第4話 社会人編

 社会人になって数年が経った。

 学生の頃よりも忙しく、気づけば一日があっという間に過ぎ去っていく。職場と自宅を往復し、休日は泥のように眠る。そんな生活を繰り返すうちに、夏音の声を聞く機会はますます減っていった。

 それでも、夏祭りの夜になると、自然とあの公園へ足が向かう。

 幼い頃から何度も二人で見上げた花火。河川敷でもなく、賑やかな会場でもなく、家の近くの公園。人影の少ない、僕らだけの空間。

 そこに夏音はいないだろう。

 そう思いながらも、僕は足を運んだ。


 ――けれど、その夜。


 夜風に揺れる木々の音と花火の響きの中で、思いもよらずベンチに腰かける夏音の姿を見つけた。

 「久しぶり」

 そう声をかけると、夏音は柔らかく微笑んだ。浴衣ではなく、落ち着いたワンピース姿。その大人びた雰囲気が、少し遠くに感じられた。

 「元気にしてた?」

 「まあね。仕事は忙しいけど」

 「ふふ、守らしい」

 他愛ない会話をしながら、空を見上げる。花火が次々と夜空を照らし、僕らの顔も一瞬ごとに色を変えていく。幼い頃から続く、変わらない光景。けれどその夜だけは、決定的に違っていた。

 「守……私ね、今度結婚するの」

 胸の奥を掴まれたように、息が詰まった。

 「……結婚?」

 「うん。相手は大学の先輩。ずっと支えてくれてて、本当に優しい人なの」

 打ち上がった花火が、目の前で大輪を広げた。だけど僕の耳には、音が遠くぼやけていた。

 夏音は視線を空に向けたまま、淡々と続ける。

 「……守にだけは、ちゃんと伝えておきたかった」

 僕は何も言えなかった。

 何年も胸に閉じ込めていた想い。伝えられなかった言葉。そのすべてが、音もなく崩れ落ちていくようだった。

 けれど次の瞬間、夏音は小さな声で言った。

 「本当はね……ずっと守のことが好きだったの」

 視線を彼女に向けると、花火の明かりに照らされた横顔が揺れていた。

 「でもね、本当に好きな人に“ごめんなさい”って言われるのが怖かったの。だから、言えなかった」

 胸が締めつけられるように痛んだ。

 けれど同時に、自分を好きでいてくれた時間が確かにあったのだと知り、温かさが広がっていった。


 僕は過去を思い出していた。幼い頃の笑顔、夏祭りの夜、ふたりだけの公園。小学校の帰り道、夏音がランドセルを揺らしながら笑って走っていった夕暮れ。浴衣姿で隣に並んで、打ち上げ花火を見つめていた彼女の横顔。高校の夜、彼氏の話をしながらも結局僕と一緒に花火を見てくれたこと。

 ――そして、何度も繰り返した「また来年ね」という言葉。

 あれはただの別れの挨拶ではなく、夏音にとって僕をつなぎとめるための小さな約束だったのかもしれない。


 そう気づいたとき、胸の奥に小さな悔いが広がった。 

 最後の花火が打ちあがる。

 大輪の花火が夜空に花開き、間の抜けた音が後から遅れてくる。やがて静かに散っていき、その一瞬の輝きと儚さは、今の自分の心を映しているかのようだった。


 「おめでとう」


 ようやく絞り出した言葉に、夏音は小さくうなずいた。

 ……そして月日は流れた。

 夏音が遠い街で結婚し、もう戻らないと知ったあと、僕は長いあいだ空虚の中をさまよっていた。

 夜空を見上げても、花火の光はただ散って消えるばかりで、そこに彼女の姿を重ねることもできなかった。

 けれど、時の流れは残酷であると同時に、思いがけず優しい。

 仕事に追われ、仲間に囲まれ、ふとした縁で知り合った人と笑い合ううちに、僕もまた新しい人生を歩み出していた。

 彼女は穏やかで、いつも僕の未熟さを受け止めてくれる優しい人だった。

 気がつけば、その人と共にいる未来を自然に思い描くようになり、やがて僕も結婚し、家庭を持った。


 時が流れ、息子が生まれた。元気でやんちゃな男の子で、休日には妻と一緒に公園で遊ぶようになった。

 ある夏の夜、家族で公園に出かけた。花火が夜空を彩り、僕は息子を抱き上げた。

 幼い顔が光に照らされ、無邪気な笑い声が耳に響く。ふと過去の記憶がよみがえる。あの夜、言えなかった言葉。差し出せなかった勇気。胸に残る小さな後悔。

 けれど今は、この腕の中に確かな未来がある。

 僕は息子を高く掲げ、夜空の輝きを見せてやりながら、静かに告げた。

「お前は好きなことを我慢するな。俺が支えてやるから」

 

「……後悔するなよ」

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後悔するなよ マリアンナイト @Maksymilian

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