第17話 汐乃の締切、恋を止める

 七月三十一日、午前一時。商店街の街灯だけが等間隔に光り、魚屋の氷を砕く音も、焼き鳥屋の煙も、全部眠っていた。眠っていないのは、菓子店の裏口の明かりだけだ。


 厨房はオーブンの余熱が残り、換気扇が回っていても甘い匂いが壁に貼りつく。心海はエプロンの上から腕まくりをして、天板を二枚、机に並べた。指先の粉が、汗で薄い膜になっている。


 「心海ちゃん。明日の午前九時。フェリーターミナルの売店に、二百セット。『潮風サブレ』でいく。紙帯、間違うな」


 二時間前に汐乃は、そう言い残して帰った。紙帯、という単語だけが、心海の頭の中で何度も鳴る。焼き上げる数より、貼る数のほうが、なぜか怖い。


 時計を見る。午前一時。あと八時間。八時間ある、と言い聞かせたいのに、八時間しかない、が先に来る。


 心海は生地を絞り袋に詰め、絞り口をきゅっとひねった。ひねる指が少し震える。震えをごまかすみたいに、背中を起こして息を吸う。吸った瞬間、甘い匂いが肺に入り、胸がむっとする。


 「……大丈夫」


 声に出してしまって、心海は唇を噛んだ。声に出すと軽い。軽いと、余計に怖い。


 店内のタイマーが鳴る。焼き上がりの合図じゃない。心海が自分で設定した「十五分休憩」の合図だ。合図なのに、心海は止まらない。止まると負ける気がして、手を動かし続ける。


 午前二時を過ぎたころ、裏口の鍵ががちゃりと鳴った。心海の肩がびくっと上がる。誰も来ないはずの時間に、音は不意打ちになる。


 扉の隙間から覗いたのは里希だった。手にはコンビニ袋。袋の中でペットボトルがこつこつ鳴る。


 「心海さん! まだ起きてる! 俺、差し入れ! 眠気に勝つやつ!」


 里希の声は抑えているつもりで、抑えきれていない。心海は思わず指を唇に当てた。


 「……近所、寝てる」


 里希が慌てて口を両手で塞ぎ、目だけで「ごめん」と言う。次の瞬間、那美子がその背中を押して入ってきた。腕時計を見ながら、袋の取っ手を一つ握っている。


 「差し入れは、声量もセットで管理」


 里希が小さく「はい」と頷く。


 那美子は袋から、ほうじ茶の紙パックと、塩飴を二つ、机の端に並べた。並べ方が、レジの釣銭トレーみたいに几帳面だ。


 「飲んで。口が甘いままだと、判断が鈍る」


 心海は返事をしようとして、言葉が出ない。出ないのに、喉が乾いていることだけは分かる。心海はほうじ茶を受け取り、口をつけた。熱くない。ぬるい。ぬるいのに、胸の奥の熱が少しだけ引く。


 里希が机の上の紙帯の束を見て、眉を寄せた。


 「これ、全部貼るの? すげ……いや、えっと」


 褒め言葉にしたいのに、褒め言葉が重い。里希はいつもの調子で笑わせようとして、言い直すのをやめた。


 「……俺、貼るの手伝う。無料で」


 那美子が即座に言う。


 「無料は信用できない。さっき汐乃が言ってた」


 里希が「うっ」と息を詰める。心海は笑いそうになって、笑えなかった。笑いが喉まで来て、落ちる。落ちた先で、胸が痛む。


 その瞬間、心海の背中がふっと前に落ちた。ほんの一瞬。けれど那美子の目が、その一瞬を拾った。


 「座る」


 那美子は椅子を引いた。引き方が迷いなくて、心海は抵抗する言葉を失った。椅子に腰を落とすと、腰が重く鳴る。鳴った音が、体の中で響いた。


 里希が唇を噛む。冗談が見つからない顔。何度も食い下がると言われるのに、今は黙っている。


 「先生、呼ぶ?」


 里希が、抑えた声で言った。呼ぶ、が簡単なことみたいに聞こえて、心海の胸が詰まる。


 「……呼ばない」


 心海は言い切ってから、言い切り方がきつかったことに気づいた。きつさは里希へ向けたんじゃなく、自分へ向けたものだ。


 那美子は、その空気を切り替えるみたいに、紙帯を一枚手に取った。


 「貼る位置、決める。どこが早い?」


 心海は目を閉じて、頭の中で作業順を並べる。並べると、少しだけ息が戻る。


 「……右端を揃えて、裏で一回折ってから貼ると、曲がらないです」


 那美子は黙って頷き、折って、貼った。手際が良すぎて、心海は言葉を失う。里希も真似して貼る。貼って、斜めになり、那美子に無言で直される。里希が肩を落とす。


 「俺、やっぱり無料の男だ……」


 那美子が淡々と言う。


 「無料は、練習が要る」


 里希が「それ、励まし?」と小声で笑って、心海も少しだけ口元が動いた。動いたのに、胸の奥の痛みは残る。


 午前三時。紙帯の山が少しだけ減った。減ったのに、心海の目の奥が熱い。熱いのに、涙は出ない。出ないほうが怖い。


 「心海さん」


 里希が声を落とした。


 「俺、今日は、ふざけない。ふざけたら、刺さる気がするから」


 刺さる、という言葉が、心海の胸に当たった。刺さって、抜けない。


 「……ありがとう」


 心海は言った。言えたけれど、声がかすれていた。


 そのとき、表のドアベルが鳴った。夜中の鈴は、昼より大きく響く。心海の肩がまた上がり、那美子が眉を上げる。


 裏口じゃない。表だ。誰が。


 大智だった。肩に小さなバッグ。髪がまだ湿っていて、走ってきたのが分かる。店に入る前に息を整えようとしたらしく、胸が小さく上下している。


 「……ごめん。遅くなった」


 大智の声は、夜に合わせて低い。心海は立ち上がろうとして、那美子に袖を押さえられた。押さえ方が短くて、強い。


 大智は机の上の紙帯の山を見て、すぐに口を閉じた。言葉が追いつかない顔。追いつかないまま、手袋を取り出した。


 「手、動かす。説明は、後」


 心海の喉の奥に「大丈夫」が上がってきて、今度は飲み込めなかった。


 「……大丈夫です。先生、明日、教室」


 大智の手が止まる。止まって、心海を見る。見るけれど、責めない目。


 「明日、俺が何とかする。今日は、休んで」


 休んで、が命令みたいに聞こえて、心海の背中が硬くなる。硬くなった自分に気づいて、心海は唇を噛んだ。噛んでも、言葉は戻らない。


 那美子が、机の端を指した。


 「役割分担。貼る人、焼く人、数える人。休む人は、今はいない」


 言い方が完全に段取りで、心海は救われた。救われたのに、胸が苦しい。大智の「休んで」が、優しさなのに、刃みたいに当たる。


 大智は一拍置いて、頷いた。


 「分かった。じゃあ、俺は数える。声は出さない」


 里希が小さく親指を立てる。「先生、分かってる」みたいな合図。けれど、その合図も、今日は心海の胸に届ききらない。


 午前四時。焼き上げる数が整い、紙帯が揃い、箱が積み上がっていく。積み上がっていくたび、心海の体の中の力が少しずつ抜ける。抜けるのに、心は落ち着かない。


 大智は声を出さずに数え、里希は斜めの紙帯を何度も貼り直し、那美子は折り目を量産し、心海は天板を回し続けた。四人の手が動く音だけが、夜の店内に残る。


 午前五時半。最後の箱に紙帯を巻いたとき、心海の指先が止まった。止まった途端、体が急に重くなる。重さに負けそうになって、心海は机に手をついた。


 大智が、すぐに近づきそうになって、止まった。止まって、椅子を引いた。引いただけ。触れない。


 「座って。ここまで、よくやった」


 よくやった、が胸に入って、心海の目の奥が熱くなった。熱くなって、やっと涙が出そうになる。出そうになると、心海は顔を背けた。


 「……まだ、終わってない」


 心海が言うと、那美子が腕時計を見た。


 「終わってる。あとは納品。運ぶのは、台車」


 台車、という単語が、心海に前の自分を思い出させた。台車がそこにあったのに、使わなかった日。今日は、台車を使える。使えるのに、心はまだ固い。


 店の外が少しだけ白む。海の方から、朝の匂いが来る。大智はバッグを持ち上げ、扉の前で立ち止まった。


 「心海。……今日、話せる?」


 心海は返事ができなかった。返事をすると、眠気と涙が一緒に落ちてしまう気がしたから。落ちたら、もう止まらない気がしたから。


 大智はその沈黙を受け取って、鍵の音を小さく鳴らした。


 「分かった。じゃあ、また」


 また、の言い方が軽くて、心海の胸がさらに苦しくなる。軽く言える距離に戻られるのが、怖い。


 大智が表へ出る。里希と那美子も続く。那美子は最後に、塩飴を一つ机に置いた。置き方が優しいのに、顔は真面目なまま。


 扉が閉まる直前、心海は小さく言った。


 「……ありがとう」


 声は扉の隙間に吸われたかもしれない。それでも言えた。


 外に出た三人は、商店街の角で足を止めた。大智が息を吐き、手のひらを見た。触れたら壊れそうで、触れないまま助けた夜。


 そこへ、体育館の仲間の太瑛が自転車で通りかかり、ブレーキを鳴らして止まった。朝練の帰りらしく、首にタオルをかけている。


 「お、先生。顔、寝てないな」


 大智が笑おうとして、笑えなかった。


 太瑛は状況を一目で見て、短く言った。


 「守るなら、相手の意思も守れ」


 大智は返事ができない。できないまま、頷いた。頷いたことが返事にならないのも分かっている。


 太瑛はそれ以上言わず、ペダルを踏んで去っていった。残ったのは、朝の風と、言葉の重さだけ。


 大智は商店街の先、まだ明かりの残る菓子店の方向を見た。今は近づけばいいのか、離れるべきなのか、分からない。


 分からないまま、ポケットの中で指を握って、ほどいた。握り直すのは、今日の夜に取っておく。


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