第19話 大人と子どものはざま、夜更け
八月一日、深夜零時を回ったころ。商店街の灯りはほとんど消えて、海からの風だけが、路地の奥まで入り込んでいた。菓子店の裏口の鍵を閉めた心海は、家までの短い道を歩きながら、足の裏に残った粉の感触を思い出していた。洗っても落ちない白い線が、指先にまだいる。
アパートの階段を上がると、廊下の蛍光灯がじっとり光っていた。部屋の鍵を開け、靴を脱ぐ。脱いだのに、体が休む姿勢にならない。背中が起きたまま、心だけが座り込めずにいる。
冷蔵庫から水を出し、ひと口飲む。喉が乾いているのに、飲んだ水が胸の奥で止まる。止まった水が、言葉になりそこねたものみたいで、心海はコップをシンクに置いた。
スマホの画面を開く。連絡先の一番上に、大智の名前がある。指を伸ばして、画面の上で止まる。止まった指が、すこし震えている。
「……電話、したい」
声に出した瞬間、恥ずかしさが首まで上がった。二十歳なのに、言葉ひとつが怖い。怖いのは相手じゃなく、自分が「助けて」と言ってしまう可能性だ。言ってしまったら、負けたみたいで、でも本当は負けじゃないって知っているくせに。
心海は通話ボタンの上で、指を引っ込めた。引っ込めた指で、代わりにメッセージを打つ。
『起きてますか』
送信の矢印の上で止まる。起きてたらどうする。起きてなかったらどうする。どうする、の先に、何も用意していない自分が怖い。心海は文字を全部消した。画面が白くなると、胸の奥の暗さだけが目立つ。
布団に入る。入っても、眠りの匂いがしない。天井のシミを数え、呼吸を整え、背中を布団に沈めようとして、肩が前に逃げる。逃げた肩を戻そうとして、また息が浅くなる。
ふいに、鏡に映る自分の顔が思い浮かんだ。体育館の鏡。店のガラス。どこで見ても、心海はまだ「心海」だけで、肩書きがない。菓子店の従業員、であることは言える。でも、その言葉を出すと、すぐ後ろに「代わりはいくらでもいる」が付いてきそうで、言えない。
大智は違う。講師で、体育館の鍵を持っていて、迷っている人の息を当てる。自分が何者か、ちゃんと名札で示せる人だ。
心海は布団の中で、拳を握った。握ると、指先に昼の粉の匂いが戻ってくる。戻ってくる匂いが、今日の自分の証明みたいで、少しだけ胸が軽くなった。
軽くなったのに、眠れない。
スマホが小さく震えた。画面に、里希の名前が出る。短い一行。
『眠れないなら散歩』
それだけ。顔文字も、余計な言葉もない。里希の文字が、こんなに短いのは珍しい。短いからこそ、刺さらない。刺さらないのに、背中を押す。
心海は布団から起き上がった。着替えを探す手が、迷わない。迷わない自分に、驚く余裕もない。薄いパーカーを羽織り、鍵を持つ。部屋を出る前に、スマホをもう一度見た。大智の名前。画面の上で、また指が止まる。
「……帰ってから」
小さく言って、扉を閉めた。
夜の階段は、昼より音が大きい。足音が響くたび、心海は歩幅を小さくした。小さくしても、音は消えない。消えない音が、自分の存在を肯定しているみたいで、少しだけ楽になる。
商店街を抜け、港へ向かう道に出る。海の匂いが強くなると、胸の奥の熱が少し冷える。冷えると、呼吸が深くなる。深くなると、さっきまでの「何者でもない」が、ほんの少し薄まる。
フェリーターミナルの方角から、低いエンジン音が聞こえた。夜の荷物を運ぶトラックだろう。昼の売場の明るさとは違う音が、港の生活を支えている。支えている音の中に、自分も混ざっていると思えた。
ベンチに腰を下ろし、額の汗を袖で拭う。汗が夜風に当たって冷たくなる。冷たさが、涙の代わりに頬を撫でた。
心海はスマホを取り出し、画面を開く。今度は、通話ではなく、メモを開いた。誰にも送らない文章なら、怖くない。
『二十歳。何者でもないのが怖い。けど、今日は三百の準備をした。指が動いた。ありがとうが言えた。』
書いて、息を吐いた。吐いた息はまだ甘い。甘いのに、恥ずかしくない夜風がある。
そこへ、また通知が鳴った。里希から、もう一行。
『ベンチ、座るなら背中つけろ 落ちるぞ』
心海は思わず笑ってしまった。笑った瞬間、胸の奥の固いものが少し崩れた。崩れたまま、心海はベンチの背もたれに背中を預けた。預けると、姿勢が少し整う。整うと、呼吸が深くなる。
「……何度も確認するのに、当たる」
呟くと、風がそれを運んでいった。
心海はスマホを握り、連絡先を開く。大智の名前。今度は消さない。消さずに、短く打つ。
『今、港にいます。眠れなくて、少し歩いてます。』
送信の矢印に指を置いた瞬間、心臓が一度だけ大きく鳴った。鳴ったのに、指は逃げなかった。
送信。
画面に小さな紙飛行機が飛ぶ。飛んだあと、胸の奥がすっと軽くなる。軽くなると同時に、怖さも来る。来るけれど、今日は立ち止まらない。
潮風が汗を冷ます。心海はベンチから立ち上がり、港の灯りの下をゆっくり歩き出した。背中を起こして、息を吸う。吸った息が、夜の匂いになじむ。
スマホは、まだ静かだ。返事は来ていない。それでも、送れたことが、今夜の自分の名前みたいに感じた。
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