第20話 父の声、ひとりは嫌
八月一日、深夜一時半。港のベンチに背中を預けると、木の板が湿気を吸って少しだけ冷たかった。街灯の光は海面に細い道を作り、遠くのフェリーの甲板灯が、眠れない人の目みたいに瞬いている。
心海はスマホを握ったまま、波の音に呼吸を合わせた。送ったメッセージの表示が小さく残っている。既読でも未読でもない、宙ぶらりんの線。画面を閉じれば終わるのに、閉じられない。
「……背中、ついてる」
里希の短い忠告を思い出して、心海は背もたれにもう少し体を預けた。預けると、肩が少し落ちて、息が深くなる。深くなった息は、まだ甘い匂いを連れていた。ほうじ茶で口を洗ったはずなのに、砂糖の余韻はしつこい。
そのとき、着信が鳴った。画面に出たのは「父」。名前じゃなく、役割の文字。心海は指が止まった。止まって、心臓が一度だけ強く鳴る。
この時間。父の生活の中で、今は夜じゃない。けれど、心海の体は夜で、眠れない夜のまま、呼び出される。
心海は、息を吸ってから通話を押した。
「……もしもし」
『おう。起きとるか』
受話口から届く声は、少しざらついていた。電話越しでも分かる、仕事のあと。父は、呼ぶときだけ早い。
「起きてる。どうしたの」
『どうしたのはこっちじゃ。こんな時間に港って、何をしよる』
心海の目が、スマホの上の小さな位置情報に落ちた。誰かが見たわけじゃない。けれど父は、見ているみたいに言う。
「……散歩。眠れなくて」
『眠れんのは若い証拠じゃ、って言いたいとこじゃが。店はどうした。明日も早いんじゃろ』
小言が、心配の皮をかぶって飛んでくる。飛んでくるのに、声の最後は少しだけ柔らかい。柔らかいところが、余計に刺さる。
「大丈夫。今日は、納品終わった」
『大丈夫、大丈夫って、聞いとらん。ちゃんと食べとるか』
心海は笑いそうになって、笑えなかった。食べている。けれど、食べ物の味より、締切の数字が先に口に残る夜がある。
「食べてるよ。ほうじ茶も飲んだ」
『茶で腹は膨れん。母さんが聞いたぞ。最近、店の注文が増えとるって』
母。聞いた、という言い方の裏に、父は自分の不安を隠す。隠しているのに、隠しきれずに声が少しだけ高くなる。
「増えてる。フェリーの売店で売れるって」
『売れるのはええ。けどな、心海。売れるのは店で、お前の体じゃない。体が先に折れたら、残るのは借金みたいな疲れだけじゃ』
父の言葉が妙に具体的で、心海は息を止めた。止めた息が、胸の奥で固い塊になる。
「……借金、って」
『返せん疲れは、あとから増える。若いからって、全部払えると思うな』
心海は、返事ができなかった。返事をしたら、涙が混ざりそうだったから。父の声の中に、責めるだけじゃないものがあると分かってしまうと、踏ん張ってきたものが崩れる。
『それと、港でひとりは危ない。誰か一緒か』
心海は反射で「ひとりじゃない」と言いかけた。けれど、嘘をつく準備がない。準備がない嘘は、声が震える。
「……ひとり」
『ほらな。お前、昔からそうじゃ。怖いときほど、ひとりになる』
昔、という単語が、夜風より冷たい。父は、心海が小学生のころ、転んで膝を擦りむいたのに泣かずに帰ってきた日を覚えている。覚えているから、今の声が強くなる。
「怖くない。大丈夫」
『大丈夫が口癖になっとる。……誰か頼れ。頼るのは、弱いことじゃない』
父の口から、その言葉が出たことに、心海は目を開いたまま固まった。父は、頼れ、と言う側じゃない。言うとしたら母だ。父は黙って背中を押すタイプのはずなのに、今夜は言っている。
心海の喉の奥が熱くなった。熱くなるのに、声は出ない。
『……心海。聞いとるか』
「聞いてる」
返事は出た。出たけれど、短い。
父がふっと息を吐く音がした。受話口越しに、椅子がきしむ音。父も座ったのだろう。座って、言い方を変える。
『しんどいなら、帰ってこい。店のことは知らん。こっちで探せ。母さんは、飯を作るだけは得意じゃ』
得意、という言い方が照れ隠しで、心海の口元が少しだけ動いた。動いたのに、涙が先に来た。
「帰らない。……帰れない。いま、途中だから」
途中、と言った瞬間、自分の言葉がふわっとしているのに気づいた。何の途中なのか、具体的に言えない。言えないのが悔しい。悔しさが、涙を引っ張る。
父はそこで、急に声を低くした。
『途中なら、終わらせろ。終わらせるために、倒れるな』
それだけ言って、話を切り替える。
『明日、昼にもう一回電話する。ちゃんと起きとけ。母さんにも代わるけぇ』
「……うん」
『うん、じゃない。返事は二回言え。聞こえにくい』
父らしい、小さな命令。心海は鼻をすすりそうになって、こらえた。
「うん。……うん」
『よし。ほら、帰れ。港、暗い。足元見ろ』
そこで通話が切れた。切れた画面の暗さが、急に自分の顔を映した。目が少し赤い。頬に夜風が当たって、冷たい。
心海はスマホを膝の上に置いた。置くと、両手が空いて、空いた手が震え始めた。震えが始まると、止め方が分からない。さっきまで整っていた呼吸が、また浅くなる。
「……ひとり」
声が漏れた。言った瞬間、胸の奥がすっと痛む。父に言えなかった言葉が、夜に落ちる。
足音が、近づいた。ゆっくり。砂利を踏まないように選ぶ歩き方。心海は顔を上げなかった。上げたら、見られる。見られたら、泣いたのがバレる。
「港、来てたんだ」
大智の声だった。声はいつもより小さく、夜に合わせて低い。けれど、驚いたふりをしているのが分かった。分かったのに、心海はその「ふり」を責める気になれなかった。ふりをしてくれるのは、逃げ道を残すためだと、今なら分かる。
大智はベンチの前に立たず、少し離れた場所で立ち止まった。距離がある。距離があるのに、心海の胸が少しだけ落ち着く。
「……偶然?」
心海が言うと、大智は一拍置いて頷いた。
「うん。……帰り道、ちょっと遠回りした」
遠回り。理由を言わない遠回り。心海は笑いそうになって、笑えなかった。代わりに、息を吐いた。吐いた息は甘くない。泣いたあとで、塩の匂いが混ざる。
大智が、ベンチの端を指した。指し方が控えめで、命令じゃない。
「ここに座る?」
座る、と言われたのに、立ち上がれない。立ち上がれない自分が恥ずかしくて、心海は腕で目元を拭った。拭ったところで、赤さは消えない。
「……私」
言葉が詰まる。詰まった隙間に「大丈夫」が入り込もうとする。入り込もうとして、今夜は止まった。父の「頼れ」が、喉の奥でまだ鳴っている。
心海は、胸の前で握っていた拳をほどいた。ほどくと、指先の粉の匂いが少し戻る。
「……ひとりは、嫌」
声は小さかった。けれど、言えた。言った瞬間、体のどこかが軽くなる。軽くなった分だけ、涙がまた来て、心海は顔を伏せた。
大智は「うん」とだけ言って、ベンチに腰を下ろした。隣。けれど触れない距離。肩が当たらない位置。心海が逃げたくなったら、すぐ立てる幅。
座った大智の膝の上で、手が一度だけ握られてほどかれる音がした。暗いのに、その動きが見える気がした。
「電話、してた?」
大智が聞く。詮索じゃなく、確認の声。心海は頷いた。
「父。……心配と、小言」
言うと、少しだけ笑える。笑えるのに、涙は止まらない。涙が夜風で冷えて、頬が痛い。
大智はポケットからハンカチを出した。出しただけで、差し出さない。心海が取れる距離に、ベンチの板の上へ置く。
「使う?」
心海はハンカチを見て、手を伸ばした。伸ばす手が震えているのが、街灯の光で少しだけ見える。見えるのに、大智は何も言わない。震えを指摘しない。
心海はハンカチを取って、目元を押さえた。布が柔らかくて、体の中の硬いものが少しだけ溶ける。
「……送って、よかった?」
心海が小さく聞くと、大智は即答しなかった。即答しないのは、軽くしないため。軽くしない分、言葉が真面目になる。
「うん。届いた。……来てよかった」
来てよかった、の後ろに、何も飾りがない。心海は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。熱いのに、怖さが薄い。隣に人がいるだけで、怖さの濃さが変わる。
波が、岸壁に当たって小さく砕ける。遠くでトラックが走り、金属の音が一つ鳴る。港は、眠れない人だけの場所じゃない。働く人の場所でもあり、帰る人の場所でもある。
心海はハンカチを膝の上に置いた。置いてから、背中を起こす。起こして、息を吸う。
大智は心海の呼吸の音に合わせて、同じ速度で息を吐いた。
「帰ろうか。歩幅、心海に合わせる」
心海は頷いた。頷くと、涙がもう一度落ちた。落ちた涙は、今度は恥ずかしくなかった。
ベンチから立ち上がるとき、心海は大智のほうを見なかった。見なくても、隣にいるのが分かるから。
歩き出す前に、心海は小さく言った。
「……今日は、ひとりじゃない」
大智は「うん」と返して、港の灯りの下を一緒に歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます