第2話 分岐点の影
帰路につく道すがら、駅前のロータリーに差しかかったときだった。夕暮れの風に揺れる赤い旗が、恒一の視界の端をかすめた。
ジャンボ夢の宝くじ
一等七億円!
一枚三百円!
今日は一粒万倍日!
夢が買えるかも!?
派手な文字が、彼を呼び止めるようにひらひらと踊っていた。普段なら素通りするはずの売り場なのに、なぜか足が止まった。
宝くじなんて、国が税金を搾り取り、夢を壊す詐欺まがいの仕組みだと、ずっと思っていたはずなのに……。
バスの行き交うロータリー脇には、数少ない喫煙所もある。彼はポケットから、終わりなき輪が描かれたタバコの箱を取り出した。火をつけ、紫煙をくゆらせる。浮かんでは消える煙の輪が、人生の縮図のように思えた。
「七億円、ね……」
恒一は、どこか他人事のように呟いた。乾いた笑いが喉の奥でこぼれる。
七億円──そんな金があれば、娘にようやく陽の入る部屋を与えられる。水仕事のパートで指を荒らし続ける妻にも、少しは楽をさせてやれる。
そして何より、還暦を迎える自分に“まだ終わっていない”と証明できるかもしれない。そんな淡い妄想が、胸の奥でふっと灯った。
財布を開くと、中身は七百円。コンビニでアンパンと牛乳を買った残りだ。千円札どころか、くしゃくしゃのレシートと数枚の百円玉だけだった。
「向こうは七億。こちらは七百円か」
苦笑しながら、指先で硬貨を軽く弾いた。百円玉をひとつだけ残し、残りの六百円をそっと手のひらに乗せる。
普段は気にも留めない手相が、そのときばかりは妙に目についた。一本の線が、手のひらをまっすぐ横切っていた。
売り場には十人ほどの客が並んでいた。会社帰りのサラリーマン、買い物袋を提げた主婦、学生らしき若者。彼らは皆、どこか疲れているように見えた。
千円札や万札が、ふくよかで優しげな店員の手に渡るたび、レジ横にちょこんと座る黄金色の招き猫が小さな手を軽やかに振る。猫の仕草が、一瞬だけでも恒一の疲れた心を癒してくれるようだった。
係員や招き猫の笑みは、市井の人々が胸に秘めた“いつか叶えたい夢”と重なった。人知れず、けれど確かに、誰もが何かを信じて懸命に生きている──そんな思いが、ふと胸に浮かんだ。
宝くじ一枚の三百円でも、失業中の恒一にとっては貴重な金だ。
「やめておくか……」
少し伸びた無精ひげをさすり、列を離れかけたその瞬間、ふいに古本屋を営むあの老人の顔が脳裏に浮かんだ。
――夢には、必ず『値』がある。
老人の言葉が、胸の奥で静かに響く。値とは何なのか。金銭の有難みなのか。それとも──。
一等当選の夢を買うか、買わぬか。確率は二千万分の一。あの気の遠くなるような奇跡を手繰り寄せようとすることこそが、今の自分には“値”なのかもしれない。
万が一、千万円以上に当選すれば、『その日から読む本』がもらえるらしい。タイトルだけで胸が少し躍るものの、肝心の中身を手にする日は、疑いなく来ない。
恒一は、まわりを見渡し、列に戻った。順番が来ると、招き猫がいいねと言いたげに首を傾げ、売り場の女性がにこやかに声をかけた。
「はい、お客さん。どうします?」
「……連番で二枚、ください」
自分でも驚くほどはっきりした声だった。六百円がカウンターに置かれ、代わりに二枚の宝くじが手渡される。
宝くじは薄い紙切れなのに、妙に重い。まるで老人から渡された『あなたの夢を買います』の本と同じような重さだった。
売り場を離れた瞬間、風がひとつ吹き抜けた。派手な色合いの旗が風に煽られてぱたぱたと揺らぎ、七億円の文字が夕空にゆっくりと滲んでいった。
恒一は、宝くじを胸ポケットにしまいながら、心の中でつぶやいた。
――これは、七億円のためじゃない。
まだ亭主で、父親で、そして男としての人生が終わっていないと、自分に言い聞かせるための六百円だ。
そう信じることで、わずかに足取りが軽くなった。
家に着いた。玄関の扉を開けた瞬間、空気が変わる。珍しくリビングの明かりがついていた。
妻と娘が、まるで待っていたかのように並んで座っている。連日続く仕事探しの歩みを見透かされたのかもしれない。漂う空気だけで、恒一の胸の奥はざわついた。
「おかえりなさい」
妻の声は、どこか張りつめていた。娘は俯いたまま、指先をぎゅっと握りしめている。緊張感に満ちた妻の気配と、弱々しい娘の様子を目にしただけで、恒一の胸は痛んだ。
「……今日、銀行に行ってみたんだけど」
妻が覚悟を決めたように切り出した。
「退職金が振り込まれてた。これ、どういうことなの?」
彼女の問いかけには、責めるよりも、なぜ正直に言ってくれなかったのかという悲しみが滲んでいた。
恒一は、もう隠し通せないと悟った。
「……すまん。失業したんだ」
そのひと言が床に落ちた瞬間、部屋の空気が音もなく沈んだ。
長く塞ぎ込んでいた娘が、涙ながらに顔を上げた。彼女の目には、驚きよりも、また世界が壊れたと感じる諦めの色があった。
「お父さん……どうして言わなかったの」
久しぶりに聞く娘のか細い声が耳に届き、恒一は父親として胸を締め付けられた。
「言えなかったんだ。情けなくて……」
いくつか言葉を探したが、どれも薄っぺらく感じた。
妻はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吸い、そっと告げた。
「私たち、実家に帰るけど心配しないで。あなたが落ち着いて、仕事を見つけるまでの間だから」
その言葉は、妻の想いとは裏腹に、恒一の胸を深く突き刺した。会社からも見放され、「熟年離婚」という言葉が脳裏をかすめる。
「少しだけ待ってくれ。俺は……ふたりを守りたくて……」
「守りたいなら、まず自分を立て直して。今の時代、中高年で仕事を選んでる余裕なんてないはず」
妻の声は毅然としていたが、冷たくはなかった。長年寄り添ってきた彼女だからこそ辿り着いた“理解の限界”が、そこには滲んでいた。
娘も軽く頷いた。その表情は弱々しかったが、父親に戻ってきてほしいという願いが宿っていた。
恒一は、ただ黙っていた。 声にした瞬間、涙がこぼれてしまいそうだった。
やがてその夜、妻と娘は必要最低限の荷物をまとめ、後ろを振り向くことなく家を出ていった。玄関の扉がバタンと閉まる音が、家の中に乾いた余韻を残した。
恒一は、しばらくその場に立ち尽くした。家の中は急に広く、そして寒くなったように感じられた。ソファに腰を下ろすと、胸ポケットの中で紙の感触がした。
――残されたのは、宝くじ。六百円で買った、薄い紙切れ。だが今は、それが妙に重かった。
「夢には、必ず“値”がある」
老人の声が静かに蘇る。七億円が欲しいわけじゃない。
ただ、“まだ終わっていない”と証明したかっただけだ。家族のいないリビングで、その願いすら遠く感じられた。
恒一は、宝くじの番号を確認しながら、握りしめたまま、ぽつりと呟いた。
「……俺は、人生のどこかの分岐点で間違えたんだろう。仕事の時間も、家事の分担も、妻と娘との距離も。全部を会社のせいにしていたわけじゃない」
返事はなかった。空しい声だけが部屋全体に滲んでいった。
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