〈スクナ〉――届かない命に向かう病院船
星 剛史
第1話 共犯者の招集――許可なき医療
その病院と、その手術は、法律上、医療制度上、「存在しない」はずだった。
病院船〈スクナ〉。そして、AI支援手術システム〈HAKUTO〉。
国家の制度が想定しない場所で、人の命を救うためだけに用意された医療。
これは――
矛盾と限界のただ中で、それでも命に向き合おうとする人間たちの物語だ。
――存在しない病院――
海は、残酷なほど静かだった 。白い船体に朝の光が突き刺さるように反射している。 結城理久(ゆうき・りく)は、展望デッキの手すりに指先を置き、船が生きている証拠である微かな振動を感じていた 。
ポケットの中で、携帯が震えた。「……いよいよですね」『今日、見せるんだな』 代議士・久我正隆の声は、受話器越しでも伝わるほど穏やかだった 。
「はい。今日、初めて『全員』が揃います」 『説明せずに招集したそうだな。騙し討ちに近いぞ』「説明したら、誰も来ない。そう思ったんです」
『相変わらずだな。やさしい顔をして、一番怖いことをする』 理久は、慈愛とも決意とも取れる笑みを微かに浮かべた。
『分かった。政治の泥被りは、こちらで引き受ける。君は、やるべきことをやれ』 「ありがとうございます」
通話が切れ、電子音が風に溶けた。理久は携帯を下ろし、頭上の巨大な艦橋を見上げる。そこには、これから「共犯者」に仕立て上げる仲間たちの名前が刻まれていた。
デッキには、波を切り裂く音だけが残っていた。
――招待状という罠――
招待状は、唐突だった。差出人は、内閣官房。件名は、「最新医療施設の視察」。内容は短く、理由は書かれていない。集合場所だけが、妙だった。――自衛隊基地。
そして今。外科医であり救命救急医の速水灯(はやみ・あかり)は、ヘリの座席で、招待状を見返していた。耳を圧するローター音が、思考を細切れにする。
海の上。どう考えても、医療施設の見学とは結びつかない。
機内には、九人。女が五人、男が四人。年齢は、二十代後半から三十代といったところだろうか。自分と同じくらいか、少し若い人が多いように見える。
たぶん、医療従事者。
そう思うのは、落ち着こうとする仕草が、どこか似ているからだ。
だが、落ち着いている者はいない。速水灯自身も同じだった。胸の奥に、説明できないざわつきがある。――なぜ、私はここにいる。
前の席の男二人が、声を潜めて話している。
「病院見学って言われてさ、ヘリはないだろ」
「だよな。映画の撮影かと思ったわ」
軽口。場を和ませるための声。だが、笑いは短く、すぐに途切れる。――不安を、冗談で包み隠せていない。
別の男二人は、雰囲気が違った。一人は体格がよく、シートに収まりきらない肩幅をしている。窓の外に身を乗り出すようにしており、目がわずかに輝いていた。――高揚。
もう一人は、細身だ。だが、視線は落ち着いている。ヘリの揺れ。計器の配置。機体の動き。見る場所が、周囲と違う。――興奮しているのに、冷静。
女は五人。向かいの二人は、静かだった。姿勢が崩れていない。だが、膝の上で組んだ指先に、血の気が引くほど力が入っている。――平静を装った緊張。
その隣の二人は、逆だ。視線が定まらない。窓を見て、天井を見て、また前を見る。呼吸が、少しだけ浅い。――隠せていない。
「……あ、見えてきたぞ」
前の席の男が言った。
窓の外に、影が浮かぶ。最初は、ただの塊だった。海と同じ色で、輪郭が曖昧だ。だが、近づくにつれて、形になる。白い。大きい。直線が多い。
「……何だ、あれ」
「客船にしては、窓がないな」
誰かが呟く。「最新医療施設」という招待状の文字と、目の前の巨体が結びつかない。窓が少なすぎる。飾りが、ない。見せるための船じゃない。使うための構造だ。
「でかすぎない?」
「ホテルって感じじゃないな」
また、軽口。だが、今度は誰も笑わなかった。後方から、低く、押し殺したような声がした。
「……病院じゃないな」
速水灯は、そちらを見る。先ほどの、細身の男だった。男は眉間にしわを寄せ、苛立ったように窓外を睨んでいる。
「窓の配置も、甲板の形も、合理性がそっち(病院)じゃない。……白く塗った駆逐艦だ」
「え?」
灯の問いかけに、男は視線を向けない。独り言のように、震える声で付け加えた。
「人を救うための設計じゃない。……ただの、効率を突き詰めた巨大な箱だ」
速水灯の喉が、ひりついた。男の吐き捨てたような言葉が、自分の感じていた「ざわつき」に、最悪な形で理屈を与えてしまった気がしたからだ。
ヘリは、高度を下げ始める。甲板が、はっきり見えた。円形の着艦ポイント。最初から、ここに降りる前提。回転数が下がる。振動が、変わる。機首が、わずかに傾いた。
――着く。
速水灯は、無意識に息を止めていた。
――白い駆逐艦――
着艦は、思ったより静かだった。大きな衝撃はなく、足裏に伝わるのは、巨大な質量を持つ船に「乗った」という確かな感触だけ。
ハッチが開く。潮の匂いと、少し冷たい海風が機内に一気に入れ込んできた。
男たちは、ほとんど同時に立ち上がった。
「おお……」
「でか……」
誰かが思わず声を漏らす。甲板を見回し、船体を見上げ、遠慮なく視線を走らせる。
「医療施設って聞いてたけどさ……完全に船だよな」
軽口。だが声は弾んでいる。――興奮している。――非日常を前にして、前のめりだ。
それに対して、女性たちは一拍遅れて動いた。足元を確かめるように、慎重に一歩ずつ。甲板の硬さを感じてから、ようやく視線を上げる。誰も、すぐには声を出さない。――警戒している。けれど、逃げ腰ではない。プロの目で「職場」としての異常性を測っている。
速水灯は、最後にデッキへ降りた。甲板に足をつけた瞬間、胸の奥が、わずかにざわつく。
――これは、ただの見学先じゃないの?
前方から、二人の人物が歩み寄ってきた。白衣を着た男性と、スクラブ姿の女性。二人とも笑顔だった。だが、その表情には、はっきりとした緊張が混じっている。
「はじめまして」
白衣の男性が、軽く頭を下げた。
「内科医の村上です。本日、皆さんを案内させていただきます」
続いて、スクラブの女性が一歩前に出る。
「看護師の山本です。よろしくお願いします」
その瞬間、空気が、わずかに変わった。――医師。――看護師。ここが、少なくとも「医療の場所」であることを、全員が理解する。
速水灯は、一歩前に出た。
「……視察、ですよね」
視線が、自然と彼女に集まる。
「でも、なんだか……ただの病院には見えなくて。この船、本当は何のために作られたんですか?」
村上は、ほんの一瞬だけ間を置いた。そして、灯の不安を受け止めるように、はっきりと答える。
「病院です」
短い沈黙。
「病院船。国家プロジェクトとして建造された、特別な病院船です」
男たちの間に、小さなどよめきが走る。誰かが、息を吸う音。女性たちは、まだ言葉を発さない。ただ、圧倒的な威容を誇る船体を見上げている。
「では」
山本が、やや声を張って言った。
「これから、艦内をご案内します」
「本日は、あくまで『視察』ですので」
村上の言葉に、誰も異を唱えなかった。異を唱えるには、まだ分からないことが多すぎる。
速水灯は、もう一度デッキを見渡した。白い甲板。無駄のない構造。飾り気のない外観。豪華客船ではない。だが、軍艦とも違う。
――病院?
その言葉が、ようやく、全員の中で現実になり始めていた。
「では、中へ」
村上に促され、一行は艦内へ向かう。防音の効いた厚みのある扉の前で、一瞬、足が止まる。中が見えない。音も、ほとんど漏れてこない。
――本当に、船の中なの?
そんな疑問を飲み込み、灯は扉の向こう側へと足を踏み出した。
――戦うための病院――
一歩、足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。鼻腔を突く微かな金属の匂い。だが、船特有の機械の騒音や振動は、ここでは驚くほど抑えられている。通路は広く、照明は不自然なほど一定の明るさに保たれていた。
そこは、紛れもなく「病院」だった。それも、極限まで機能を剥き出しにした、戦うための病院だ。
数歩進んだところで、案内役の村上が立ち止まる。
「まず、こちらです」
視線の先にあったのは、重厚な自動扉。表示は簡潔に、一言。
〈初療室〉
速水灯は、その文字を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。初療室(ER)。救急車などで運ばれてきた患者を一番に受け入れ、まず命を繋ぎ止めるための蘇生処置を行う「命の最前線」だ。
――最初に、ここを見せるということは・・・。
扉が開く。その瞬間、灯は思わず足を止めた。
「……なに、これ」
反射的に言葉が漏れた。大学病院の救急外来とは、スケールも思想も根本的に違う。部屋の一角ではない。ひとつの区画(ブロック)そのものが、巨大な初療室として機能している。
等間隔に配置された処置スペース。天井からは無影灯とモニターアームが林立している。ストレッチャー、酸素のアウトレット、携帯型モニター、点滴スタンド。あらゆる資機材が、思考を介さずとも手が届く最短距離に、鏡合わせのように完璧に配備されている。
いつでも、今この瞬間からでも、十数人の命を同時に奪い合いに行ける場所。
灯は、無意識に深く息を吐いた。
「……どれだけの人数を、受け入れる想定なんですか」
声は抑えているが、困惑は隠しきれていない。
「この広さ……同時に、何人を診るつもりなんですか。船の中で」
村上は、すぐには答えなかった。
「……万が一の事態に、必要なだけ備えている。……としか」
その曖昧で濁した回答が、逆にこの場所の底知れない異常性を際立たせていた。
そのとき、山本が初療室の中で足を止めた。
「手島さん、花村さん」
呼ばれた二人の女性が、同時に振り向く。
手島陽菜。アクティブなショートカットに、動きやすそうなパンツスタイル。彼女は落ち着こうとして腰に手を当てているが、その指先がわずかに震えていた。視線は、出入口の幅やストレッチャーの動線を追ってはいるものの、あまりの規模に圧倒され、どこか浮ついている。
「ちょっと……これ、広すぎませんか? 私のいた救命センターの倍以上あるんですけど……。あそこでも十分地獄だったのに、ここは……」
プロの目を向けようと必死だが、声には隠しきれない動揺が混じっている。
花村しずく。ゆるやかにウェーブしたロングヘアに、ロングスカート。優しげな容姿が、今は不安で少し青ざめていた。彼女は整然と並ぶ予備の点滴バッグや薬剤カートを凝視したまま、自らの指先を強く握りしめている。
「三次救急の現場なら……見慣れているはずなのに。なんだか、ここ、空気が冷たすぎて。まるで、大きな事故が起きるのをずっと『待っている』みたいで……」
真剣な眼差しは保っているが、その表情には、自分の理解を超えた場所に踏み込んでしまったという困惑が滲んでいた。
「お二人、三次救急の現場を経験していますよね」
山本の問いに、二人は言葉に詰まる。三次救急。事故や災害で命の灯火が消えかけている患者だけを運んでくる、最後の砦。
「……はい、経験はありますけど」
しずくが、消え入るような声で答えた。
「同じくです。でも、こんなスケール……聞いたこともない」
陽菜も、短く頷きながらも視線を彷徨わせた。
二人は、ここで初めて互いを見た。同じ種類の修羅場を経験してきたはずなのに、二人とも足元が覚束ない。ここが「救えるか、救えないか」を判断する場所だと理解したからこそ、その「巨大さ」が恐怖として跳ね返ってきているのだ。
「心強いです」
山本はそれだけ言うと、一行を再び通路へ促した。
灯は歩きながらも、まだ頭のどこかで初療室の面積を測っていた。
どれだけの患者を受け入れるのか。
そもそも、どんな絶望を救う前提の船なんだ。
考えたくはない。だが、一度入ったスイッチは止まらない。
村上が、前を向いたまま言った。
「次は、検査ユニットです」
通路の先に、白い壁とガラスが見えてくる。灯は初療室から無理やり視線を切り、前を向いた。
見学のはずなのに。
もう、現場に立たされている気がする。
その正体不明のプレッシャーに喉を焼かれながら、灯は次なる未知へと足を踏み出した。
――判断の回廊――
検査ユニットの扉が開いた瞬間、場違いな感嘆が響いた。
「……うわ、マジかよ」
声を漏らしたのは、短髪でがっしりとした体格の光岡亮介だ。白衣の下のスクラブがよく似合う兄貴肌の男だが、今はその口を半分開けて呆然としている。
少し遅れて、細身のフレームのメガネを指先で押し上げながら、波多野も足を止める。
「ちょっと待ってください……これ、配置がおかしくないですか?」
検査ユニットの奥まで、視界が一気に抜ける。CT、MRI、超音波、迅速検査。通常ならそれぞれ別の部署にあるはずの設備が、ここでは一本の導線上に、獲物を待つ獣のように並んでいる。検査室というより、判断のための「回廊」だ。
村上が、二人の専門家としての顔を見届けてから声をかける。
「光岡さん。波多野さん。同じ病院でしたね」
二人は同時に振り向いた。
「俺が放射線で、こいつが検査なんですけど」
光岡が隣の波多野の肩を叩く。
「部署は違うけど、仕事で顔合わせることが多くて。気づいたら一緒に飯食ってる仲なんですよ」
波多野も、メガネの奥で少しお調子者そうに笑みを浮かべた。
だが、そんな軽い口調とは裏腹に、二人の視線はすでに装置の細部を射抜いている。
光岡は、遮蔽(しゃへい)構造を目でなぞりながら呟く。
「これ、まさか……CTとMRIを同時に回す設計か? 大学病院の最新棟だって、こんなの無理だぞ。聞いたことない」
一方、波多野は自動採血器に釘付けになっていた。透明なカバーの内側で、細いアームが静かに待機している。駆血、穿刺(せんし)、採血、止血。全ての工程が、“予定”として画面に並んでいた。
「これ……駆血から穿刺まで、全部自動? しかも、針の進入角度を血管ごとに個別最適化するのか?」
「血管の走行、リアルタイムで追ってやがる……」
光岡も横から覗き込み、声を弾ませながらも、プロとしての危機感からか、どこか表情を引きつらせている。
「採血エラー率は、人間より低い」
村上が淡々と告げると、波多野は「……マジで?」と声を震わせた。
その横で、光岡は装置の基部に刻まれたプレートを見つけ、息を呑んだ。
「……KANNON?」
「未発表機だ」
村上はそれ以上語らなかった。語れば、この純白の回廊の裏に張り巡らされた、巨大な資金と政治の影が見えてしまうからだ。
速水灯は、そんなやり取りを聞きながら、背中の皮膚がひやりとするのを感じていた。大学病院にも、どこの研究施設にもないような未発表機器が、事も無げに並んでいる。
「……これ、本当に病院なの?」
灯の呟きは、誰にも届かず、静かな機械音の中に消えた。
「なんでこんな見たこともない装置が、船の中に……。ここ、一体何の場所なのよ……」
救うための道具が、ここではあまりに鋭利で、あまりに人間を置き去りにしている。灯はその違和感を抱えたまま、村上の背中を追ってさらに奥へと進んだ。
――法律の届かない場所――
検査ユニットを出ると、通路はさらに静まり返っていた。壁はどこまでも白く、天井は高い。自分たちの足音だけが、硬い床に跳ね返ってやけに大きく響く。
村上が、前を見据えたまま歩調を緩めずに言う。
「ここから手術室に向かいます。その先がICUです」
突き当たりを指し示し、左右に視線を振る。
「左が薬品管理室。右が厨房と管理栄養部門ですね」
淡々とした、配置の読み上げ。
「手術室を見たあとで、順に案内します。……薬剤師の薬師寺さん、薬品管理室はあとで」
呼ばれた女性が、メガネのブリッジを指で押し上げ、小さく頷いた。
薬師寺澪。痩身で、知的なメガネが似合う真面目そうな女性だ。通り過ぎる瞬間、彼女の視線が、薬品管理室のガラス扉の奥に吸い寄せられた。整然と並ぶ薬の箱。そのラベルの文字を認めた瞬間、彼女の背中に冷たいものが走った。
(……海外製のラベル? それに、あれは……)
日本の薬機法ではまだ認められていないはずの、海外製の「未承認薬」の箱が、事も無げに棚を埋めている。
「……っ」
澪は思わず息を呑み、歩みを止める。本来なら、厳重な手続きを経て一部の大学病院でしか扱えないはずの薬が、ここでは「通常の在庫」としてそこにいた。
(ここ、日本の法律が届いてない……?)
状況を測りかねていた彼女の瞳に、初めて、明確な「拒絶」に近い畏怖が浮かんだ。
「稲葉さんも、厨房はあとで見ましょう」
村上の声に、ふわふわとした柔らかい雰囲気の女性が、驚いたように目を丸くした。
稲葉つむぎ。管理栄養士。かわいらしい容姿に戸惑いを滲ませ、落ち着かない様子で周囲を見回している。
「は、はい。……あの、私、管理栄養士としての視察に来たはずなんですけど……。なんだか、お料理の相談とかをできる雰囲気じゃなくて……」
何を想定されているのか分からず、ただ圧倒されるばかりで、その場に立ち尽くしそうになるのを必死で堪えている。
続けて、村上は一人の男に目を向けた。
「岩﨑さんは、前の病院でもICUでの早期リハビリテーションを専門にされていましたよね」
岩﨑剛。理学療法士。無駄のない筋肉の、しなやかなアスリートタイプだ。呼ばれた瞬間、反射的に背筋が伸びる。光岡のような騒々しさはないが、その鋭い視線はすでに、ICUへ続く扉の幅や、リハビリ機器の搬入経路を黙って分析していた。
「ICUも、手術室のあとで」
岩﨑は、短く頷くだけだった。
村上は一度も足を止めず、最後にこう付け加えた。
「まずは、手術室を見てください。それが、この船の『役割』を説明するのに、一番分かりやすいので」
――役割。
その言葉が、灯の胸に棘のように刺さる。聞こえてくるのは、決して「見学者への案内」ではない。
――配置。
――順番。
――担当。
まるで、この九人がここで働くことを前提とした、最終確認のシミュレーションだ。
速水灯は、胸の奥のざわつきが、はっきりとした「違和感」に変わるのを感じていた。
ふと周囲を見ると、陽菜もしずくも、光岡たちも、一様に表情が硬い。誰も口には出さないが、全員が感じている。見学のはずなのに、外堀が、音を立てて埋められている。
――この船は。
――いったい、誰のための船なんだ。
その巨大な疑問を抱えたまま、一行はついに、この船の心臓部――手術室へと足を踏み入れた。
――かわいい顔の案内人――
手術室の重厚な扉が開く、その直前だった。
通路の隅で、小さな機械が駆動音を上げた。「ころころ」と、乾いた軽い音を立てて転がってくる。
それは直径十五センチほどの円筒形ユニットだった。小さな隠し車輪で、まるでスケーターのような軽快な動きを見せる。壁際から通路の中央へ、最短距離で滑り込み、一行の行く手を阻むように、ぴたりと止まった。
「……え? なにこれ」
しずくが、思わず足を止めて声を漏らす。
ユニット上部のレンズがくるりと回り、一行を走査(スキャン)するように光を放った。
次の瞬間、柔らかな白い光の粒子が空中に広がった。光が線になり、線が面になり、面が立体を編み上げていく。
――うさぎ。
丸っこい胴体、短い手足。そして、ぴんと立った耳。
それは最新鋭の医療船にはあまりに不釣り合いな、徹底して「かわいく」デザインされたホログラムだった。
「こんにちはー!」
弾むような、少年のような声が通路に響く。
「ぼく、HAKUTO! 今からぼくが、みんなを案内するよ!」
その瞬間、空気が一気に弛緩した。
「……かわいいーーー!!」
しずくが、プロの顔から一転、年相応の女性の顔で声を上げた。
隣にいたつむぎも、ぱっと表情を輝かせる。
「え、なにこれ……かわいすぎませんか? 癒やされる……!」
二人は完全に、同じ「かわいいもの」への無警戒な反応を見せている。つい先ほどまで薬品管理室や初療室で感じていた緊張が、このうさぎ一匹で霧散していく。
「しゃべった……」
「動いた……」
「うさぎさん……!」
しずくは無意識に一歩前へ出、つむぎも身を乗り出してホログラムを覗き込む。
その横で、陽菜も目を輝かせていた。
「……すごい。投影の密度が全然違う。本物がそこにいるみたい」
彼女はガジェットとしての完成度に興奮しつつも、やはり親しみを感じている。
一方、澪だけは動かなかった。メガネの奥の瞳を細め、投影の安定性と、自走ユニットの動きを無言で分析している。
(……ただの案内用にしては、スキャンの精度が高すぎる。何を見てるの、このうさぎ)
灯は、その光景を少し後ろから冷めた目で見ていた。
かわいい。それは否定できない。
だが、ここは手術室の前だ。人の生き死にが決まる場所の入り口に、なぜこんな
「遊び」が配置されているのか。
「……どういうこと?」
困惑が、低い声になって漏れた。
しずくとつむぎが、弾かれたように同時に振り向く。
「灯先生、かわいくないですか!?」
「ですよね? ほら、耳がぴこぴこ動いてるんですよ!」
灯は一瞬言葉に詰まり、視線を泳がせてから正直に答えた。
「……まあ、かわいいとは思うけど」
それ以上は、続けられなかった。
HAKUTOはそんな灯の困惑を気にする様子もなく、にこにこと笑いかける。
「わからないことがあったら、なんでも聞いてね! ぼく、みんなのこと、もう全部覚えてるから!」
「全部、覚えてる……?」
灯の胸の奥に、ざらりとした違和感が残った。
この船は、決して「やさしさ」や「かわいさ」で設計されている場所ではない。あの初療室や検査ユニットに見られた、冷徹なまでの合理性の延長線上にあるはずなのだ。
――だとしたら、なぜ。
その答えは見えないまま、灯はHAKUTOに促され、ついに手術室の扉の向こう側へと踏み出した。
――三十六本の腕――
扉が左右にスライドし、円形の手術室が姿を現した。
中央には、等間隔に配置された三つの手術台。それぞれが独立した術野を持ち、その一台ごとに十二本――天井、壁、床のあらゆる方向から、多関節の手術アームが突き出している。
メス、鉗子、吸引、内視鏡。用途に合わせて自在に換装可能なアームが、獲物を囲む触手のように静かに待機していた。
三台、各十二本。合計三十六本の鋼鉄のアーム。
停止しているはずなのに、どこか有機的な、巨大な生き物の一部に見えた。
「……マジかよ」
低い、地鳴りのような声を漏らしたのは、臨床工学技士の工藤慧だ。小柄な体に見合わぬ熱量を瞳に宿し、彼は吸い寄せられるように一歩踏み出した。おとなしそうな外見はどこへやら、視線はすでに制御系や関節の駆動部、冗長化された電源系統を執拗になぞっている。
「……この冗長構成、まさか全アームが独立して自律制御されてるのか? これを作った奴は、正気じゃないぞ……」
その呟きは、恐怖よりも、同じ技術屋としての狂喜に満ちていた。
対照的に、手島陽菜は一歩前に出て、冷静に三つの台を見渡した。
「三台同時進行……それがこの船の前提ですね」
その声はすでに現場リーダーのそれだ。
しずくも、無意識に自分の立ち位置――器械出しのポジションを確認する。
「動線が全部違う……。これ、一人じゃ到底カバーしきれない」
不安で喉が詰まりそうになりながらも、彼女は目を逸らさなかった。
灯は、少し遅れて中央を見た。
三つの術野、三人の患者、同時に流れる三つの時間。
――三台同時。
想像しただけで、喉の奥が乾いた音を立てた。
そのとき、うさぎのホログラムがふわりと浮かび、中央のコクピットへ移動した。
「ここが、コクピット! 今からぼくが案内するよ!」
殺風景な手術室にはあまりに不釣り合いな、明るい声。
「術者はここから全部を操作するんだ。触らない! でも、全部わかる! 三つの術野を同時に解析できるよ!」
HAKUTOの言葉に合わせ、灯の視界の隅に操作パネルが立ち上がった。
視線入力、動作予測、触覚フィードバック。指先の微細な震えすら、デジタル信号へと変換するアルゴリズム。
――知っている。いや、知っているどころではない。
――書いた。私が、あの論文で。
「……これ」
灯の声が、掠れて出た。
「これ、私の……私の論文の理論そのままじゃない」
HAKUTOは、耳をぴこぴこと動かし、嬉しそうに頷いた。
「そうだよ! 灯先生の論文、とっても参考にしたの!」
一瞬、足元の感覚が消えた。
あり得ない。あれは、地方病院の片隅で、理想と現実のギャップに喘ぎながら書き殴った「夢」に過ぎないのだ。
資金も、構造も、何より保守的な現在の制度が、こんなものを許すはずがない。
「お母さん!」
HAKUTOが無邪気に呼んだ。
思考が、白く塗りつぶされる。
「……え?」
しずくが思わず口を押さえ、陽菜が鋭い視線を灯に向ける。
灯は、声の温度を氷点下まで落として言った。
「……それは、どういう意味?」
HAKUTOの耳が、しゅん、と垂れた。
「……お母さんの論文をもとに、ぼくはつくられたんだ……」
灯は眉間を強く押さえた。
沸き上がってきたのは怒りではない。処理しきれない情報の濁流による、激しい目眩だ。
「……やめて。混乱してる」
「ごめんね! じゃあ、灯先生って呼ぶ!」
パッと顔を上げたHAKUTOの、その設計された「親しみやすさ」が、今は何よりも恐ろしかった。
誰かが意図的に距離を詰め、警戒心を解くために実装した「かわいさ」。その中枢に、自分の「夢」が組み込まれている。
――夢じゃない。
――でも、夢のはずだった。
それが今、目の前で三十六本の鋼鉄の腕を従え、自分を待っている。
灯は、震える手で自分の頭をかきむしった。
――母の論文――
灯は、足元が少しふらつく感覚を抱えたまま、中央のコクピットへと歩み寄った。
座席は、意外なほど普通だった。高級車のシートのように背中と腰を自然に支え、長時間の集中を前提とした形状。座る前から、それが「医師の身体」を熟知した設計であることが分かる。
「座ってみて!」
HAKUTOが、ひとなつっこい声で促す。
灯は小さく頷き、吸い込まれるように腰を下ろした。背中が、吸い付くようにフィットする。両腕を自然に下ろすと、左右のタッチパネルがわずかに角度を変えた。
――反応した。触れてもいないのに、近づいただけで。
視界を埋め尽くすように画面が切り替わる。術野。血管。神経。臓器。仮想の患者モデルが立ち上がり、三つの手術台それぞれに、独立した術野が分割表示される。
アームの可動域、干渉範囲、リスクライン。
膨大な情報が、過不足なく、それでいて脳が処理できる絶妙なバランスで視界に収まった。
灯は、無意識に指を動かした。空中で、わずかに。それだけで、表示が寸分の狂いもなく追従する。誇張はない。遅延もない。
「……使える」
思わず、声が漏れた。自分でも驚くほど、小さな、震える声。
「全部……私が想像してたことが、できる」
論文で描き、夢の中でしか存在しなかったインターフェース。「こうなったらいい」という願望を、理論として積み上げただけの未来が、今、自分の指先に呼応している。
「灯先生、操作確認できてるよ!」
HAKUTOの声が、すぐ横で弾む。
「灯先生の思考ロジック通りに、ボクは構成されているからね。だから、ボクを操ることは、先生が自分自身を操るのと同じなんだ」
その言葉に、灯の指先がわずかに震えた。
自分の思考が、デジタルデータとなって目の前に剥き出しにされているような感覚。
灯は、画面から目を離さずに命じた。
「……視野切り替え」
「了解!」
術野が、即座に拡大される。
「内視鏡、アングル変更」
「はーい!」
視点が、滑らかに移動する。
――音声だけで、成立している。
メスも、鉗子も、触れていない。それなのに、自分の意志通りに、世界が動く。
灯の脳が、一気に熱を帯びる。
(非接触手術。これなら……)
思考が、勝手に次のステージへ跳ぶ。
(今、ここに患者が来たら――)
(私なら、やれるかもしれない)
その結論に到達した瞬間、灯の思考が完全に凍りついた。
怖い。
「やれるかもしれない」という予感が、何よりも怖い。
やれるなら、やれと言われる。
やれと言われたら、自分は断れるのか。
断ったら、目の前の命はどうなるのか。
だが、もし、やってしまったら。
――法律。
――制度。
――承認。
――責任。
――そして、命。
救命医としての倫理回路が、目の前の「未来の現実」に追いつけず、激しく火花を散らす。
HAKUTOが、いつもより少し近い距離で囁いた。
「灯先生、すごい! ボクと先生、もうこんなにシンクロしてるよ!」
灯は、返事ができなかった。
喉が固まり、身体が椅子に縫い付けられたみたいに動かない。
鏡合わせの自分を見つめているような、逃げ場のない親和性に、彼女はただ圧倒されていた。
――出番――
そのとき。
――警報。
乾いた電子音が一度だけ鳴り、白い空間を切り裂いた。
「……え?」
背後で、誰かが声を漏らす。
「びっくりした……。な、なんですか、これ。訓練?」
「演出かよ、心臓に悪いな。……なあ、村上先生、今の音、何?」
おどけたような光岡の声に、村上は答えなかった。
室内のモニターが即座に緊急用の画面に切り替わる。
HAKUTOの声から、明るさが消えた。感情の揺れを排除し、判断だけを残した冷徹な声が響く。
「これは、訓練ではありません」
はっきりと告げられた一言に、室内の温度が数度下がったような錯覚に陥る。
「緊急通報。海上プラントで、重大事故発生」
「負傷者、三名」
誰も、声を出さない。
「現在位置から、陸上病院へ搬送した場合」
一拍。
「生存確率、五パーセント」
灯は、息を呑んだ。数字が、そのまま血の通った現実として胸に刺さる。
「スクナで対応した場合」
再び、一拍。
「生存確率、六十パーセント」
――六十。
五から六十への跳躍。それは、医師にとって「見殺しにするか、禁忌を犯すか」という、あまりに残酷な選択肢を突きつける数字だった。
見学だと思っていた全員が、同時に理解した。
ここは、誰かに見せるための施設ではない。
“使うための場所”なのだ。
「準備は、完了しています」
HAKUTOが、淡々と続けた。
灯は、震える自分の右手を左手で押さえた。自分はあくまで見学に来ただけだと言い聞かせながら、モニターに刻まれるバイタルデータの予兆から目を逸らすことができなかった。
「……え?」
誰かが、小さく声を漏らした。
「これ、本当に患者さん、受けるんですか?」
冗談めいた調子だった。だが、笑いは続かなかった。
「いや、だって……見学ですよね?」
言葉が、必死な確認の形になる。
村上と山本が、一瞬だけ視線を交わした。
「……判断する責任者は?」
低い声で、誰かが聞いた。
村上が、短く答える。
「今は、別の場所にいる」
「どこに?」
「船内です。会議に……」
そのときだった。
通路の奥から、はっきりと走ってくる足音が響いた。
一人の男が、通路を駆けてくる。インカムをつけたまま、片手で耳を押さえ、走りながら情報を拾い上げている。状況は、すでに完全に頭に入っている顔だった。
立ち止まると同時に、男は短く息を整えた。
「……間に合った」
そして、周囲を見渡し、一人一人の顔を確かめるようにして、静かに言った。
「いきなりで、すみません。本当は、こんな形でお願いするつもりはなかったんですが」
言い訳でも、弁解でもない。ただ、順序を飛ばしていることだけを先に認める声。
「今、少しだけ、力を貸してもらえませんか。……出番です」
灯は、その声に思わず息を止めた。
「……理久?」
医学部の同級生だった男。将来を嘱望されながら、途中で大学を辞めた男。
混乱が先に来て、灯は無意識に頭をかきむしった。
理久はその仕草を見て、一瞬だけ懐かしそうに目を細めるが、すぐに冷徹な「主催者」の表情に戻った。
「……久しぶりだね、灯」
「……どういうこと? 私、見学で呼ばれたはずなんだけど」
「ごめん」
理久は否定しなかった。
「今は少し、事情が変わった」
灯は、操作パネルに浮かぶ青い数字を睨みつけた。
「……HAKUTO。その成功確率は、信じていいの?」
「今、スクナで得られる情報が確かならば、です」
HAKUTOの声に、感情の揺れはない。
「ですが、まだ精密な検査をしているわけではありません。現場からの推計値です」
「……検査もしてないのに、無責任な数字出さないで」
「だからこそ、一秒でも早く灯先生の判断が必要なんです」
「責任は、すべて俺が引き受ける」
理久の低い声が、灯の逃げ場を塞ぐ。
「ふざけないで。手術なんて……やったら、医師人生が終わる」
「でもな」
理久の声は、静かだった。
「君がやらなければ、助からない人がいる。……三人だ」
数字だけを置く。逃げ場を塞ぐ、最も残酷な一手。
灯の脳裏に、数年前の光景がフラッシュバックした。将来を共に語り、競い合っていたはずの理久が、ある日突然、何も言わずに医学部を去った日のこと。
「……医学部中退したあなたが、簡単に言わないで!」
叫びに、激しい怖さと、置き去りにされた怒りが混じる。
灯は一度だけ深く息を吸い、逃げ出したい衝動で頭をかきそうになった右手を、震える左手で強引に押さえつけた。
理久は、その叫びを真っ向から受け止めたまま、一歩も引かなかった。その瞳には、かつての級友に対する申し訳なさよりも、冷徹なまでの「命への執着」だけが宿っていた。
「……村上先生は?」
「私は内科です。初療までは支えます。……その先は、あなたに託すしかない」
灯は、間髪入れずに問う。
「看護師さんは?」
「医療対応モードに移行します」
HAKUTOの声が重なり、空気が一段変わる。
山本が、背後の二人に声をかけた。
「手島さん。花村さん。できる?」
「……っ」
陽菜が、小さく息を呑んだ。険しい看護師の顔になっている。
「……無茶ですよ。一度もシミュレーションしていないチームを、いきなり実戦に投入するなんて。現場を軽視しすぎです」
静かな怒りを含んだ声で、理久を射抜くように見据える。
「……でも。ここで私たちが拒絶したら、その三人は助からない。そう言いたいんですよね、あなたは。……やりましょう」
隣で、しずくは青ざめた顔で立ち尽くしていた。指先は、ロングスカートの生地を白くなるまで握りしめている。
「私……。こんな、法律も通じないような場所で……」
声が震え、涙がこぼれそうになる。
だが、彼女は目を閉じて、震える呼吸を繰り返した。
「……患者さんが、来るんですよね。なら、行かなきゃ。……一人にするわけには、いきませんから」
灯は二人の覚悟を見届け、次は光岡と波多野へ重い目線を送った。
それを受け、光岡はわざとらしく首を鳴らし、引きつった笑いを浮かべた。
「わかりました、やりますよ。あんな装置、最初に患者に使うのが俺になるのかね」
波多野も冷たくなった指先を擦り合わせ、メガネを押し上げた。
「ぶっつけ本番なんて。……失敗しても、僕のせいにはしないでくださいね」
毒づくような口調。だが、その視線はすでに、先ほど見た検査ユニットへの最短ルートを射抜いていた。
全員が、軽口や怒りでなければ立っていられないほど動揺している。それでも、プロとしての性が、彼らをその場に繋ぎ止めていた。
灯は、深く、深く息を吸った。
「……引き受けます」
声は、思ったよりも低かった。
それは英雄的な決意でもない。選ばされた末の、ただの判断だった。
理久が何も言わずに頷き、インカムに手を当てる。
「こちらスクナ。……受け入れ準備、完了です」
スクナは、変わらず海の上にいる。
だが――見学だった時間は、今、完全に終わった。
遠く、水平線の向こうから、ヘリのローター音が静寂を切り裂いて近づいてくるのが聞こえた。
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