第18話 太瑛の励ましは、手を動かす

 八月一日、午後四時。フェリーターミナルへの納品を終えた菓子店は、店先ののぼりだけが元気で、厨房の空気は力尽きたみたいに静かだった。オーブンは冷え、洗った天板がラックに並び、床にはまだ水拭きの匂いが残っている。


 心海は流し台の前で、指先の粉を落としきれずにいた。爪の隙間に白い線が残る。落とせば落とすほど、皮膚が薄くなる気がして、手を止めたくなる。止めたくなるのに、止めたら今朝の頑張りが消えてしまうみたいで、また水を出した。


 表では汐乃が、売上の紙をぱたぱた揃えている。


 「フェリーの売店、二百セット全部出た。……追加を言われた。来週は三百」


 数字が増える。増えたのに、汐乃の声は変わらない。変わらない声のほうが怖い。


 心海は「はい」と答えた。答えたけれど、声が自分の耳に遠い。遠いまま、体だけが動く。粉を量り、バターを切り、ボウルを出す。出す動きが、少し速い。速いと息が上がる。上がると「大丈夫」が喉の手前で揺れる。


 裏口の鍵が鳴った。短い金属音。


 心海の肩が上がりかけて、すぐに下がった。今日は驚く力がもう残っていない。


 入ってきたのは太瑛だった。体育館で見かける、首にタオルをかけたままの格好。自転車のヘルメットを片手に持ち、靴底についた砂を入口で軽く払う。挨拶はしない。代わりに、流しの横の布巾を手に取って、黙って台を拭き始めた。


 「……え」


 心海は言いかけて止めた。言葉が出る前に、太瑛の手が動いている。余計な音を立てず、濡れた布巾で手早く拭き、乾いた布巾で仕上げる。厨房の中の「次にやること」が、太瑛の手で勝手に整っていく。


 汐乃が紙を置き、太瑛を見た。


 「体育館の人?」


 太瑛は頷くだけで、棚から計量ボウルを一つ取り出した。置く位置が正確で、心海は思わず目を瞬いた。自分がいつも置く場所と同じだ。


 「……なんで、ここ」


 心海がやっと出した声は、質問になりきらなかった。


 太瑛はボウルを置いてから、心海の手元を一度だけ見た。粉の残る指先。赤い目の奥。寝不足の肩。


 「手が遅いと、心が追いつく前に折れる」


 短い言葉だけ置いて、また手を動かす。励ましなのに、甘くない。甘くないから、心海の胸にすっと入ってくる。


 裏口がもう一度開いて、今度は大智が入ってきた。体育館での片付け帰りらしく、バッグの肩紐が少し汗で濃くなっている。


 大智は太瑛を見て、驚きかけて、すぐに口を閉じた。驚きの声を出せば、厨房の空気が崩れると分かっている顔だった。


 太瑛は大智に視線を向けず、ヘラを二つ並べた。一本は心海のいつもの。もう一本は、大智が前に持ち方を迷っていた少し太めの。


 大智はその並び方を見て、小さく息を吐いた。言葉を挟まないで、手を洗い、エプロンをつけた。エプロンの結び目が左右ずれたままでも直さない。今日は見た目より手が先だ、と決めたみたいに。


 心海は、三人が勝手に段取りを作っていくのを、ただ見ていた。見ている間、拳が握れない。握る暇がない。代わりに、指が動く。粉をふるい、バターを練り、砂糖を入れる。いつもの仕込み。けれど今日は、手の隣に他人の手がある。


 太瑛が、生地の固さを指で確かめ、必要な水の量だけを小さじで足した。大智が、その動きを見て同じように真似する。真似が上手い。上手いのに、心海の目は太瑛の手に吸われる。


 「……手伝って、って言ってない」


 心海がぽつりと落とすと、太瑛は布巾を絞りながら言った。


 「言われる前に来た。言うのが苦手なの、見てた」


 見てた、の言い方が雑で、優しい。心海は反射で「大丈夫」と言いかけて、口を閉じた。閉じたまま、息を吐く。吐くと胸が少し軽い。


 汐乃が、仕込み表を机に置いた。


 「今日の分、ここまで。残りは明日。店は、倒れたら終わり」


 汐乃が「倒れたら終わり」と言うと、脅しじゃなく現実になる。心海は頷き、天板を一枚だけ並べた。並べる手が震えていないことに、自分で驚く。


 里希が差し入れ袋を抱えて顔を出し、「おーい、元気してるー」と言いかけたところで、太瑛が親指を唇に当てた。里希は一瞬で黙り、袋をそっと机に置く。黙って置いたことに自分でも驚いた顔をして、那美子を見た。


 那美子は財布を開きかけたまま、頷いた。


 「静かにできたら、割引」


 里希が目を輝かせ、声を出さずにガッツポーズをする。その無音の喜び方が可笑しくて、心海の喉の奥が少しだけほどけた。


 仕込みが予定のところで止まったころ、外は夕方の色になっていた。窓の外の商店街の影が長く伸び、海からの風が厨房に入り込む。太瑛は布巾を畳み、何も言わずにフックへ掛けた。大智も同じように道具を洗い、音を立てないように並べる。いつもなら「俺がやる」と言いそうな大智が、言わない。言わずに、ただ並べる。


 片付けが終わって、太瑛が靴を履いた。出口に立つ背中が、体育館のときより大きく見える。


 「太瑛さん」


 心海が呼ぶと、太瑛は振り向いた。振り向き方がゆっくりで、焦らせない。


 心海は言葉を探した。探している間に、舌の上で「大丈夫」が転がる。転がって、今日はそこに「ありがとう」が混ざった。


 「……ありがとう、ございます」


 声は小さかった。けれど太瑛は頷いただけで、外へ出た。頷きが返事になって、心海の胸が少しだけ温かくなる。


 太瑛が去ったあと、大智は一度だけ心海の手を見た。粉の残る指先。握られていない拳。動いている指。


 「……受け取れたね」


 大智が言うと、心海は顔を上げられなかった。上げたら、泣きそうだったから。泣きそうなのは疲れのせいだけじゃない。


 心海は裏口を出て、商店街の角まで歩いた。夕方の匂いがする。魚屋の氷の音がまた始まり、焼き鳥屋の煙が上がり始める。町は今日も同じ顔をしているのに、心海の胸の中だけが少し違う。


 帰り道、心海は口の中で言葉を転がした。


 ありがとう。ありがとう。ありがとう。


 言い慣れない言葉は、最初は硬くて、舌に当たる。けれど転がすほど丸くなり、喉を通っても痛くない。


 心海は歩道橋の下で立ち止まり、夜風を吸った。背中を起こして、息を吐く。吐息はまだ甘い。甘いままでも、今日は恥ずかしくなかった。


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