第2話 魔女の国から来た少女(2)

 街外れの家まで、一気に駆け抜けた。


 息が焼けるように苦しい。

 肺の奥が熱く、喉が乾いてひりつく。

 それでもセオルは、扉を力任せに開けた。


「父さん!」


 書斎の方から、紙のこすれる音がする。


 父は机の前で、本や紙束を箱に詰めていた。

 本棚の一部はすでに空で、床には紐で縛られた束がいくつも転がっている。

 紙の匂いに混じって、焦げたような匂いがした。


 居間に目をやると、セオルの椅子は消えていた。

 壁に掛けていた上着も、棚の端に置いていた木の玩具もない。

 二人の生活の輪郭だけが、削り取られている。


 炉の縁に、黒い灰が寄っていた。

 割れた封蝋のついた古い書類――名簿の写しまで、まとめて燃やされた跡だ。


「街に魔女が来てる!」


 セオルは息を切らしながら言った。


「紫の目の魔女が……“魔女の歴史に詳しい学者”を探してる」


 父は手を止めた。


 一瞬だけ目を閉じ、「やはり来たか」と小さく呟く。

 驚きはなかった。覚悟の確認だけがあった。


 父は机の引き出しを開け、一枚の地図を取り出した。

 テーブルの上に広げる。


「ここだ」


 指先が、地図の一点を叩く。


 北西。国境近くの、小さな印。


「難民キャンプだ。国境近くの小さな集落がある。表向きは畑と小屋だけだ」

「そこに、昔からの友人の牧師がいる。行って、私の名前を出せ」


「一緒に来てよ!」


 セオルはすぐに言った。


「父さんも!」


「無理だ」


 父は首を振る。


「お前だけ行け」


 外から、通りのどこかで扉を叩く音が聞こえ始めていた。

 兵士の声が混じる。短い命令と、苛立った靴音。

 一定の間隔で、家から家へ移っていく気配。


 父は地図を畳み、セオルの手に握らせる。


「ここから先、お前は私の息子じゃない」


 その言い方が、余計に胸に刺さった。


「名前も家も、忘れたふりをしろ。制服は上から何か羽織れ。目立つ印になる」

「道中、魔法は使うな。特に探知はだめだ。魔力の匂いは残る。拾われる」


 セオルは、唾を飲み込めなかった。

 喉が乾き、言葉がうまく出ない。


「……前にさ」


 九年前の記憶が、勝手に口をついて出る。


「“勇者になっちゃいけない”って言ってたろ」


「ああ」


 父は短くうなずいた。


「覚えている。今も、お前にああなってほしくはない」


「じゃあ――父さんも、逃げろよ」


 言い終わる前に、父が小さく息を吐いた。


「……無理だ」


 父は短く言った。

 言い訳みたいな言葉を挟まない。挟めない、という顔だった。


「私は魔力を持っていない。もう若くない足でお前に合わせて走れば、二人とも捕まる」

「だが、お前なら切れる。魔力がある。体力もある」


 父は居間の方へ視線をやる。

 空になった壁と、消えた椅子。燃え残った灰。


「だから痕跡を消した。お前が“ここにいた”って形をな」


 セオルは唇を噛む。


「でも――」


「聞け」


 父は声を落とす。


 古い記録の写しと照合のメモが、箱の縁からのぞいていた。

 余白には、いくつもの名前と印が走っている。

 それは“知っている”というだけで、罪になる紙だった。


「芽を摘みに来たんだ」


 父の声が低くなる。


「反乱だ、異端だ――そう呼べるものを作って、消す」

「“歴史に通じた学者”は、都合がいい。記録に触れられる人間は、口も持っている」


 言葉は冷静なのに、父の指先だけがわずかに震えていた。

 震えを止めるみたいに、父は紙束を箱の底へ押し込む。


 セオルは、父の横顔を見つめた。


 皺の増えた目元。疲れを隠せない頬。

 でも、その目はあの日と同じように真剣だった。

 そして――どこか、諦めが混じっている。


「自分の目で見て決めろ、セオル」


 父は言う。


「誰かの都合かじゃなく、自分の頭で考えろ」


 その声が、九年前より少しだけ掠れていた。

 掠れを隠すように、父は短くまとめる。


「一つだけ覚えておけ。誰かに使われるだけの自分になるな。力を丸ごと他人にくれてやるな」


 扉を叩く音が近づいた。

 同じ通りのどこかで、兵士の怒鳴り声がはっきり聞こえる。


「開けろ! 調べる!」


 父の肩が、ほんのわずかに沈んだ。

 それが“覚悟”だと分かってしまって、セオルの腹の底が冷える。


「……父さん、残るの?」


 問いが、情けないくらい小さくなる。


「心配するな」


 父は短く答えた。


「私はここに残る。それで足りる」

「探すなら私だ。――お前じゃない」


 足りる、の意味が分からないふりをしたかった。

 けれど、分かってしまう。

 父は“時間を買う”つもりだ。

 この家と、この名前と引き換えに。


 父はセオルを裏口の方へ押しやった。

 そこには、小さな包みが置いてあった。水と、固いパンと、少しの金。古い外套が一枚。


「森で夜は歩くな。動けなくなったら止まれ。生きていれば、また歩ける」


 セオルは包みを抱えた。

 軽い。軽すぎる。

 これで、本当に終わるのかと頭が追いつかない。


「父さん……」


 呼びかけた声は、言葉にならなかった。


 セオルの頭に、父の手が軽く置かれる。


 触れた瞬間、指先がわずかに止まった。

 言葉にしない何かを、そこに押し込めるみたいに。


「生きろ」


 それだけ。


「それだけでいい」


 表口の方で、また扉が叩かれる。

 金具の鳴る音が、今度は近い。


 裏口の扉が、手のひらで押される。


「行け。……振り返るな」


 セオルは、振り返る前に外へ飛び出した。


 扉が閉まる音が、背中で鳴る。


 その直後、表口で誰かが苛立って叫ぶ声がした。

 家の中で、椅子が引きずられるような音がする。


 足は、勝手に走り出していた。

 胸の奥だけが、置き去りのまま。


◇ ◇ ◇


 古い外套を肩に引っ掛け、路地へ滑り込んだところで足取りを変えた。

 細い路地を、足音を殺して駆けた。

 壁の影を選び、角を曲がるたびに肩が硬くなる。


 家並みが少し途切れたところで、背後の空気がふっと重くなった。


 音じゃない。視線でもない。

 皮膚の内側を撫でるような、冷たいざわめき――魔力。


(走れ。振り向くな)


 頭の中で父の声を繰り返す。

 その言葉を噛みしめるほど、首の後ろが熱くなる。


 それでも――


「……っ」


 セオルの足は、勝手に止まった。


 衝動が首を引っ張る。

 振り返るな、と命じる声と、振り返れ、と叫ぶものが、身体の中で引き裂き合う。


 振り返った。


 少し離れた場所にある自宅の上に、薄い光の膜が揺らいでいた。


 家の輪郭に沿って、じわりと広がる。

 木の壁も、屋根瓦も、砕けるのではない。

 輪郭から内側へ向かって、削り取られていくように、静かに形を失っていく。


 音は、ほとんどしない。


 遠くで、地面の奥が鳴る。

 鈍い振動が一度、二度。


 次の瞬間、窓の位置も、書斎の灯りの色も、まとめて消えた。


 数秒後――そこに家はなかった。


 あったはずの場所は、不自然に平らな土と、宙に漂う細かい埃のきらめきだけになっている。

 瓦礫すら残らない。

 “壊した”んじゃない――最初から無かったみたいに、痕跡だけが消えていく。


 父の姿は、どこにも見えない。


「……ぁ」


 喉から、声にならない音が漏れた。


 膝が折れそうになる。

 咄嗟に壁へ手をつく。指先がざらついた石に擦れて痛い。

 その痛みで、まだ立っていられる。


 怒りが熱を持って喉まで上がってくる。

 魔女を――殺す。


 言葉になりかけて、そこで止まった。


 止めたのは理性じゃない。

 身体が、先に知っている。


 あの冷たい圧。近づいただけで、内側から凍る感覚。

 自分に魔力があるとかないとか、そういう話じゃない。

 届かない。届かせてもらえない。


 ――目立たずに終えたい。

 それが願いだったのに、ここで露呈したって勝てない。


 悔しさが、歯の裏側に噛みつく。

 噛み砕けないまま、口の中で苦く広がった。


(生きろ)


 さっきの一言が、頭の中で浮かび上がる。

 逃げろ、じゃない。

 生きろ。勝てない相手に噛みつくな――その意味が、痛いほど分かる。


 角の向こうから、鎧の触れ合う音が近づいてきた。


 セオルは反射で物陰に身を伏せる。

 背中を壁に押しつけ、気配ごと押し殺す。


 心臓の音が大きすぎて、聞かれる気がした。


 そっと、隙間から覗く。


 跡地のそばに黒いローブの人影が三つ、遠くに立っていた。


 真ん中の女だけが、わずかに紫の光を帯びている。

 フードは外れていた。

 紫の瞳。その奥で、螺旋の底が一瞬だけ淡く灯り、すぐに沈む。


 魔女は崩れた地面に視線を落とし、空気を確かめるように細く息を吸った。


 その仕草だけで分かった。

 探している。拾おうとしている。


 隣の影が、何か短く問う。

 言葉は距離に削られて、意味にはならない。


 それでも、一語だけが風に乗って落ちてきた気がした。


(……ま、りょ、く……?)


 紫の魔女は、ほんの僅かに首を傾げ――それから、気のない動きで首を振った。


 興味を切り捨てるように視線を外す。

 兵士へ短く指示を出し、別の方向へ歩き出した。


 こちらへ向かってくる気配はない。


 それだけで、セオルは本能的に理解した。


(今ここで捕まったら、父さんの全部が無駄になる)


 目が熱い。涙が勝手に出そうになる。

 けれど、今出したら音になる気がして、唇を噛んだ。


 乱暴に袖で目元を拭う。

 拭っても、濡れた感覚だけが残る。


「……ごめん、父さん」


 声にならないくらい小さく呟く。

 今は、勝てない。

 それでも、忘れない――その言葉だけが喉の奥に残った。


 今度こそ背を向ける。


 振り返らない。


 北西へ続く道を――ただ走った。

 胸の奥がきしむ。足の裏が地面を叩く感触だけを頼りに、止まらなかった。


◇ ◇ ◇


 どれくらい走ったのか、もう分からなかった。


 足は棒みたいで、喉はからからだ。

 それでも、地図の示す方向だけは間違えないように握りしめていた。


 日が沈みかけ、空が群青に変わる頃。

 低い土壁の小屋が、ぽつぽつと並ぶ小さな集落が見えてきた。


 塔も、大きな教会もない。

 畑と粗末な小屋だけ。


(……ここ、でいいのか)


 地図の印と見比べて、目印のない小屋の前で足を止める。


 窓は板でふさがれていて、外から見ればただの倉庫だ。


 セオルは扉を拳で叩いた。


「誰か……!」


 かすれた声。


 しばらく沈黙が続き、やがて内側で閂が外れる音がした。


 扉が少しだけ開く。

 ひげ交じりの中年の男が顔を出した。粗末な服に、首元の小さな祈りの印。


 警戒した目が、セオルを上から下まで一度だけなめる。


「……?」


 セオルはうまく言葉が出ず、握りしめていた地図を差し出した。


「ここに……来いって。父に」


 男――牧師は、地図と、端に書かれた名前を見た。


 目がわずかに細まる。

 息を吐く音が、短く落ちた。


「あいつの息子か」


 呟きが漏れる。


 牧師は外を一瞥し、扉を大きく開いた。


「入りなさい」


 中は物置のように見えた。

 木箱や麻袋が積まれ、隅には毛布にくるまった人影が数人、静かに横たわっている。


 牧師は扉に閂を戻し、セオルの背を押すように奥へ進ませる。


 部屋の中央まで来ると、床板を足で軽く叩いた。

 鈍い音のする一枚を持ち上げると、暗い穴が口を開けた。


 狭い階段。


「地下へ降りなさい」


 牧師がランプを一本セオルに渡す。


 二人で階段に足をかける。

 上の床板が静かに閉まり、地上の気配がふっと遠くなった。


 階段を降りながら、牧師がぽつりと言う。


「君のお父さんとは、昔からの友人でね」


 低い声。


「『もし私に何かあったら、息子を頼む』と――そう言った」


 セオルは、返事ができなかった。


 代わりに、ランプの炎を見つめる。

 揺れる光が、さっきまでの光の膜を思い出させて、喉の奥が硬くなる。


「君に会わせたい人がいる」


 牧師は続けた。


 階段を降り切ると、低い天井の小さな地下室に出る。


 壁際に藁の寝床と木箱。

 奥には簡素な台と、祈りの印。


 手前には、フードを深くかぶった少女が背中をこちらに向けて座っていた。


 ランプの光が、フードの輪郭だけを浮かび上がらせる。

 肩口から、暗い赤の髪が一筋だけこぼれていた。

 細い。長い。乱れているのに、背筋だけは妙に真っ直ぐだ。


 牧師は、その背中に一歩進み出て、恭しく言う。


「ルナリリス様。以前お話していた勇者候補の者が参りました」


「……え?」


 耳に刺さる言葉に、セオルは牧師を見る。


 問いを挟む暇はない。


 少女の方へ、視線が引き戻される。


 セオルは反射で探知に手を伸ばしかけ――寸でで止めた。

 父の声が、頭の奥で噛みつく。


 それでも遅かった。

 “何もない”という手触りだけが、指先に刺さって残った。


(……?)


 目の前の少女からは、ほとんど何も感じられなかった。


 魔法学校の生徒たちよりも、普通の人間よりも、静かな気配。

 空っぽにすら思える。


 その違和感に戸惑っている間に、フードの少女がゆっくり立ち上がる。


「見せたほうが早いか」


 小さく呟き、手をフードの端にかけた。


 ランプの炎が揺れる。影がずれる。


 布が滑り落ちる。


 暗めの赤髪が、細い束になって肩から胸へ落ちた。

 顔つきは幼いはずなのに、表情は不釣り合いなほど落ち着いている。

 凛、とした静けさが先に立つ。


 そして、暗い紫の瞳がこちらを捉えた。


 そこには螺旋がある。

 広場で見た魔女と同じ形だ。


 だが――奥が光らない。


 螺旋の“底”が沈んだまま、視線だけが静かに刺さる。

 見返された瞬間、背中の内側がひやりとした。


 セオルの全身が、先に反応した。

 家が消えた光景が、まぶたの裏でよみがえった。


「魔女……!?」


 ルナリリスの螺旋の瞳が、わずかに細くなる。


 何かを見定めるように、真っ直ぐセオルを見返した。


 魔女の瞳なのに、圧で押してこない。

 それが逆に、底知れなさに変わっていく。


 セオルの心臓が、大きく一度跳ねた。

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2026年1月2日 19:05
2026年1月2日 20:05

種馬勇者、魔女の国を滅ぼす 藤田ルド @fujita_rudo

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