第一話:設計(デザイン)の終焉
イザナギ・レンの視界は、常に無数の「流れ」に支配されていた。
深夜、大学の研究室。高性能ワークステーションのモニター上では、次世代飛翔体のプロトタイプが、気流の海を切り裂いている。
流体シミュレーションの結果を示すベクトル表示。彼は、その「青」から「赤」へと変わる圧力の勾配を、充血した目で追い続けていた。
「……ここだ。翼端の
独り言をこぼし、乾いた指先で眼鏡を押し上げる。 レンの専門は、流体力学。特に、超音速域における気流の制御と、それを利用した次世代推進モデルの設計だ。
彼が追い求めているのは、理論上の「完璧な翼」。だが、現実は泥臭い修正の連続だった。
スポンサーである重工メーカーからの予算削減、納期、そして複雑すぎてスパコンですら解ききれない非線形の方程式。
ふと、デスクの傍らに置かれたコーヒーの空き缶に目が留まった。ピラミッドのように積み上がったそれは、彼の生活の破綻を無言で告げている。二十代後半。同年代の友人たちがSNSで家族や趣味の写真を上げる中、彼は窓のない部屋で、一円の得にもならない「空の真理」を追いかけていた。
(……俺は、何のためにこれを計算してるんだっけな)
不意に訪れた虚無感。幼い頃、空を飛ぶ鳥の美しさに憧れた少年の純粋な好奇心は、今や膨大な数式の海に沈み、呼吸を忘れている。世界を解明したいという熱意は、日々の過労によって、ただ「エラーを消す」という義務感に摩耗させられていた。
午前二時。 ようやく保存ボタンを押し、彼は重い腰を上げた。白衣を脱ぎ、椅子にかけた安物のコートを羽織る。外へ出ると、冬の凍てつく夜気が、唯一の「生」の感触として肌に刺さった。
駅へと向かう道すがら、彼は歩道橋の上で足を止めた。都会の空は明るすぎて、星の一つも見えない。
「眩しっ……」
連日の徹夜で、感覚が麻痺していた。平衡感覚がわずかに狂い、アスファルトの地面が、深い海の底のように遠のいて見える。彼は大きく一つ、溜息を吐いた。
「帰って、寝よう。明日になれば、少しはマシなものが書けるといいけど……」
それが、イザナギ・レンという「設計者」が、自らの世界で発した最後の言葉となった。
信号待ちの交差点。深夜の静寂を切り裂いて、大型トラックが右折してくる。レンは、その巨大な質量が自分に向かってくることを、風圧の変化として感じ取った。
逃げなければ。そう思った瞬間、脳裏をよぎったのは、死への恐怖ではなく、奇妙な「解脱感」だった。もう、あの終わりのないシミュレーションの海に戻らなくていい。計算の合わない現実に、絶望しなくていいその一瞬の誘惑が、彼の回避行動をコンマ数秒、遅らせた。
だが、直後に訪れたのは、安らかな眠りなどではなかった。
凄まじい衝撃。鉄の塊が、肉と骨という脆弱な構造体を無慈悲に粉砕する。
「――ガッ、あ……っ!」
肺から全ての空気が絞り出され、喉の奥から熱い鉄の味がせり上がる。アスファルトに叩きつけられた衝撃で、視界が真っ赤に染まった。
熱い。痛い。 解脱感など、一瞬で吹き飛んだ。脳が、細胞が、引き裂かれるような痛みの中で「生きたい」と絶叫していた。
まだ計算が終わっていない。あの翼を完成させていない。こんな場所で、独りぼっちで、ゴミのように死んでたまるか。
震える指先が、雨上がりの冷たい地面を必死に掻きむしる。 だが、その指先から急速に感覚が失われていく。体温が、血と共に体外へと逃げていくのが分かった。
(嫌だ、死にたく……ない……)
現世への未練と、生存本能。それに抗うように、レンの意識は急速に混濁していく。最後に見たのは、夜空を横切るサーチライトのような、トラックのヘッドライトの虚無的な白さだった。
その時、死にゆく脳が捉えたのは、衝突の残響でも、誰かの悲鳴でもなかった。
古い本が、風に煽られてパタンと閉じられるような。あるいは、巨大なシステムの電源が、一切の余韻なく落とされるような。乾いた、無機質な「音」がした。
そこには、神の導きも、運命の意思もなかった。物理的な肉体を失ったレンの情報は、行き場を失ったまま、次元の境界へと弾き飛ばされる。 そして、情報の海を漂っていた彼の意識は、次元の裂け目に、まるで引力に従うかのように吸い込まれていった。
Genesis Xeno:創世の贖罪 黒瀬カケル @kakeru-kurose
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