第21話 手を貸して、の練習
八月二日、午前十一時半。港町の商店街は夏休みの観光客が増え、菓子店のガラス扉が開くたび、潮の匂いと熱気が一緒に入り込んだ。ショーケースの中だけは涼しく、苺のケーキが静かに光っているのに、レジ前は汗がにじむ温度だ。
心海はレジの内側で、硬貨のトレーを指先で整えた。昨日の夜の港の灯りが、まだ目の奥に残っている。涙は乾いたのに、胸の中のざらつきだけが残って、息を吸うと喉が少し痛い。
「いらっしゃいませ」
声は出る。出るのに、背中が勝手に固くなる。名札は胸にあるのに、名刺みたいに薄い。二十歳なのに、受け取ったお金を落としそうで、指が落ち着かない。
カラン、とドアベルが鳴り、団体客が入ってきた。船の到着時間と重なったらしい。紙袋をいくつも持ち、土産の箱を積み上げる。注文が重なると、厨房のオーブンより、レジのほうが熱い。
汐乃が奥から顔を出し、短く言った。
「箱、崩すな。レジ、焦るな」
それだけ言って引っ込む。甘い空気は作らせない。心海はその声に背中を起こし、深く息を吐いた。
客が並び、心海はレジを打つ。バーコードの読み取り音が一定に続くと、少しだけ安心する。数字は嘘をつかない。そう思った瞬間、嘘をつくのは自分の指だと気づいて、心海は唇を噛んだ。
「これも追加で」
若い父親が、箱をもう一つ差し出した。抱えている子どもが、ショーケースに顔を近づけて「いちご」と言う。心海は笑いそうになって、笑いを喉で止めた。止めた喉が、きゅっと痛い。
合計金額が表示される。父親は一万円札を出した。
心海の指先が一瞬だけ止まった。お釣り。硬貨。千円札。頭の中で数字が走る。走った途端、昨日の父の声が混ざり、胸の奥がざわついた。「ひとりは嫌」と言えた夜の安心が、今は逆に薄い布みたいで、すぐ破れそうだった。
心海はレジを開け、札を取る。取った札の端が汗で少し湿る。湿ると、手のひらに余計な力が入る。
「……えっと」
千円札を一枚、多く出しかけて止まった。止まったのは、自分が間違えたのを感じたからじゃない。レジの外側に、那美子の視線があったからだ。
那美子はいつものように買い物袋を持ち、列の後ろで見ていた。目だけで、心海の指先を見る。声を出さない。けれど、目が言う。「聞け」
心海の喉が、からからになった。喉の奥に「大丈夫」が上がる。上がって、今日は違う言葉に押し戻された。
心海は父親の顔を見ず、那美子のほうも見ず、レジの数字だけを見て、小さく言った。
「……手を貸して」
声は小さくて、ドアベルの音に消えそうだった。消えそうなのに、那美子の足音が一歩で届いた。
「合計、ここ。預かり、一万。差額、これ」
那美子は短く言い、指先で画面を示した。示す指が迷わない。心海の手が止まっている間に、那美子は硬貨の位置を変えずに、必要な枚数だけを取り出した。札は一枚も余分に触らない。
心海は、那美子の手の動きを目で追いながら、同じ動きを真似た。指がようやく落ち着く。落ち着いた瞬間、恥ずかしさが遅れて来て、頬が熱くなる。
「……失礼しました。お釣りです」
心海が差し出すと、父親は「ありがとう」と笑った。笑い方が、責める笑いじゃない。ただの日常の笑いで、心海の胸の奥が少しほどけた。子どもが箱を抱えて「いちご」ともう一度言い、父親が「後でな」と言いながら去っていく。
列が一段落したところで、心海はレジの内側に戻り、息を吐いた。吐いた息が甘い。ショーケースの苺の匂いが混ざって、甘い吐息が自分でも分かる。
那美子は心海の横に立たず、少し離れた位置で財布をしまった。財布のファスナーを閉める音が、いつも通りの軽さだ。
「言えた」
それだけ言って、那美子は列の最後へ戻った。褒めたわけじゃない。確認みたいな一言。でも、その一言が、心海の背中を支える。
そのとき、店の入口がまた鳴った。大智だった。体育館のバッグを肩にかけ、汗を拭いたタオルを丸めて持っている。買い物だけの顔で、レジ前の混み具合を見て、すぐに一歩引いた。
大智の視線が、心海の手元に止まる。止まって、すぐに那美子の背中にも移る。移って、何も言わない。言わないまま、列の端に立って待つ。
心海は、大智に気づいたのに、すぐ目を逸らした。逸らしたのは逃げじゃない。今、ここで「助けてもらった」を見せつけられると、せっかく言えた言葉が萎む気がしたからだ。
その代わり、心海はレジのトレーをもう一度整えた。整えると、指先が確かになる。確かになると、胸の奥の怖さが少し薄くなる。
列が途切れ、大智がレジ前へ来た。買うのは小さな焼き菓子の袋だけ。大智は袋を受け取り、支払いの札を出すときも、言葉を急がない。
「今日は、混んでたね」
ただの事実の言い方だった。心海は頷き、レシートを渡した。渡す手が震えていない。
大智はレシートを受け取って、レジの外へ少し下がった。心海が次の客の対応に戻るのを待ってから、小さく言った。
「さっきの、聞こえた」
心海の肩が上がりかけて、すぐに下がった。
「……恥ずかしいです」
心海が言うと、大智は首を振った。
「恥ずかしくない。……頼めた」
頼めた、の一言が胸に落ちて、心海の目の奥が少し熱くなる。けれど今日は泣かない。泣かないで、息を吐く。
「練習、してます」
心海はそう言って、自分でも驚いた。練習、という言葉が自然に出る。頼ることが、怖いだけじゃなく、覚えられるものだと認めたみたいで。
大智は笑わず、ただ頷いた。頷きの角度が、昨日の港と同じだった。
「次も、言えそう?」
質問が押しつけじゃない。選べる問いかけだ。
心海は一度だけ考えて、レジのキーの上に指を置いた。
「……言えます。たぶん」
たぶん、を付けたのは逃げじゃない。自分の足で立ったまま、少しだけ手を伸ばすための言い方だ。
大智は「うん」と返して、扉のほうへ向かった。扉の前で振り返らずに、外へ出る。振り返らないのが、今日の優しさだと心海は分かった。
那美子が、列の外から一度だけ親指を立てた。里希は店の外で何かを叫びかけて、那美子に袖を引かれて声を飲み込んだらしい。ガラス越しに口だけが動いている。
心海は、思わず笑った。笑っても、今日は「子どもっぽい」が怖くない。笑いながら、レジのキーを押す音が軽くなる。
名札はまだ薄い。けれど、薄いままでも、言葉ひとつで厚くできる気がした。心海は背中を起こして、次の客に向かって言った。
「いらっしゃいませ」
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