第16話 個人レッスン、逆転

 七月の終わり、金曜日の夜九時。商店街のシャッターが順番に降り、魚屋の氷を砕く音も止まったころ、菓子店の裏口だけがまだ明るかった。焼き上がりの熱が残る厨房は、換気扇が回っていても、甘い匂いと鉄板の匂いが出入り口に溜まっている。


 「先生、そこ。包丁は、こっちの引き出し」


 心海はエプロンのひもを結び直しながら、指先で引き出しを指した。声はいつもより少し低い。講師の声を真似たわけじゃないのに、自然とそうなる。


 大智は、手を洗い終えたところで立ち尽くしていた。体育館ではマットの前で人に指示を出しているのに、ここでは棚の高さも分からないらしい。背中が少しだけ硬い。


 「……俺、道具の場所が分からないの、こんなに落ち着かないんだな」


 言いながら、笑ってごまかそうとしている。その笑い方が、心海の胸の奥を軽くくすぐった。


 作るのは、焼き菓子の小さな詰め合わせだ。明日の朝、店頭に並べる分の試作。汐乃が「五十個まで」とだけ言い残して、二人分の軍手を置いて帰った。「閉店後に火を使うなら、片付けは完璧に」と、いつもの調子で釘も刺していった。


 心海はボウルを二つ並べ、計量スプーンを揃えた。砂糖、粉、バター。材料が整うと、体の中のリズムが勝手に落ち着く。落ち着くのに、今夜は妙に息が甘い。目の前に大智がいるからだ。


 「まず、バターは指で押せるくらい柔らかく。冷たいと、混ざらない」


 心海が言うと、大智は真面目に頷き、バターの塊を指で押した。押した瞬間、指がすべって、バターがまな板の上を逃げた。


 「……逃げた」


 大智が追いかけて、両手でバターを捕まえた。捕まえたはずなのに、手のひらの熱で少し溶け、指の間にぬるりと広がる。


 心海は、思わず笑ってしまった。喉の奥から、我慢しきれない音が出た。


 「ごめん……」


 謝るより先に笑って、心海は慌てて口を押さえた。笑った瞬間、昔の「子どもみたい」と言われた日の痛みが、胸の奥でかすかに揺れる。笑うと幼く見える。幼いと、また笑われる。そんな順番が、体に染みついている。


 けれど大智は、笑われた顔をしていなかった。眉を下げ、バターの付いた指を見て、困ったように笑った。


 「笑われるの、嫌じゃないんだ」


 その言い方が、さらっとしていて、逆に心海は言葉を失った。嫌じゃない、の理由を問えば、何かがはっきりしてしまう気がしたから。


 心海は咳払いみたいに息を吐き、次の説明に逃げた。


 「……混ぜます。力、入れすぎないで。手首で」


 大智は泡立て器を握り、言われた通りに動かそうとする。けれど力が入り、ボウルが机の上でずれて、金属がきいっと鳴った。


 「すみません」


 謝る声が、体育館の講師の声よりずっと小さい。心海はその小ささに、笑いではなく、胸の奥がきゅっとなる。


 「謝らなくていいです。……あ、すみません。謝らなくていい」


 自分の口から「謝らなくていい」が出たことに、心海が一番驚いた。言う側に回ると、その言葉の重さが変わる。相手を軽くするために言う言葉だと、初めて分かる。


 大智は「はい」とだけ返して、もう一度泡立て器を動かした。今度は少し柔らかい音になった。心海は、その音が続くのを、隣で黙って聞いた。


 「卵、割ります」


 心海が卵を差し出すと、大智は両手で受け取った。受け取る仕草が丁寧すぎて、卵が大事な書類に見える。


 殻を割る位置を迷い、机の角で小さく叩いて、結局、割れ目がうまく入らない。三回目でやっと割れて、黄身が落ちた瞬間、殻の欠片も一緒に落ちた。


 大智が固まる。固まったまま、指で殻を探している。


 心海は、手を伸ばしかけて止めた。触れるより先に、言葉を選ぶ。


 「冷たい水で、指を濡らすと取りやすいです」


 大智はうなずいて水道へ行き、濡れた指で殻を拾った。拾う指が真剣で、心海はまた笑いそうになった。笑いそうになって、今度は笑っていいと思えた。笑いが胸まで降りてきて、呼吸が少し楽になる。


 粉をふるい入れ、ヘラで切るように混ぜる。生地がまとまり始めたころ、裏口ががちゃりと開いた。


 「まだやってんのか。俺、差し入れ!」


 里希がコンビニ袋を掲げ、顔だけ出す。袋からは冷えた炭酸の匂いがした。


 「閉店後に騒がない」


 那美子がその背中を押さえ、声を落として言う。けれど里希は落ちない。


 「先生が厨房で不器用って噂を聞いたら、見に来るしかなくない?」


 「噂を流すな」


 那美子が即座に返し、心海は口元を押さえて笑った。笑ったことに気づいた大智が、こっちを見た。目が合いそうになって、心海は生地に視線を落とす。落としながら、頬が熱い。


 那美子は袋から保冷剤ではなく、小さな紙箱を出した。


 「安いバターがあった。明日の仕込みに使える」


 汐乃の顔が浮かぶほど、実用的な差し入れだった。


 「ありがとう……ございます」


 心海が言うと、那美子は頷くだけで、領収書みたいに短い。


 里希は大智の手元を覗き込み、「先生、そこは体育館じゃない」と笑う。大智は反論せず、へらを持つ手を少しだけ引き、心海の真似をするように動かした。


 焼き上がりの時間、四人は厨房の隅で小さな扇風機の風を分け合った。生地の残りを指でつまんで、那美子が「砂糖の粒が粗い」と言い、里希が「粗いのがいい」と言って、二人で無駄に言い合う。心海はその間に、オーブンの窓を何度も覗いた。


 焼き上がりの合図が鳴る。心海がミトンをはめるより先に、大智がミトンをはめていた。さっきまで道具の場所が分からなかったのに、今は一番に動く。動いて、天板を引き出し、熱い空気がふっと顔に当たる。


 天板の端が少しだけ傾いた。心海の手が反射で伸びる。伸びる途中で、大智がもう一方の端を支えた。支えるだけ。引っ張らない。


 「重さ、こっちで持つ」


 声が低くて、短い。心海は「はい」と答えて、天板をまっすぐ置いた。置いた瞬間、胸の奥の緊張がほどける。


 焼けた表面は、少しだけ色が濃い。焦げたわけじゃないけれど、ぎりぎりの線。


 里希が一枚つまんで、「うまい!」と大声で言いかけ、那美子に口を塞がれた。


 「夜。近所」


 那美子の指摘が正しくて、里希が目だけで謝った。


 心海は小さく割って口に入れた。熱が舌に当たり、甘さが広がる。少しだけ香ばしい。香ばしさが、今日の笑いと同じ匂いに思えた。


 「……おいしい」


 心海が言うと、大智がほっとしたように息を吐いた。息を吐いたあと、心海を見て、少しだけ首を傾げた。


 「笑った顔、さっきより楽そう」


 心海は返事ができなかった。返事をしたら、理由まで言わなきゃいけない気がしたから。


 その代わり、心海は新しい紙袋を取り出し、焼き菓子を詰め始めた。詰める手が、今夜は止まらない。止まらないのに、急がない。誰かの手が隣にあるから。


 大智は紙袋に貼るシールを手伝った。シールを斜めに貼ってしまい、心海がまた笑ってしまう。笑うたび、大智は困ったように笑って、もう一度貼り直す。


 「笑われるの、嫌じゃない」


 大智がさっきの言葉を繰り返すように、ぽつりと言った。


 心海はシールを押さえる指を止めた。指の下で、紙が少しだけ湿っている。厨房の熱のせいなのか、手汗なのか分からない。


 「……私、笑うの、怖いことがあって」


 言いかけて、心海は飲み込んだ。飲み込んだままでも、大智がここにいる。飲み込んだままでも、笑っていい。


 心海は顔を上げずに、最後の袋を閉じた。


 「先生、次は……私が見る。手首。力、抜けてるか」


 大智が「うん」と返した。返事の音が、シンプルで、安心する。


 里希は「これ、デートじゃん」と言いかけて、那美子に今度は肘で黙らされた。


 汐乃の言葉通り、片付けは完璧にした。最後に床を拭き終えたとき、心海の背中は汗で少し湿っていた。でも、その汗は隠すより先に、風に当てたい汗だった。


 裏口を閉める前、心海は一度だけ振り向いた。大智が、手に残ったバターの匂いを指先で確かめるみたいに、そっと手を握ってほどいている。


 心海は、言葉を口に出さずに、胸の奥で転がした。


 笑われてもいい人が隣にいるだけで、こんなに楽なんだ。


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