゃないな」光岡が画面を見つめたまま応じる。「もう、判断してる」
波多野は短く息を吐いた。「人間、追いついてない」数値と画像が整理される前に、結論だけが前に出る。
• 患者A:腹腔内出血。肝損傷
• 患者B:肺挫傷。多発肋骨骨折。進行性気胸
• 患者C:硬膜下血腫。頭蓋内圧上昇
診断名は、“読む”より先に表示されていた。波多野はその一覧を見つめたまま呟く。「……早すぎる」光岡も視線を外さない。「これで、人間がやるのは……」
言葉を探し、やめた。波多野が続きを引き取る。「確認、か。それとも、責任だけか」
モニターは、すでに次の工程を示している。止まる理由は、どこにもなかった。
――三つの命、ひとつの視界――
白い光に満たされた手術室に、速水灯は立っていた。すでにオペ着を纏い、マスクの奥で静かに呼吸を整えている。その左右には、手島陽菜と花村しずくが控えていた。三人とも同じ色の布に身を包み、同じ方向――三つの手術台を見つめている。
手術台の上空には、三十六本のロボットアームが鎮座していた。その数は圧倒的だが、決して過剰には見えない。一本一本が「必要だから、そこにある」位置に収まっており、手術室そのものが最初から完成した“設計図”のようだった。
すでに鉗子、縫合器、吸引系といった器機は展開されている。薬剤トレーも三人分、用途ごとに完璧に整えられていた。HAKUTOの声が、手術モードの無機質な調子で響く。「必要器機、薬剤、全てセット済みです」「状況に応じて、即時切り替え可能」
その直後、担架が運び込まれた。一台、二台、三台。白いシーツの下には、それぞれ違う“壊れ方”を抱えた身体があった。患者たちはベッドへ移され、固定され、モニターが繋がれる。三つの心拍音が重なり合った瞬間、手術室の扉が閉まった。音が吸い取られるように消え、残ったのは機械の駆動音とモニターの光だけだった。
速水灯は、自分の心拍をはっきりと意識していた。(……初めてだ)三人同時。すべてを、一人で見る。胸の奥がきゅっと縮み、灯は「怖い」という感情を否定せずに受け止めた。
灯は陽菜としずくに目を向け、ほんの少しだけ声を落として言った。「……こわいよね」それは命令でも確認でもない、ただの感情の共有だった。
一瞬の間を置いて、陽菜がマスクの奥で息を吐いた。「はい。正直、かなり」しずくもモニターから目を離さずに続ける。「逃げたいって、思いました」
灯は小さくうなずいた。「……うん。私も」三人とも怖さを抱えたまま、ここに立っている。それでいいのだと自分に言い聞かせ、灯は短く息を吸った。
(……きっと、大丈夫)
胸の奥でそう唱えてから、灯はゆっくりと視線を上げた。「手術、はじめます」
その声は静かで、一点のぶれもなかった。その一言をトリガーに、手術室の静寂が無機質な駆動音へと塗り替えられる。三十六本のアームが一斉に「待機」から「実戦」の軌道へと滑り出し、巨大なシステムが灯の意志と完全に同期した。
「プロトコル、灯・ワン。全系、同期」
その宣言と同時に、モニターが瞬時に切り替わった。三台の手術台の上に、半透明の工程イメージが重なり、腹腔、胸腔、頭蓋のそれぞれに処置の流れが鮮やかな色分けで走る。
HAKUTOの声が、優先順位を叩きつけるように響いた。「三名同時手術、開始工程を提示します。患者A:腹腔内止血を先行。患者B:胸腔減圧を並行。患者C:頭蓋内圧管理を最優先。本手順で三系統同時開始します。よろしいですか」
灯は全体を一瞥し、迷いなく応じた。「……OK。同時に全部やる。状態は必ず動く、特にC。モニタリング、変化が出たら即、教えて」
「了解しました。患者Cを最優先に監視します」
HAKUTOの応答と同時に、三十六本のアームが一斉に跳ねた。速い。速すぎる。しかも、止まらない。ためらいも確認もなく、まるで最初から“ここまで来ること”が決まっていたかのような動きだ。
三つの手術台をまたぐようにアームが交差し、人が指示を出す前に次の動きが始まる。その光景を前に、陽菜としずくは言葉を失い、ただ必死に視線を追うしかなかった。
「……なに……これ……」しずくの声は、自分でも驚くほどかすれていた。理解が追いつかない。怖いとか、すごいとか、そんな言葉を紡ぐ余裕さえない。陽菜もまた、息を吸うことすら忘れて立ち尽くし、ようやく途切れた声を絞り出した。「……ほんとに……始まってる……」
その間も、灯の声は切れずに続く。「患者C、頭蓋内圧、急上昇」というHAKUTOの警告に、灯は低く応じる。「Cから。A、今の止血工程、続行。B、減圧準備、まだ触らない」
アームがまず頭側に集まり、切開、圧管理、映像解析が同時進行する。灯は一切目を逸らさない。
「A、状況」「患者A、出血量、横ばい」「そのまま。Bは」「患者B、酸素化、低下傾向」「次、B。でもCは外さない」
アームが分かれ、頭側と胸側の処置が並行して走る。陽菜が思わず息を呑んだ。
「……これ……本来なら、医者が六人以上は要る……」
否定も訂正もできない現実が目の前にある。「C、圧、確認。A、次のライン。B、今、減圧」「患者C、頭蓋内圧、変動。上昇28、下降23」「……まだ行ける」
一拍も置かず、次の指示が飛ぶ。三件同時、優先はC、だが誰も止めない。手術は、もう後戻りできない速度で走り出していた。
三つの術野が、同時に開いた。腹部、胸部、そして頭部。本来なら一つのフロアでさえ別々の手術として扱われるはずの光景が、一つの視界の中に収まっている。
患者Aは腹壁が展開されて腹腔が露出し、暗赤色の血液が静かに溜まっていく。患者Bは肋間が広がり、胸腔が開くのと同時に、目に見えて肺の動きが乱れ始めた。そして患者Cは頭皮が反転して頭蓋骨が露わになり、低く乾いた骨削の音が室内に響く。
三台の手術台から発せられる、三種類の「開く音」。それらが重なり合う異様な旋律に、しずくの声はほとんど音にならなかった。陽菜は無意識に数えていた。腹部外科、胸部外科、脳外科。本来ならそれぞれに専門チームを必要とする三つの命を、灯はたった一人で見ているのだ。
灯は一度も振り返らず、間を置かずに三つの指示を飛ばした。「A、出血源、ここ。B、肺、動かないで。C、骨削、あと三秒」HAKUTOが即座に応じる。「腹腔、視野確保。胸腔、換気補助調整。頭蓋、開頭完了まで60秒」
骨が外れ、頭蓋が持ち上がって脳が露出する。その瞬間に腹腔で出血点が跳ね、胸腔では圧が大きく揺れた。「A、今、止血。B、待って。今じゃない。C、触る」淡々とした声で行われるその行為は、もはや狂気そのものだった。
三人の「中身」が同時に晒され、一つでも判断が遅れればどれかが終わるという極限状態。HAKUTOが「三術野、同時進行を確認」と冷徹に告げる。陽菜はもう言葉を失っていた。これは単なる技術の問題ではない。判断の総量が、もはや人間の前提を超えている。しかし灯は、それを「普通のこと」として冷徹に進めていく。
「A、次。B、今。C、圧、確認」三つの開いた身体、そして三つの異なる時間。そのすべてが灯の一つの声に束ねられ、止まることなく突き進む。
この瞬間、スクナの手術室では、医療の常識が同時に三つ、破られていた。
――人は、止められない――
臨床工学技士の工藤は、オペ室横にある器材準備室の窓に張りついたまま、その向こう側で狂気的な速度をもって走るアームから目を離せずにいた。
三十六本ものアームが同時に動いている。しかも、互いにぶつかることすらない。「……おかしいだろ……」抑えきれない声が漏れる。
腹部、胸部、頭部。まったく別の処置が同時進行しているというのに、アーム同士が次の動きをあらかじめ知っているかのように、鮮やかに避け合っていく。「次、そこに来るって……分かってる動きだ……」視線はアームが交差する一点を執拗に追う。速く、近く、それなのに一切乱れない。
さらに工藤を驚かせたのは、わずかに遅れて更新されるAIのレコメンドだった。処置の順序、圧の微調整、そして次に起きる変化。そのどれもが、灯の指示とほとんど同時に示される。
「……当てに来てる……」あまりの光景に、思わず笑いがこぼれた。「これ……人が振り回してるんじゃないな……」窓の向こうを凝視したまま、彼は呟きを続ける。
「一緒に……走ってる……」
現場の緊迫感から切り離されたその瞳には、ただ純粋な技術的興奮だけが宿っていた。
「……そりゃ……止まらないわ……」それだけ言い残すと、工藤は再び、吸い込まれるようにアームの軌道を追い始めた。
HAKUTOの無機質な声が、限界が近いことを告げる。「患者B、血圧低下予測。30秒以内に介入推奨」
灯は、返事をしない。視線はすでに、別の危うい兆候を捉えていた。患者C。脳圧波形が、ゆっくりと、だが確実に持ち上がっていく。その角度、その速度。――次で、越える。
「……今」声は低く、短い。しずくが思わず息を止め、陽菜が一歩踏み出しかけて、止まる。
「C、入る」一切の迷いがない。「最小で。触るのは、ここだけ」
アームが即座に反応し、頭側へ静かに集まった。骨、膜、圧。すべてが一拍遅れで灯の意志に揃っていく。
その間も、他の命は崖っぷちに立たされていた。患者A。出血は止まりきっていないが、かろうじて持っている。患者B。酸素化は落ちきっていないが、寸前で踏みとどまっている。
それでも、灯は見ない。見るのは、いまこの瞬間に終わりかけている一人だけだ。
「……ここ」アームがわずかに角度を変える。波形が一度、大きく跳ねる。その瞬間、しずくが声にならない声を漏らし、陽菜が祈るように画面を見つめた。
一拍。脳圧が、落ちた。ほんのわずか。だが、確実に。
灯は、そこで初めて、肺の奥に溜まっていた息を吐いた。「……C、維持」間を置かず、次の指示が飛ぶ。「A、次。B、準備」
勝った顔はしない。まだ勝っていないからだ。今はただ、全員が「生きている」だけ。手術はまだ終わっていない。
だが――“いま”という最悪の瞬間を越えた。その事実だけが、機械音の響くオペ室に、静かに、重く残っていた。
――手術室の外――
ガラス窓の外で、結城理久はオペ室を見つめていた。三台の手術台と、止まることなく躍動するアーム。その傍らには、薬剤師の薬師寺澪、理学療法士の岩﨑剛、管理栄養士の稲葉つむぎが並び、息を呑んでその光景を注視している。
「……すげぇ……」岩﨑が、思わず声を漏らした。言葉がそれ以上続かない。「いや……ほんとに……すげぇ……」。そこには理屈も評価もなく、ただ目の前の圧倒的な現実に心を奪われていた。
稲葉つむぎは、少し遅れてガラス越しに身を乗り出した。「……こわい……」小さな、震える声だった。「でも……なんか……目、離せない……」。彼女は胸元で白衣の袖をきゅっと掴み、「ちゃんと……間に合ってほしい……」と祈るように呟いた。
その横で、薬師寺澪は視線を外さずに口を開いた。「……率直に言います。これは、安全な医療とは言えません」。理久は否定せず、ただうなずいて彼女の言葉を待った。
「未承認のAI。未承認のロボット制御。しかも、三件同時」。澪は、突きつけるように事実を一つずつ並べていく。「理論が正しいかどうかではありません。『止められるか』です」。
ガラスの向こうで、アームがまた鋭く交差する。「異常が起きたとき、誰が、どこで、止めるのか」。彼女は短く、断定するように言い切った。「危険です」。
岩﨑が、それでもモニターに輝きを宿したまま言った。「……でも……今、止めたら……終わりますよね……」。澪は答えなかった。代わりに理久が、静かに、そして重く言葉を返した。「はい。止めた瞬間に、命が落ちます」。
つむぎが、思わず小さく息を吸い込む。「……じゃあ……いまは……見守るしか……」。理久は、その絶望的な問いに否定も肯定もしなかった。「……ええ」。
ガラスの向こうでは、依然として手術が続いている。「すごい」という感情。「こわい」という感情。そして「危険だ」という冷静な判断。相反するはずのすべてが、同じ場所に、同じ瞬間に溶け合っていた。
――手術終了――
最後のアームが、静かに止まった。灯が、かすれた声で言う。「……終了」それだけだった。
モニターには、三人分の安定したバイタルが並んでいる。三本の波形が、同じテンポで上下している。生きている。三人とも。オペ室に、ようやく空気が戻った。
灯は、コクピットに深く沈み込んだ。肩が重い。腕も、脚も、言うことをきかない。 陽菜がそれを見て、長く息を吐いた。「……終わった……」
しずくは、モニターを見たまま言葉が出ない。何かをした実感はほとんどなく、ほぼ見ていただけだった。それでも、胸の奥がじんわりと温かい。陽菜としずくの目が合う。――助かった。その事実だけで、少しだけ、ほっとする。
そのとき、オペ室上方の表示がふっと切り替わった。無機質なUIが消え、淡い光が広がる。ちょこんと、白いうさぎのホログラムが灯の横に現れた。HAKUTOの声が変わる。さっきまでの冷たい音ではない。
「灯せんせい、おつかれさまでした。きょうの手術、とっても、すごかったです」
灯は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。褒められていることは分かるが、今は少しだけ、うっとうしい。「……ありがと」
うさぎはぴょこんと跳ねる。「灯せんせいは、えらいです。えらいです、えらいです」その単語の幼さが、逆に灯の神経に触れた。灯はゆっくりと天井を見上げる。眉がほんのわずかに寄る。「……そういうの、あとにして」吐き捨てるほど強くはないが、余裕はない。
陽菜はその空気を感じ取って、ふっと口元を緩め、思わず小さく笑った。「……ほんと、それ……」
しずくは、少し迷ってから口を開いた。言葉を探す。「ねえ……今日。私たち……何か、できたのかな……」陽菜も同じことを考えていた。「……ほとんど、AIとアームだったよね……」
二人はうさぎを見る。「HAKUTO。私たち……必要だった?」
うさぎは首をかしげるように揺れた。「きょうは、たまたま、うまくいきました。AIとロボットアームで、ぜんぶ、できました」。にこにこしている。「でもね」少しだけ、声の調子が変わる。「そうじゃない日も、たくさん、あります。想定外のことには、ぼく、対応できないことも、おおいです」
陽菜と灯が、同時に目を向けた。しずくも息を呑む。うさぎは、変わらない笑顔で続けた。「だから、ひとが、いるんです」
一瞬、オペ室が静まり返る。灯はもう一度、天井を見た。「……そういうの、先に言って」今度はほんの少しだけ、笑っていた。
三本の波形は静かに、同じリズムで動いている。呼吸は続いている。――終わった。いまは、それでいい。
――助かった、その先へ――
陽菜が、ゆっくりと深く息を整えてから言った。「……ここからは、病棟でのケアだね。ICUに、搬送しよう」
しずくが、はっと顔を上げる。「……はい!」その声には、もう迷いはなかった。
担架のロックを確認しながら、陽菜が続ける。「手術は終わり。でも、助かった“先”が大事だから」
うさぎのホログラムが、ぴょこんと向きを変えた。「ぼくも、いきます!ICUモードに、きりかえます!モニタリング、つづけますよー」自走式のホログラムが、先導するように担架の横に並ぶ。
「……HAKUTO」陽菜が一瞬だけ、苦笑を浮かべた。「ついてきてくれると、助かる」「もちろんです!」
しずくが、搬送の準備を整えながら小さく言った。「……オペ室では、ほとんど見てるだけでしたけど……」顔を上げる。その瞳には静かな光が宿っていた。「ここからは、ちゃんと、つなぎます」
陽菜は、力強くうなずいた。「それでいいよ」
そのとき、器材準備室から出てきた工藤が、少し弾んだ声を出す。「じゃ、僕もICU行きます!モニター管理、やりますんで!」誰に向けたともつかない、だが確かな宣言。灯か、陽菜か、それともHAKUTOか。たぶん、その全部だった。
陽菜が振り向く。「工藤さん、機器、頼むね」「任せてください!」
担架が静かに動き出した。オペ室を出て、長い廊下を抜け、ICUへ。“助かった先”へ。患者たちは、それぞれの命の鼓動を刻みながら、次の場所へと運ばれていった。
――想定されていた医師――
扉が閉まり、足音が遠のいた。コクピットに残ったのは、速水灯だけだ。静寂が、遅れて降りてくる。
モニターには三人分の安定した波形が映り、全員が助かったことを示している。胸の奥にじわっと達成感が広がるが、それと同じ速度で、激しい怒りがせり上がってきた。
「……なに、これ」声が震える。モニターに残る「プロトコル名」「同期制御」「優先度の再定義」といったログ。それは、灯がかつて机の上で何度も書き直し、「もし実装できたら」と夢想していた仮説そのものだった。
「私がいる前提で、組まれてる……」灯はぐしゃりと頭をかきむしった。考えが追いつかず、感情がそれを追い越していく。泣きたかった。だが、ここで泣けば、廊下でこちらを見つめる「あの男」に負ける気がした。
灯はゆっくりと顔を上げた。ガラス窓の向こう、外廊下に結城理久が立っている。何も言わず、ただ状況を受け止めるような顔でこちらを見ている。灯は視線をそらさず、にらみつけた。
私を呼ぶために、ここまで作ったんだ。自分が最初から「想定された存在」であったことへの恐怖と、認めたくないほど重い必要とされた事実。灯はもう一度強く頭をかくと、怒りを抱えたまま立ち上がった。
扉へ向かいながら、小さく呟く。「……もう、意味わかんない……」苛立ち、疲労、そして説明できない不安。ガラス越しに最後にもう一度、感情の置き場をぶつけるように理久を睨み、灯は扉を押し開けた。「……はぁ……」それだけを吐き出し、灯は外へと歩みを進めた。
灯が立ち去ったあとも、理久は静まり返った廊下で、ガラス越しに無人となったオペ室を見つめていた。張り詰めていた肩の力が、わずかに抜ける。その瞳に宿ったのは、目的を遂げた安堵か、あるいは、かつての友を修羅道に引き込んでしまったことへの寂寥か。理久は誰に見せることもなく一つだけ溜息をつき、ゆっくりと独りで歩き出した。
――これで終わり、なんてはずがない。理久とも、仲間たちとも、話さなければならないことは山ほどある。灯は一人では抱えきれない感情を胸に残したまま、暗い通路の先へ向かった。
次の更新予定
〈スクナ〉――届かない命に向かう病院船 星 剛史 @tsuyoshi_hoshi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。〈スクナ〉――届かない命に向かう病院船の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます