卵の君

おーひょい

第1話

 ある朝、目が覚めたら恋人が卵になっていた。

 昨日まで隣で眠っていたはずの彼は消え、枕の窪みにつるりとした純白の卵がポツンと置かれていた。僕は困惑してその卵に触れようとした時、殻の奥から籠ったような、けど紛れもない彼の声が響いた。

「…触らないで。生まれたくないんだ」

 その声はひどく疲れ切っていた。

 僕は震える手を止め、その卵の横に横たわった。彼がいたはずの場所。残された微かな体温、僕はその小さな白い卵を、指先で愛おしく撫でた。

「どうして? 何か、嫌なことでもあったの?」

「もう、この世界のすべてを見たくないんだ。色も、音も、他人の視線も…すべてが暴力みたいに僕を突き刺すんだ。この殻の中だけが、唯一の静寂なんだよ」

 彼はポツポツと言葉を紡いだ。

 社会の不条理、朝の満員電車、スマホの通知、笑顔の裏の嘘。彼にとってこの世界は、呼吸をするだけで肺が焼けるほどの毒に満ちた世界だった。

「誰にも見つかりたくない。小さな点になりたかった。そう思ったら身体が縮まって、気づいたらこうなってた」

「そうか。辛かったんだね」

「ねぇ、僕のこと、放っておいてくれないか。このまま腐って、消えてなくなってしまいたいんだ」

 僕は掌で小さな卵を包み、胸元に持っていった。トクン、トクンと、微かに小さな脈打つような振動が伝わってくる。

「嫌だよ。腐らせるなんて。ねぇ、僕が温め直してあげる。君がまた、「生まれ直したい」と思えるようになるまで」

「…無駄だよ。僕はもう、人間には戻れないような気がする」

「大丈夫。どんな君でも、僕が守るから」

 僕の心音を彼に聴かせるように、卵を抱きしめた。つるりとした殻は冷たかったけど、僕の熱を吸い上げて、ほんの少しだけ温かみを感じた。

「温かいね。君の体温だけは、外の世界じゃないみたいだ」

 小さな拍動の間で、安心したような彼の声。

 それから僕は片時も離さず、彼を温め続け、日に日に卵は大きくなっていった。



 卵はいつの間にか両手で抱えるのも精一杯な、ダチョウの卵ほどの大きさにまで膨らんでいた。

 表面にはうっすらと、ひび割れた大地のような模様が浮かび、耳を当てなくても中から力強い鼓動が聞こえてくる。

「ねぇ。もし生まれ変われるなら、僕は鳥になりたいな」

 殻の中から響く彼の声は、以前よりも透き通っていた。僕は卵を頬に寄せ、うっとりとその言葉を噛み締める。

「いいね。君に似合っているよ」

「自由に空を飛んで、何にも縛られず、誰にも見つからない高い場所へ行きたいんだ。重力も、義務も、責任も、すべてから自由になりたい」

 僕はその言葉を「前向きな希望」として受け取った。卵の中で彼は、生き直す準備をしているのだと。

 僕は期待に胸を膨らませ、輝くような表情で卵の表面を撫でた。

「君が鳥になったら、僕を乗せてくれよ。二人でこの汚い世界を見下ろすんだ。ねぇ、約束だよ」

「ふふ。君を乗せるには、よっぽど大きな翼が必要だね」

 彼は卵の中で小さく笑った。その笑い声さえも、僕には輝かしい予兆に思えた。

 僕は彼の誕生を、神の再臨かのごとく盲信していた。毎日卵を磨き、最高の温度で温ため、慈しむように撫でた。その殻の中に、どんなに美しい翼があるのだろうかと想像しては、歓喜に震えた。

 僕が求めていたのは彼の再生ではない。

 僕の愛によって完成された、新しい「君」の誕生だった。

「きっと、世界で一番キレイな鳥になるよ。僕が、君をそうしてあげるから」

 期待という名の熱に浮かされた僕の言葉に、彼は何も言わなかった。

 ただ、卵はさらに重さを増し、人間が一人入るほどの大きな揺籠へと成長していった。



 卵はもう、ベットの真ん中で僕の背丈ほどにまで膨れ上がった。

 薄皮一枚隔てた向こう側に、確かに命を感じる。誕生の時が近い。

 僕は毎日、その巨大な白い塊を抱きしめ、愛という名の熱を注ぎ続けた。

「ねぇ、もうすぐだね。君が羽ばたく日が」

 僕が彼の飛び立つ美しい姿を夢想するように声をかけると、殻の奥から、籠ったような、呻くような声が聞こえた。

「…やっぱり、生まれたくない」

「え?」

「生まれたら、また同じことになる。飛び立てば、必ずどこかへ降りなきゃいけない。…僕はやっぱり、どこにも行きたくないんだ」

 殻の奥で、彼は怯えていた。

 薄い皮から伝わる振動が、少し速くなった気がする。

 けど、期待に酔った僕の耳に、その震えは届かない。僕はひび割れそうな殻を強く、壊さんばかりに抱きしめた。

「そんなこと言わないでくれよ。約束したじゃないか。僕を乗せて飛んでくれるって。そのために、僕はこんなにも毎日君を温め続けていたっていうのに」

「君の愛が熱すぎて、息が出来ないよ」

 拒絶の言葉さえも、僕には産声の前触れにしか聞こえなかった。

 彼の拒絶を孕んだ卵は、僕の熱に当てられたように、パキッと、乾いた音を部屋に響かせた。

 真っ白な殻に、一本の鋭い亀裂が走った。

「あ」

 ついにその瞬間を迎えた。

 パキパキと、音を立てて殻が粉々に砕け散る。

 けど、中から溢れ出したのは、美しい翼でも、神々しい姿でもなかった。

 どろりと溢れ出した、真っ赤な水。

 そしてその中に横たわっていたのは、羽一つも生えていない、ただのどろどろの塊となった「君」だった。

 中身が溢れ、骨は不自然に折れ曲がり、ぐちゃぐちゃの中に転がる二つの灰色の目玉。焦点の合わないまま、じっとこちらを見つめている。

「なんだ」

 僕の口からこぼれ落ちたのは、落胆の声だった。

「結局、何も変わらないじゃないか」

 目の前にあるのは、空を飛ぶための翼ではなく、地面を這うための手足。それも、千切れて叶わないけど。

 僕は迷わず、真っ赤な水の中に手を入れて、彼の中身をかき集めた。台所に立ち、フライパンに油を注いで火をかける。

 冷蔵庫にあった、賞味期限切れのウインナーを投げ入れ、君の柔らかい部分と一緒に炒めた。

 ジューと、香ばしい香りと鉄の焼ける匂い。ちょっぴり塩味のついたスクランブルエッグ。

「いただきます」

 一口食べると、「君」はびっくりするくらい普通の朝食の味がした。

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