第3話

学校へ向かう道。


昨日起きたことは、私の中で重くのしかかっているのに。

通学路はまるで別の世界のように静かで、平和で、何も変わらない。


いつも通り制服の袖を揺らす朝の風。

前を歩く同じ学校の生徒たちの笑い声。

電柱に貼られたチラシ。

自転車を押すおばさん。


その全部が「日常」で、

その全部から、私だけ外れてしまったみたいだった。


女子校の正門が見えてくると、背中がさらに縮む。


ここには、湊と同じ制服の子なんて一人もいない。

昨日、救急車で運ばれた湊を知っている人も、

怯えた私を知っている人もいない。


そもそもここには、私を知っている人自体、ほとんどいない。


教室に入っても席に向かうだけ。

朝のホームルームが始まっても、誰かと話すことはない。

名前を呼ばれたら返事をして、それだけ。


孤独には慣れていたはずなのに、

今日はその静けさがひどく耳に痛かった。


廊下ですれ違う子たちの会話の断片が、遠く聞こえる。


「ねえ昨日ドラマ見た?」

「今日めっちゃ眠い〜」

「週末どうする?」


そんな何気ない声が、

“昨日”を抱えた私には別世界の音みたいだった。


私は昨日の続きの中にまだいるのに、

世界は勝手に今日へ進んでいく。





授業中はずっと落ち着かなかった。

放課後、帰る支度をしながら自問した。


――お見舞いに行こう。


制服の袖を握り、小さく息を吸った。


「……少しだけでも。様子を、見るだけ」


勇気を出すように呟きながら、教室を出た。



病院の建物が見えてきたとき、胸の奥がふっと強く震えた。


昨日の夜、白い扉の向こうへ運ばれていった湊。

赤いランプに閉じた扉、残してきてしまった後悔。


行かなきゃ。


足取りは重いはずなのに、

不思議と歩く速さだけは増していた。


正面玄関へ続くスロープの手前で、ふと立ち止まった。


誰かが見える。


スーツ姿。

沈んだ影。


その顔を見た瞬間、呼吸が止まった。


湊のお父さん。


心臓が、ドン、と音を立てた。


次の瞬間には、

おなかの奥を冷たいものが一気に駆け上がる。


――どうしよう。


足が震えた。

視線が合いそうになる。


「あ……っ」


声にならない息が漏れた瞬間、身体は勝手に動いていた。


足元の小石が転がる。

顔を伏せる。

そのまま病院脇の通路へ走り込む。


スロープの柵の影に身を隠すようにしゃがみ込むと、

心臓が早すぎるほど脈打っていた。


足音が近づいてくる気がして、息を殺す。


すぐ近くで、車のエンジン音がした。


湊のお父さんは近くに居ない。

そのことに安堵した途端、冷えた空気が一気に肺に流れ込み、肩を震わせた。


会いたかったはずなのに。

湊の様子を知りたかっただけなのに。

私は、湊のお父さんの顔ひとつで、逃げてしまった。


額に影を落とす建物の壁が、

夕方の冷たさをそのまま帯びている。


膝に落ちた自分の影を見下ろしながら、

私は指を握り締めた。


(どうして、ちゃんと……行けないの)


声にすら、ならない。

日が落ちるまで、氷のように動けなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2026年1月3日 08:15
2026年1月3日 21:15
2026年1月3日 21:50

銀灰の境界線 【本篇執筆済】 亜麻野 @amano_ah

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ