第2章 冷たい方程式

静寂は、音がないことではないとレンは知った。


それは、生命の気配が欠落した状態のことを指すのだ。


隔壁が閉鎖された直後の廊下には、荒い呼吸音と、衣擦れの音だけが満ちていた。空調のファンが低い唸りを上げているが、それはこれまでの「生きた船」の鼓動とは違う。単なる機械的な振動、死体の内臓が痙攣しているような虚しい響きだった。


レンは無重力空間に漂いながら、震える指先で端末(パット)の画面を操作した。


生存者の確認。


地質学者のバートン、監査員のエリカ、医者のハイン……。


12ある個室のうち、扉が開いたのは10室。レンを含めて11名。残る2つの部屋、11番と12番のステータスは『空室(Unoccupied)』。予約客のキャンセルが出た部屋だ。つまり、この区画に取り残された人間は、今ここにいる全員で確定ということになる。


「おい、航海士!」


思考を遮るように、バートンが壁を蹴ってレンに詰め寄った。無重力に慣れていないため、その動きは溺れた人間のように無様で、危険だった。彼の身体が回転し、近くにいた小柄な通信エンジニアの青年、アキにぶつかりそうになる。


「危ない、壁を掴んで!」


レンが声を張り上げた。


バートンは手近な手すりにしがみつくと、充血した目でレンを睨みつけた。


「状況を説明しろ! さっきの爆発は何だ? 船長は? エンジンはどうなってる!」


「落ち着いてください、バートンさん」


「落ち着けるか! 窓の外を見たぞ。船が……船が半分なくなっているじゃないか!」


バートンの絶叫が、他の乗客たちのパニックの導火線に火をつけた。


若い女性の悲鳴。誰かのすすり泣く声。


狭い通路の中で、恐怖が伝染していく。質量のないこの空間では、感情までもが浮遊し、逃げ場を失って反響しているようだった。


レンは奥歯を噛み締めた。


今、ここで彼らを制御できなければ、船内の秩序は崩壊する。そして閉鎖環境での秩序崩壊は、物理的な死よりも早く全員を殺すことになる。宇宙航海士マニュアル第1章『指揮権の確立』。


「全員、聞いてください」


レンは声を張り上げた。喉が引きつるのを無理やり抑え込む。


「現在、アステリオン号は深刻な船体損傷を受けました。居住区および機関部は……喪失。現在、我々がいる客船ブロックは、慣性によって航行を続けています」


「喪失って……死んだのか? あっちにいた連中は全員?」


建築技師のゲイルが、信じられないものを見る目でレンを見た。その太い腕が、恐怖で微かに震えている。


レンは視線を逸らさずに頷いた。


「生存反応はありません。つまり、現時点において、私が本船の最高責任者となります」


その宣言に、空間が凍りついた。


三等航海士。本来なら、荷物の管理や船内環境の維持監督をする程度の下級士官。24歳の若造。


そんな人間に、命を預けなければならない現実を、乗客たちは突きつけられたのだ。


「ふざけるな!」バートンが唾を飛ばした。「お前ごときに何ができる! すぐに救難信号を出せ! 地球に引き返すんだ!」


「できません」


レンは即答した。感情を交えず、事実だけを告げる。それが今の自分を守る唯一の鎧だったからだ。


「メインアンテナは前部船体にありました。ここにあるのは近距離用の予備通信機だけです。それに、エンジンがない以上、減速も旋回も不可能です。我々は、爆発時の初速を維持したまま、火星への軌道を直進し続けるしかありません」


レンは端末を操作し、壁面のモニターに数値を投影した。


「ここからが重要です。感情を捨てて、数字を見てください」


モニターに映し出されたのは、無機質なグラフと数値の羅列だった。


酸素残存率、水循環効率、食料備蓄量、電力消費予測。


「この区画の生命維持システムは独立稼働していますが、本来は緊急時の一時的な避難場所として設計されています。11人が生存するために必要なリソースと、火星軌道に到達するまでの日数を計算しました」


レンは冷徹な方程式(コールド・イクエーション)を口にした。


「酸素と水は、循環システムを極限まで効率化すれば持ちます。しかし、食料は規定量の半分以下に切り詰める必要があります。そして電力……これが最大の問題です。太陽光パネルの発電量だけでは、暖房と空調を維持できません」


船内の照明が、まるでレンの言葉に呼応するかのように一瞬明滅した。


薄暗い通路に、不安の影が伸びる。


「今から、船内ルールを適用します。私物の食料・水はすべて供出してください。個室の電力使用は禁止。空調は生命維持に必要な最低ラインまで下げます。違反者は――」


「待てよ」


低い、しかしよく通る声がレンの言葉を遮った。


人垣の後ろから、一人の男が滑るように前に出てきた。作業用のつなぎを着た、地味な男だった。


腰に多機能ツールベルトを巻き、無重力の移動に手慣れた様子で、壁を蹴ることなく手すりを軽く引くだけでレンの隣に並んだ。


「カトウさん……」


レンは乗客リストの顔写真とプロフィールを脳内で検索した。カトウ。資源循環システムのエンジニア。


「航海士さん。あんたの言ってることは正しいが、少し言葉が足りないんじゃないか?」


カトウは人懐っこい笑みを浮かべ、バートンや他の乗客たちに向き直った。


「みんな、落ち着いて聞いてくれ。俺は仕事でこの船の配管を見てたんだが、この区画の循環システムは頑丈だ。俺が調整すれば、空気と水についてはもっと余裕を持たせられる。寒さは着込めばいい。腹が減るのも、動かなければ我慢できる」


カトウの言葉には、不思議な説得力があった。レンの提示した「冷たい数字」に、体温を通わせたような安心感。


パニックになりかけていた乗客たちの表情が、わずかに和らぐ。


「俺はこの若い航海士さんに協力するよ。彼が頭を使って、俺が手を動かす。そうすりゃ、火星までなんとかなる。そうだろ、レン君?」


カトウがウィンクをして見せた。


レンは一瞬、戸惑った。


この男は、レンの未熟なリーダーシップを補完し、乗客との緩衝材になってくれようとしているのか。


ありがたい申し出だ。専門知識を持つエンジニアが味方についてくれるなら、生存率は格段に上がる。


「……感謝します、カトウさん。あなたの協力が必要です」


レンは頭を下げた。


だがその時、視界の端で、鋭い視線を感じた。


腕組みをして壁際に漂っていたスーツ姿の女性、監査員のエリカだ。彼女だけは、カトウの親切な言葉にも、レンの必死の演説にも、表情を動かしていなかった。


彼女は何かを見透かすように、レンとカトウを交互に見つめている。


「とりあえず」カトウがパンと手を叩いた。「まずは暖房の出力を下げるために、配電盤をいじってくるよ。それと、水漏れのチェックもな。アキ君、君は通信機の方を見てくれるか? もしかしたら、どこかの回線が生きてるかもしれない」


「あ、はい……やってみます」


怯えていた通信エンジニアのアキが、役割を与えられて少しだけ背筋を伸ばした。


「期待するなよ」バートンが忌々しげに吐き捨てた。「この航路で拾える信号なんて、ステラ社の正規船か、さもなきゃ『鉄のモグラ』とか呼ばれる独立採掘組合の連中くらいだ。あいつらとは関わりたくないがな」


「贅沢は言えませんよ、バートンさん」カトウが肩をすくめた。「誰であれ、助けてくれるなら神様だ」


カトウの手際の良さに、場が動き始める。バートンも不満げながら口をつぐんだ。


レンは小さく息を吐いた。


とりあえず、最初の崩壊は食い止めた。


だが、手元の端末に表示された数字は、依然として残酷な現実を突きつけている。


――火星最接近まで、あと40日。


問題はリソースだけではない。レンは誰にも言わずに隠したタブをもう一度確認した。


軌道計算の結果だ。


エンジンを失ったアステリオン号は、減速できない。


このままでは、火星の重力圏を一瞬で通り過ぎ、永遠の暗闇である深宇宙へと放り出される「フライバイ軌道」に乗っている。


今はまだ、言えない。


この事実を知れば、今度こそ彼らの心は折れてしまう。


レンは震える指を制服のポケットに突っ込み、冷え切った船内を見渡した。


11人の命。そして、見えないゴール。


アステリオン号の長く、冷たい航海が始まった。

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2026年1月19日 08:00
2026年1月21日 08:00
2026年1月23日 08:00

火星行き宇宙船、漂流サバイバル、裏切り者付き 機巧天啓スミス @AiCodeSmith

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