種馬勇者、魔女の国を滅ぼす

藤田ルド

第1話 魔女の国から来た少女(1)

 その日、広場にはいつもより旗が多かった。


 ソラリア市街の中央広場。

 色あせた布切れをつなぎ合わせたような旗が、風にぱたぱたと鳴っている。


 露店の数も、いつもより少しだけ多い。

 干からびた果物や焼いた芋が並ぶ屋台の前で、女たちが値段をめぐって声を荒げ、少し離れたところでは老人たちが丸椅子を持ち寄ってひそひそと噂を交わしていた。

 焼き串の匂いと、人々のざわめきが混ざって、空気がふわふわしている。


「聞いたか? この街から勇者様が出たんだとさ」


「任命の儀だろ? あの家はもう安泰だな」


「いいよなあ。家族ごと配給も増えるって話だぜ。冬の小麦も止められずに済むかもしれねえ」


 大人たちの声が、途切れなく流れていく。


 人だかりの後ろで、七歳の少年が背伸びしていた。

 セオル。年相応の小さな体で、暗めの青い髪が額に落ちている。

 明るい青の瞳が、旗の向こうをまっすぐ追っていた。


「ねえ、お父さん。勇者様、もうここ通った?」


 握られている手をぐいと引っ張り、隣の男を見上げる。

 男――セオルの父は、学者らしい痩せた顔つきをしていた。整えたひげの下で頬はこけ、目の下に薄い影がある。

 広場の浮ついた空気の中で、彼だけがまるで別の場所に立っているかのような硬い横顔だった。


 だが、その視線は落ち着かない。

 旗や人の顔ではなく、広場の端――路地口と退路ばかりを確かめている。


「さっき、城門から出たぞ」


 近くに立っていた兵士が、からかうように声をかけてきた。


「見られなかったのかい? 残念だったな。あの家の坊主、立派だったぞ。胸張って馬車に乗ってよ。あれは街の自慢だ。お前も頑張れよ」


 周りの大人たちが、それに合わせて笑う。誰かが手を叩き、安っぽい祝祭の空気がさらに膨らんだ。


「いいなあ……」


 セオルは素直に目を輝かせる。

 教本の中で見た、きらきらした鎧の英雄が頭に浮かぶ。


 ――自分にも、魔力がある。

 父にそう言われたし、自分でも分かる。指先に小さな火を灯せることだってある。

 外で見せるな、と言われているから、誰にも言わないだけだ。


「この街から勇者が出たんだよね? すごいね、お父さん!」


 父は答えない。

 代わりに、握っている指の力だけがわずかに増した。


 笑おうとしたのか、口元が小さく動く。

 だが、それ以上は続かず、表情は固いままだった。


 父は広場から目を逸らす。

 長くここにいること自体を避けるように。


「……帰るぞ、セオル」


 短く言って、父はセオルの手を引いた。

 少し乱暴なくらい、はっきりと。


「え、もう? 勇者様は?」


「もう通り過ぎた。見るものはない」


 父は振り返らない。

 広場のざわめきに背を向け、足早に歩き出す。


 セオルは名残惜しそうに後ろを振り返る。

 旗の音と笑い声が、少しずつ遠ざかっていった。


 街の中心から離れるにつれ、家々は低くなり、人影もまばらになる。

 石畳は欠け、建物の壁の塗装ははげて、ところどころ下地の土が見えていた。

 道端にはひび割れた水甕が転がっている。


「お父さん」


 我慢できず、セオルは口を開く。


「勇者になったら、みんなを助けられるんでしょ?

 教本で見たよ。戦って、魔女をやっつけるんだよね? ……ぼくも、魔力があるのに」


 言い終えた瞬間、父の手が硬くなった。

 歩幅が、一拍だけ乱れる。


 父は歩幅を変えないまま、しばらく黙っていた。

 角を一つ曲がったところで、ようやく小さく息を吐く。


「……家に着いてから話そう」


 それ以上は、外では言わなかった。


 街外れの一軒家に着くと、父は無言で扉を開け、セオルを中へ入れた。


 扉が閉まると、外のざわめきが一段階くぐもる。

 家の中は、本の匂いがした。壁一面に本棚が並び、机の上には地図や紙束が広げられている。

 学者の家という言葉が、そのまま形になったような部屋だった。


 書斎に入ると、父は扉を閉め、閂をかけた。

 窓のカーテンを半分ほど引き、光を落とす。


「セオル」


 父は机の前にしゃがみ込み、目線を合わせた。


「今から話すことは、外で決して口にするな」


 声は低く、冗談の余地がなかった。


「……うん?」


「さっき広場で聞いたことは、覚えているか」


「えっと……この街から勇者様が出たって。勇者様の家はすごくて、街の誇りだって」


「そう言っていたな」


 父はゆっくりと息を吐いた。机の角に片手を置き、もう片方の手で額を押さえる。

 その仕草には疲労と、諦めきれない苛立ちが混じっていた。


「いいか、セオル。勇者はな――」


 父は一拍置く。


「魔女と戦う戦士じゃない」


「え?」


「二十歳になった年に、魔法学校の成績が一番の男が“勇者”として選ばれる。

 そして、魔女の国ヴェスペリアに送られるだけだ」


 セオルは、聞き覚えのある地名に小さく息を呑む。


「送られた人は……国のために戦ってるんでしょ?」


 父は短く目を閉じた。


「一度選ばれた者は――戻れない」


 区切るように、はっきりと言った。


「……どうして?」


「戻ってこない者を、『誇り』と呼んで、考えるのをやめているだけだ」


 言葉は静かだったが、底に怒りが沈んでいる。


「ヴェスペリアが欲しがっているのは、ソラリアの“魔力因子持ちの男”だ」


 父はそこで一度、口を閉じる。

 迷いが浮かぶ――というより、言葉にしない何かを噛み殺すみたいに、目だけが一瞬硬くなる。


 それが、セオルには自分に向けられたものだと分かった。


「要するに、だ」


 父は息を吸って、吐かずに止めた。


「勇者は――種馬だ」


「……?」


 セオルは、その言葉の意味が分からない。


「魔女の子どもを作らされる。

 逃げ場はない。拒むこともできない。

 選ばれた瞬間から、そういう役目を背負わされる」


 父の声は低く、揺れなかった。


「終えたら帰れる、なんてことはない。

 帰れない。ずっとだ」


 セオルは黙り込んだ。


 意味は分からない。

 ただ、「ずっと帰れない」「人として扱われない」

 そんな感触だけが、胸の奥に沈んでいく。


「今すぐ、すべて分かる必要はない」


 父は机から離れ、セオルの前にしゃがみ直す。目線を合わせ、両肩をしっかりと掴んだ。


「ただ覚えておけ」


 声が低く、硬くなる。


「いいか、セオル。お前は絶対に、勇者になってはいけない」


 広場で聞いた「誇り」という言葉と、

 今耳にした「種馬」「戻れない」という言葉が、

 頭の中で噛み合わないまま、重く沈殿していく。


 セオルは、うまく返事ができなかった。

 理解はできない。

 けれど、父が本気で恐れているのだけは、子どもにも分かった。


 その言葉は、意味の分からないまま――消えなかった。


◇ ◇ ◇


 ──九年後。


 鐘の音が、校舎の壁を震わせた。


 創暦八〇六年。

 魔法学校の中庭を、制服姿の生徒たちがぞろぞろと歩いていく。


 十六歳になったセオルも、その中にいた。

 暗めの青髪は短く整えられ、明るい青の瞳だけが妙に目立つ。

 教本の詰まった鞄を片方の肩にひょいと引っかけている。


 ――目立たずに終えたい。

 それだけが、ここにいる理由だった。


「なあ、結局さ」


 門の近くで、あくび混じりの声がした。


「今年入学した魔力因子持ちって、七人だけなんだろ?」


 隣を歩くクラスメイトが、退屈そうに言う。


「ソラリア中で、一万人に一人だっけ?」


「見つかった時点で名簿に載るからな。そりゃここに集められる」


 別のやつが肩をすくめる。


「ガキの頃から検査、検査。逃げようがないよな」


「二十で、俺らの代から一人。魔女の国行き」

「男の中で一番上が“勇者様”ってわけだ」


 ひやかすような笑いが起きる。


 セオルは唇だけで笑った。


「……笑えない冗談だな」


 それ以上は何も言わず、門をくぐる。


 門の内側は、きれいに揃った石畳と刈り込まれた芝生。

 白い校舎の壁には、手入れされた旗がかかっている。

 鐘の音すら、整った響き方をする気がした。


 一歩外に出ると、足元の感触が変わった。

 ひび割れた路面。欠けた石。壁の塗装ははがれ、洗濯物が風に揺れている。

 同じ街なのに、空気の手触りが違う。


 歩くほどに、視界の中から整ったものが少しずつ減っていく。

 代わりに、欠けた角と、乾いた色ばかりが増えていった。


 配給所の前には、今日も列ができていた。

 兵士が怒鳴る。


「押すな! 一人分ずつだ!」


「足りないって言ってんだろうが!」


「文句があるなら並び直せ!」


 セオルは列の横を通り過ぎる。


 一瞬、視線がこちらに向いた。

 空っぽの皿を抱えた女が、セオルの制服を見て、すぐに目をそらす。


(……同じソラリア人なのにな)


 因子持ちは、配給の列に並ばなくていい。

 学校を通して回る分がある――そういう建前になっている。


 だから列の外を歩ける。

 その代わり、期待と苛立ちの混じった視線の中を歩かされる。


 セオルは無意識に、制服の裾を指先でつまんだ。

 握るほどではない。けれど、離せない。


 頭上で、旗が二枚並んでなびいていた。

 一つはソラリアの紋章。

 もう一つは、その上に掲げられた黒い旗――ヴェスペリア。


 あの日、広場にあった色あせた布旗とは違う。

 黒い布は、風に揺れても軽くならない。くすんだ重さだけが残っている。


 セオルは黒い布から目をそらす。

 思い出したくもない言葉が、喉の奥で鳴った。


(……今日も、何も変わらない)


 小さく息を吐く。


 街の中心に近づくにつれ、前方からざわめきが聞こえ始めた。

 子どものはしゃいだ声と、大人の押し殺した声が混じっている。


「ねえ、なに?」「何か来るの?」


 道の先で、人々が左右の建物に押し寄せるように場所を空けているのが見えた。


(……いつもの巡回じゃない)


 セオルは歩く速度を落とし、眉をひそめる。


 胸の奥が、ざわりと揺れた。


(魔力の流れが……)


 やめろ、と頭のどこかが言った。

 目立ちたくないくせに、身体だけが先に動く。


 無意識に、探知魔法を広げる。

 意識を少し先へ伸ばした瞬間、皮膚の内側が冷えた。


 濃く、冷たい魔力の塊が――近づいてくる。


 三つ。


 どれも、魔法学校で感じた誰より重い。

 とくに中央の一つは、息を吸うだけで喉の奥が締まるような圧を放っていた。


 ざらつく人間の魔力とは違う。

 深いところで渦を巻く液体みたいに、逃げ道のない重さがある。


(……危ない)


 理屈より先に、本能が告げた。

 セオルは探知を引っ込める。


 そのまま、胸の奥の熱まで押し込めるように息を整えた。

 魔力が滲み出る感覚だけを、無意識に畳む。


 角を曲がると、小さな広場が見えた。

 人々が道の両側に押しやられ、中央を空けている。


 その真ん中を、三人の黒いローブがゆっくり歩いていた。


 魔女。


 セオルは足を止める。


 左右の二人はフードを深くかぶり、無表情で前を向いていた。

 瞳は暗く、底の見えない黒に近い――その奥に、細い螺旋が沈んでいる。

 気づいた瞬間、背中がひやりとした。


 それだけで、教官たちよりも重い魔力を感じる。


 中央を歩く女は、フードを外していた。

 紫の瞳。そこにも螺旋はある。

 だが、同じ模様のはずなのに――奥が違う。


 螺旋の“底”が、かすかに光っていた。

 遠目に捉えただけで、目の裏を指でなぞられたみたいに痛む。


 紫が、群衆の上を滑って――一瞬、こちらの位置をなぞった気がした。


 セオルは反射で視線を落とす。

 遅かったのか、早かったのか、判断できない。


 背筋が固まる。

 探知で感じた「中央の核」と、その光る螺旋が、一本に繋がった。


(これが……本物の魔女か)


 隣にいた母親が、子どもの頭を抱き込む。


「見ちゃだめ」


 小さな声。


 父の声が、遠い記憶から蘇る。


『目を合わせるな。あいつらは、人を“見る”』


 紫の瞳の魔女が、何かを呟いた。

 セオルの位置から言葉は聞こえない。


 代わりに、その隣にいた兵士隊長が一歩前に出て、大きな声を張り上げた。


「この街に、魔女の歴史に通じた学者がいると聞いた」


 広場の空気が、一段冷える。


「古い記録と文献にアクセスできる者だ。

 該当する者を知る者は、ただちに名を告げよ。隠匿は、この街全体への反逆とみなす」


 誰も、口を開かなかった。


 喉を鳴らす音だけが、やけに大きく聞こえる。


(魔女の歴史に通じた……学者)


 セオルの頭の中に、書斎が浮かんだ。

 本棚。古い紙束。ソラリアとヴェスペリアを描いた地図。

 そして、少し疲れた父の横顔。


(父さんだ)


 確信は、あまりにも自然に形になった。


 誰かが顔を上げかけて、隣の袖に引かれ、首をすくめる。

 誰も何も言わない。ただ、紫の瞳が広場をなめるように見渡す。


 その視線が、人々の頭越しに、セオルの方をかすめた。


 セオルは息を止め、地面を見つめる。


 紫の残光と、さっきの圧が、皮膚の内側でいつまでもざわついていた。


「これより、我らが直々に調べる。住居、書庫、寺院――すべてだ」


 兵士隊長の声とともに、三人の魔女と兵士たちは広場を通り抜け、別の通りへ向かっていく。


 列が遠ざかるにつれ、人々のざわめきが戻り始めた。


「誰のことだ」「そんな学者、いたか?」


 セオルはその声を背中で聞きながら、そっと群衆から抜け出した。


(いる。街外れに、一人だけ)


 手のひらに汗がにじむ。

 拳を握りしめる。


(父さんが、狙われている)


 広場の裏手の路地へ滑り込み、そのまま走り出した。

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