火星行き宇宙船、漂流サバイバル、裏切り者付き
機巧天啓スミス
第1章 慣性(イナーシャ)の目覚め
その時、レンが気にしていたのは、世界が崩壊する予兆などではなく、吸気口に詰まったフィルターの埃(ほこり)だった。
地球火星間輸送船アステリオン号、客船ブロック最後尾にある第4資材管理室。
レンは脚立の上で、少しサイズの合わない制服の袖をまくり上げ、ドライバーを回していた。航海59日目。本来なら、三等航海士がやる仕事ではない。火星到着後に整備班に任せればいい雑務だ。だが、今のレンにはブリッジで船長たちが交わす、ステラ社と反目する独立採掘組合の噂や高度な航行理論に混ざるよりも、マニュアル通りに動く機械相手のほうが気が楽だった。
「循環ファン異常なし。フィルター交換完了。これより再稼働シーケンスへ移行」
誰も聞いていない空間で、レンは小声で確認呼称を行った。端末の画面をタップすると、頭上のファンが低い唸りを上げて回り始める。微かな風がレンの頬を撫でた。
よし、と息をつく。完璧だ。宇宙航海士マニュアル第4章2項に基づいた、一点の曇りもない作業だった。
その直後だった。
唐突に、世界から「下」が消えた。
轟音。
耳をつんざく爆発音というよりは、巨大な金属の巨人が断末魔を上げたような、甲高く、不快な引き裂き音だった。船体全体が激しく痙攣し、脚立に乗っていたレンの体は、予期せぬ方向へと弾き飛ばされた。
床に叩きつけられる――と身構えた衝撃は来なかった。
代わりに、胃袋が喉元までせり上がるような浮遊感が襲った。
「な……ッ?」
空中に放り出されたドライバーが、スローモーションのように回転しながら目の前を流れていく。
レンは壁のハンドルを反射的に掴み、身体を固定した。
警報音が鳴り響く。だが、それは火災報知器のような生易しいものではなく、船体構造そのものの致命的な破損を告げる、聞いたことのない不協和音だった。
重力がない。
アステリオン号は常時1Gの人工重力維持を行っているはずだ。エンジンが止まったのか? いや、単なる停止なら、慣性系への移行はもっと緩やかに行われるはずだ。これほど暴力的な重力消失(ゼロ・グラビティ)は、システムの動力が一瞬にして「消滅」したことを意味している。
レンは無重力の空間を、壁を蹴って泳いだ。マニュアル人間と揶揄される彼の脳内には、すでに緊急時対応マニュアルの該当ページが展開されていた。
思考よりも先に身体が動く。通路へ飛び出し、一番近い展望窓へと向かった。
何が起きたのかを目視確認しなければならない。航海士としての義務感が、恐怖で震える膝を叱咤した。
強化ガラスの向こうに広がっていたのは、理解を拒絶する光景だった。
本来そこにあるはずの、全長二百メートルに及ぶアステリオン号の雄姿がない。
巨大なエンジンブロックも、回転居住区も、そして船長たちがいるはずのブリッジも。
すべてが、無残に引きちぎられていた。
ちぎれた船の前半部分が、遠く暗黒の宇宙空間で火花を散らしながら回転していた。破断面からは白い霧のようなものが噴き出している。船内の空気が真空に吸い出され、瞬時に凍りついてダイヤモンドダストのように輝いているのだ。
そのきらめきの中に、いくつか、人影のようなデブリが混じっているのが見えた気がした。
「嘘だろ……」
レンの口から、乾いた音が漏れた。
首を斬られた龍。
それが、現在のアステリオン号の姿だった。機関部(頭脳と心臓)を失い、客船ブロックという名の胴体だけが、爆発時の運動エネルギーを保存したまま、慣性で滑っている。
――気密隔壁閉鎖。
脳裏に赤い警告灯が点滅した。思考が感情を切り離す。あの破断面から、こちらの区画の空気まで抜かれてしまう。
レンは窓から目を背け、通路の壁にある緊急閉鎖レバーへと飛びついた。
「緊急事態! 総員、衝撃防御姿勢! 気密シャッター閉鎖!」
訓練通りに叫びながら、レバーを押し下げる。
重厚な金属音が響き、通路の先、切断面に最も近い隔壁がドスンと落ちた。空気の流出音が止まる。耳鳴りのような静寂が戻ってきた。
レンは無重力の通路に浮かんだまま、荒い息を吐いた。
心臓が早鐘を打っている。指先が震えて止まらない。
ブリッジはもうない。船長も、一等航海士も、機関長も、あの中にいた。
つまり、この残された鉄の棺桶の中で、アステリオン号のクルーと呼べる人間は――。
「誰か! 誰かいないのか!」
通路の奥から、男の怒鳴り声が聞こえた。
レンはハッとして顔を上げる。声の主は、個室から飛び出してきた中年男性だった。白髪交じりの髪を振り乱し、パジャマ姿で壁にしがみついている。地質学者のバートンだ。
その後ろから、他の乗客たちも次々と顔を出した。
恐怖に引きつった顔、何が起きたか分からず呆然とする顔。
レンは制服の襟を正し、震える手を握りしめて隠した。
今、この瞬間から、自分がこの船の最高責任者なのだ。彼らを不安にさせてはならない。たとえ自分自身が、今すぐ泣き叫びたいほどの絶望に襲われていたとしても。
レンは壁を蹴り、漂う乗客たちの元へと滑空した。
「落ち着いてください。三等航海士のレンです」
努めて冷静な声を出す。だが、その声は船内の冷たい空気に吸われ、頼りなく響いた。
12の個室から出てきたのは、10人。
レンを含めて、生存者は11名。
それが、これから始まるサバイバルの、あまりに少ない手札だった。
窓の外では、遠ざかるかつての仲間たちの墓標が、星屑のように静かに光っていた。
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