第15話 汗ばむ理由は、厨房の熱

 七月のはじめ、火曜日の午後四時。港町の商店街は日差しが真っ直ぐ落ち、アーケードの外の白い道路が眩しい。菓子店の裏口を開けると、空気が一段重くなる。オーブンの熱が壁に染みて、甘い匂いが湯気みたいに肌へまとわりついた。


 心海は厨房で、天板を二枚並べ、焼き菓子の生地を絞っていた。絞り袋を握る手のひらが滑る。粉とバターの匂いの中で、汗の塩気が鼻に上がる。エプロンの首紐が、濡れた髪に張りついた。


 「絞り口、詰まってない?」


 背後から声がした。汐乃だ。作業台の端で、注文票を指で弾きながら、焼き上がりの時間を数えている。数えるときだけ、目が小さくなる。


 「大丈夫です」


 心海は反射で言って、すぐに噛み直した。


 「……いえ。ちょっと、手が」


 絞り袋を持ち替える。持ち替えた瞬間、腕の内側を汗がすべった。生地がわずかに斜めに落ち、形が崩れる。崩れたのを見た途端、胸の奥がきゅっと縮む。縮んだまま、息が浅くなる。


 厨房の入口の鈴が、ちいさく鳴った。表のドアベルとは違う、裏口の合図だ。


 「お邪魔します」


 大智の声だった。体育館の仕事帰りらしく、薄いジャージに、手には小さな紙袋。紙袋から、冷えた飲み物の水滴が落ちている。


 汐乃が顔を上げ、迷いなく言った。


 「先生、買うなら五分。手伝うなら十分」


 大智が一瞬だけ目を丸くして、すぐ笑いを飲み込む。


 「手伝う……は、邪魔ですか」


 汐乃は注文票を一枚めくった。


 「邪魔はしない。遅くなる」


 言い方が完全に段取りで、心海は思わず口元を緩めた。緩めた瞬間、汗が上唇に触れて、また恥ずかしくなる。


 大智の視線が、心海の額の汗に止まった。止まって、すぐに手元へ移る。生地の形。天板の間隔。絞り袋を握る指の力。見ているのに、急がせない。


 大智は紙袋を作業台の端に置き、ポケットから白いタオルを一枚出した。体育館でよく見る、薄手のやつだ。


 「これ、使って」


 差し出し方が、前よりゆっくりだった。手のひらが上向きで、奪わない形。


 心海は反射で首を振った。


 「大丈夫です。私、手が汚れて」


 大智は言い返さない。言い返さずに、タオルを台の端へ置いた。心海のすぐ横じゃない。取ろうと思えば取れる距離。


 「置いとく。必要になったら」


 必要、という言い方が、押しつけじゃない。心海は絞り袋を握り直し、息を吸った。吸った瞬間、熱い空気が喉を焼いて、咳き込みそうになる。咳き込みそうになるのを堪えると、今度は目が滲む。


 汐乃が、包丁を置く音を一つ立てた。


 「心海ちゃん。天板、私が入れる。手を洗って、顔拭け」


 命令なのに、叱っている感じがしない。時間の節約みたいな言い方だ。心海は返事をしようとして、声が出ない。出ない代わりに頷き、シンクへ向かった。


 蛇口をひねると、水が冷たくて、指先が一瞬だけ痛い。手を洗いながら、心海は鏡代わりの金属に映る自分の顔を見ないようにした。見たら、情けない顔がいる気がしたから。


 背後で足音が一歩、近づく。近づいて、止まる。


 「心海」


 名前を呼ばれると、背中が硬くなる。硬くなったのを自分で感じて、さらに肩が上がる。


 大智は声の距離を変えなかった。近づかないまま、言った。


 「熱いとき、我慢すると、息が先に止まる。……いま、止まりかけてた」


 心海は水を止め、ゆっくり息を吐いた。吐くと、胸の奥の硬いものが少しだけほどける。


 台の端に置かれた白いタオルが、視界の端で揺れた。エアコンの風じゃない。人が動いた風。


 心海は、もう一度だけ首を振ろうとして、やめた。やめた代わりに、手を伸ばした。伸ばした手の先で、タオルの端が指に触れる。


 「……借ります」


 言うと同時に、胸の奥がきゅっと鳴った。借りる、と言えば、返せる。返せるなら、怖さが少しだけ薄まる。


 大智は「うん」と頷いた。頷くだけで、満足しない。追い詰めない。


 心海はタオルで額と首筋を拭いた。汗が取れると、急に空気が軽く感じる。軽く感じた途端、さっきまでの息の苦しさが、別のものだった気がしてくる。


 「……私」


 心海は言いかけた。言いかけて、喉の奥で止まった。止まった瞬間、昔の匂いがした。夏の車内。窓が開かない。誰かが「自分でやれ」と言った声。言った声の方を見上げられなかった自分。


 心海はタオルを握り、笑うふりをした。


 「厨房、暑いですね。汗、止まらない」


 言い換えた言葉が、舌の上で軽すぎて、心海は自分に腹が立った。腹が立つと、涙が来る。涙が来ると、また「大丈夫」が来る。


 大智は、心海の言い換えに乗らなかった。乗らずに、タオルの端を見た。


 「暑いのは事実。でも、いま言いかけたのは、暑さだけじゃない」


 言葉がまっすぐで、心海の胸の奥に当たる。痛いのに、逃げたくない。


 そのとき、裏口が勢いよく開いた。


 「氷ーー!! 暑いって聞いたから持ってきた!」


 里希がコンビニ袋を振り回して入ってきた。袋の中で、氷ががさがさ鳴る。汗で濡れた前髪を手の甲で拭い、勝手に元気だ。


 「店主さん! 俺、冷やす係!」


 汐乃が即答する。


 「冷やすのは売上じゃない。床を濡らすな」


 里希が「はい!」と背筋を伸ばす。その背筋の伸び方が大げさで、心海の口元がまた緩んだ。緩むと、涙が引っ込む。笑いが、涙の手前で止めてくれる。


 那美子も遅れて入ってきた。腕時計を見ながら、紙袋を一つだけ置く。中身は小さな冷却シート。


 「貼る位置は腰。冷やしすぎると、動きが鈍る」


 言い切ってから、那美子は心海の顔を一度だけ見た。見る時間が短いのに、見逃さない目。


 「……顔は、冷やすと化粧が落ちる。今日は首」


 心海は、思わず「ありがとうございます」と言った。言ってから、自分の口が勝手に動いたことに驚く。謝罪じゃない言葉が出たのが、久しぶりだった。


 大智が、場を整えるみたいに言った。


 「じゃあ、五分休憩。水飲んで、呼吸戻す」


 汐乃が頷く。


 「五分で戻れ。戻れないなら、十分」


 里希が「十分快適ー!」と叫びかけて、那美子に肘でつつかれた。声は喉で止まり、代わりに変な笑いが漏れる。


 五分のあと、心海は絞り袋をもう一度握った。さっきより指が滑らない。タオルの水分が手のひらを落ち着かせた。天板を入れ替えるとき、心海は迷って、言葉を探した。


 「……天板、持ってもらえますか」


 言えた。言った瞬間、胸が熱くなる。熱いのは厨房のせいだけじゃない。


 大智は「うん」とだけ言い、火傷しないようにミトンをはめて、天板の端を支えた。心海の手が震えても、天板が揺れないように、支える力だけを足した。


 那美子が、横から淡々と口を挟む。


 「タオルの洗濯は、二日分の電気代。……でも、今の一言は、計算できない」


 言い終えた那美子が、自分で一度だけ瞬きをした。汐乃が注文票をめくる音が、少しだけ速くなる。里希だけが「うお、那美子さん、今の……!」と騒ぎかけて、また肘で止められた。


 心海はタオルを畳み、手の中で形を整えた。整えると、怖さが少し薄くなる。タオルの柔らかさが、今日の熱の中で、妙に確かだった。


 「返すの、あとでいい?」


 心海が小さく言うと、大智は即答しなかった。即答しない代わりに、ゆっくり頷いた。


 「いい。……その代わり、言えるときに、言って」


 心海は返事をせず、冷たい飲み物の缶を握った。缶の水滴が指に落ち、ひんやりしている。ひんやりが、胸の奥まで届く気がした。


 心海は息を吸った。熱い厨房の中なのに、息が少しだけ深く入った。


 言いかけた理由は、まだ飲み込んだまま。けれど、飲み込んだままでも、誰かが隣にいていい時間が、今日ここにあった。


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