第22話 野心が炎のように燃え上がる、独立の紙
九月のはじめ、火曜日の午後六時すぎ。港町の市民体育館は、夏の湿気が少しだけ引いて、窓から入る風が乾いていた。けれど、床のワックスの匂いと、汗の名残の匂いはまだ残り、鏡の前の空気は相変わらず熱い。
大智は受付のカウンターで、郵便受けから取り出した一通の封筒を指先でなぞった。角がきっちりしていて、紙が硬い。体育館の備品の紙とは違う、金の匂いがする紙だ。
差出人は、不動産会社。地図の小さなロゴが、白い封筒の端に整然と印刷されている。
大智は封を切り、薄い図面を引き出した。小さな店舗。鏡を置ける壁。更衣スペース。小さな手洗い。入口の前に、二台ぶんの自転車が置ける幅。
ページをめくるたび、胸の奥が熱くなった。熱さが喉まで上がり、息が乾く。頭の中に、まだ何も置いていない床が広がり、そこにマットを敷く自分の手が勝手に動く。
「……ここ」
声に出すと、さらに現実になる気がして、すぐ口を閉じた。閉じたのに、指は図面の角を握りしめている。握りしめたまま、ふと心海の背中が浮かんだ。壁に近づく背中。苦しいと言えた背中。笑って、泣いて、甘い息を夜風に混ぜた背中。
体育館の鍵の束が、ポケットの中でじゃらりと鳴った。音が大きく感じて、いまの紙を隠したくなる。隠したくなるのに、隠したら嘘になる。嘘になるのが怖い。
「先生」
声がして顔を上げると、里希が受付の前に立っていた。髪に汗を残し、いつものように笑っているのに、今日は目が妙に鋭い。
「その紙、なに。ラブレター?」
里希は言いながら、図面の端を覗こうとする。大智は反射で紙を胸に寄せた。寄せた動きが、守るみたいに見えてしまって、自分で腹が立つ。
「違う」
短く返すと、里希は肩をすくめた。
「違うほうが怖い。先生、顔がさ、なんか……燃えてる」
燃えてる、の言い方がふざけているのに、当たっていて、大智は視線を逸らした。
そのとき、那美子が靴紐を結びながら会話に混ざった。財布を閉じる音が、いつも通りに乾いている。
「不動産の封筒。角が硬い。図面が見えた」
那美子は事実だけを並べた。里希が目を丸くする。
「え、先生、独立?」
大智は「まだ」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。まだ、の続きを言えば、もう止まらない気がした。
那美子が図面の一角に視線を落とす。
「保証金。礼金。家賃。火災保険。看板。鏡。エアコン。……先に計算」
里希がすぐ乗る。
「先生、金ないなら俺が出す! 俺、推しに課金できる男!」
「課金は返ってこない」
那美子が即座に切り捨てる。里希が「ひど」と口を尖らせた。
大智は苦笑しそうになって、やめた。笑うと、熱さが溢れる。溢れたら、もう言ってしまいそうだった。
「……考えてるだけだよ」
大智が言うと、里希は一歩だけ近づいた。距離の詰め方が、今日は慎重だ。
「先生さ。考えてるだけ、って言うとき、だいたい決めてるよね」
大智は答えなかった。答えない代わりに、図面の角をもう一度握った。握ると、紙が少しだけしなる。そのしなりが、現実の重さだった。
那美子が腕時計を見た。
「契約は早い。良い物件は、もっと早い」
里希がその言葉に拍手しそうになって、やめた。
「ほら! 那美子さんも言ってる! 先生、言うなら早く!」
大智は視線を落とした。言う。誰に。言う相手の顔が、すぐ浮かぶ。
心海は、最近、よく笑う。笑うときに目が少しだけ細くなる。笑ったあとに「すみません」と言わないようになってきた。頼る言葉も、少しずつ口に乗る。乗るようになったばかりの言葉を、また落とさせたくない。
それなのに、大智の胸の奥は熱い。熱いまま、図面が手の中で脈を打つ。
鏡の奥から、女性たちの笑い声が聞こえた。姿勢教室の終了時間。参加者が靴を履き、帰り支度をする音が広がる。
「来る」
大智が小さく言うと、里希がにやっとした。
「心海さん?」
那美子が真顔で言う。
「言うなら、今」
その瞬間、入口の自動ドアが開き、潮風が一度だけ体育館の中へ入り込んだ。風に混じって、甘い匂いがふわっと漂う。焼き菓子の匂い。あの店の匂い。
心海が入ってきた。薄いカーディガンの袖を少しだけまくり、紙袋を胸の前で抱えている。抱え方は前より少し開いていて、腕が閉じきっていない。背中も、ほんの少しだけ起きている。
「こんばんは」
心海が言い、受付の前で止まった。目が大智に向いて、いったん下がる。下がるのに、逃げない。逃げないのが、今日の心海だ。
「これ、差し入れです。店で余った……じゃなくて、試作で」
言い直したとき、心海の頬が少し赤くなった。赤さが、照れなのか疲れなのか分からない。
里希が即座に手を伸ばす。
「食べる!」
「一個」
那美子が里希の手首を押さえ、袋の中から一つだけ取って渡す。配給の手つきだった。
心海がくすっと笑った。笑いが軽い。軽い笑いが、大智の胸の奥をさらに熱くする。
大智は図面を胸に抱えたまま、息を吸った。吸うと、甘い匂いが肺に入る。肺の中が甘くなるのに、喉は乾く。
「心海」
呼びかけた声が、思ったより低かった。心海が顔を上げる。目が真っすぐ来て、いったん揺れる。
大智は言葉を続けようとして、紙の角が指に当たる痛みに気づいた。図面の角。現実の角。角が痛いのに、手を離せない。
「……今日、暑かった?」
出たのは、どうでもいい確認だった。自分で自分にがっかりして、口の中がさらに乾く。
心海は一瞬だけ目を丸くして、すぐに笑った。
「暑かったです。……でも、息は、止まらなかったです」
その返事が、嬉しくて、苦しい。嬉しいのに、言えない。言えないのが、いまの大智の弱さだった。
里希が、わざとらしく咳払いをした。大きくはしない。夜の厨房で学んだらしい、抑えた咳払い。
「先生。言わないと、壊れる」
里希の声は冗談を混ぜていない。混ぜていないからこそ、刺さる。
那美子が、図面の角を指でちょんと叩いた。
「壊れる前に、話す。契約は早い」
心海がそのやり取りを見て、首を傾げた。
「……なにか、あるんですか」
なにか、という言葉が柔らかいのに、胸の奥に鋭い刃がある。心海は気づいていないふりをしているのか、気づいていないのか分からない。分からないのに、目だけは真剣だ。
大智は図面を一度だけ見下ろし、それから心海を見た。言うなら今。言わなければ、あとで苦しくなる。
それでも、大智の口は開かなかった。開かなかった理由は簡単だ。心海の笑顔が、いま、ここにある。ここにある笑顔を、曇らせる怖さが勝った。
大智は図面を折り、封筒に戻した。戻す手が、ゆっくりだ。ゆっくりのぶん、逃げているのが自分でも分かる。
「……あとで。ちゃんと話す」
大智が言うと、里希が「遅い!」と小さく口だけ動かした。那美子は溜息もつかず、ただ財布を閉じた。
心海は、大智の手元を見てから、視線を上げた。上げた目が、少しだけ揺れている。
「……分かりました。待ちます」
待ちます、の言い方が軽くない。軽くないのに、重すぎない。心海が言えるようになった言葉だ。
大智はうなずいた。うなずいたのに、胸の奥が焼ける。焼けるのは、紙のせいだけじゃない。
その夜、体育館の帰り道。大智は封筒を鞄の奥にしまい、指を握ってほどいた。握ると紙の角の痛みが思い出される。痛みがあるうちは、逃げていないと自分に言い訳できる。
心海は商店街の明かりの下で、紙袋の空いた口を折り返しながら歩いていた。折り返す指が、いつもよりゆっくりだ。ゆっくりのぶん、何かを考えているのが分かる。
大智は距離を詰めず、同じ歩幅で歩いた。言葉は、まだ喉の奥にある。喉の奥で熱いまま、焼けたまま。
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港町の菓子店と『触れるよ』の恋 mynameis愛 @mynameisai
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