第14話 合理的な那美子、恋に弱い

 六月の下旬、金曜日の夕方五時。商店街のアーケードは雨音を受け止めて、いつもより暗い。菓子店のガラス戸に、濡れた傘が映り込む。店内はオーブンの熱でむわっとして、甘い匂いの奥に、湿った空気が重なっていた。


 心海はレジの前で、指先に粉砂糖のざらつきを残したまま、トレーを並べ替えていた。苺のショート、プリン、焼き菓子の袋。並べ方を整えると気持ちが整う気がして、整えるほど、息が浅くなるのが自分でも分かった。


 「そこ、値札が見えない」


 那美子の声が、短く飛ぶ。那美子はレジ横の小さな棚で、釣り銭を揃えていた。硬貨の向きを揃える指が速い。速いのに、音がしない。揃える動きだけで、店の空気が落ち着く。


 「すみません」


 心海が値札を少し前に出すと、那美子はうなずくだけで、次の硬貨へ移った。怒らない。甘やかさない。必要なところだけを見る。


 ドアベルが鳴り、雨粒を肩に乗せた若い男女が入ってきた。二人は顔を寄せ合ってショーケースを覗き、指を差しながら小声で笑う。心海はその笑いを見て、胸の奥が少しだけ疼いた。


 「記念日なので、ホールで……」


 男性が言いかけた瞬間、那美子がレジの横で、ほんの一秒だけ固まった。硬貨を並べていた指が止まり、すぐ動き出す。止まったのを見たのは、たぶん心海だけ。


 心海が「こちらの生クリームが」と案内すると、那美子は横から伝票をすっと差し出した。差し出す角度が正確すぎて、逆に焦る。


 会計の途中、心海の頭の中で数字が滑った。千円札、五千円札、ポイントカード、雨で湿った紙幣。お客の手元が濡れていて、レジの上にも水滴が落ちる。落ちるたび、心海の視界が揺れた。


 「……お釣り、えっと」


 口の中で数字を並べようとした瞬間、那美子が視線だけを投げた。声は出さない。目だけで言っている。「聞け」。


 心海は喉が鳴るのを感じた。聞くのは、頼るのと同じだ。頼ると、負ける気がする。負ける気がするのに、ここで間違えたら、店もお客も困る。


 心海は息を吸って、吐いた。


 「……手を貸して」


 那美子は一瞬、眉を上げた。驚いたのに、驚きを膨らませない。すぐに心海の横に立ち、レジの表示を指で軽く示した。


 「ここ。五千から、これを引く。端数は先に」


 言葉が短い。短いのに、心海の頭の中の霧が薄くなる。那美子の指先はレジのボタンに触れず、空中で動くだけだ。触らないのに、ちゃんと伝わる。


 心海が釣り銭を渡すと、若い男女は「ありがとうございます」と頭を下げ、濡れた傘を開いて出ていった。ドアベルが鳴り終わるころ、心海の肩がふっと落ちた。


 「……助かりました」


 心海が言うと、那美子はレジの引き出しを閉め、硬貨の列をもう一度整えた。


 「助かったのは店。間違いは返金の手間が出る」


 言い方は会計のままなのに、心海の胸の奥が少しだけ温かくなる。那美子は損得で喋っているようで、損得の外側にあるものを、ちゃんと守る。


 そのとき、ドアベルがまた鳴った。今度は里希だ。髪が雨で跳ねて、手には透明なビニール傘。濡れた靴のまま、元気に言う。


 「焼き菓子、ある? 先生に差し入れしたい!」


 那美子が即答した。


 「差し入れは在庫が減る。買うなら歓迎」


 里希がニヤッと笑う。


 「じゃあ買う! ついでに那美子さんにも、恋の差し入れしたい!」


 心海は反射で里希を見る。那美子は伝票に目を落としたまま、ペンを止めない。


 「恋は保管場所がない。冷蔵庫も効かない」


 里希が肩をすくめ、わざとらしく胸に手を当てた。


 「え、冷蔵庫ダメ? じゃあ俺の心臓で温める!」


 那美子のペン先が、ほんの一瞬だけ伝票の外へ滑った。すぐ戻る。戻るけれど、その瞬間の乱れが、心海の目に残った。


 「温めると腐る」


 那美子の声は平らだ。平らなのに、耳の先が少しだけ赤い。心海は気づいたふりをしないで、焼き菓子の袋を手に取った。


 里希が袋を受け取りながら、声を落とす。


 「那美子さん、恋の話になると速度落ちるよね。あれ、面白い」


 那美子が、里希の傘の先を指で軽く押し返した。


 「面白がるな。店の床が濡れる」


 その言い方に、心海は小さく笑ってしまった。笑った自分に驚く。笑いが、胸まで降りてくる。


 閉店のシャッターを下ろすと、雨音が少し遠くなった。店内の灯りが落ち着き、オーブンの熱もやっと薄れる。心海はレジ横の小さな椅子に腰を下ろし、ふくらはぎを揉んだ。揉むと、今日の疲れがそこに溜まっていたのが分かる。


 那美子が釣り銭袋を金庫にしまい、鍵を回した。鍵の音が、規則正しい。


 心海は、さっきから胸に引っかかっているものを、口に出す場所を探した。探している間に、那美子がレジの下の床を拭き、モップを戻す。全部を片づけてから、那美子はようやく心海を見る。


 「何」


 問いが短い。逃げ道がない問い。けれど、問いがあるだけで、心海は少し楽だった。


 「那美子さん、恋の話、避けてますよね」


 言ってしまった。言った瞬間、心海の頬が熱くなる。勝手に恥ずかしい。


 那美子は答えず、エプロンのポケットからレシートの束を出し、端を揃えた。揃える動きだけが続く。


 「避けてない。……不要な出費を避けてる」


 言い終わりが少し遅れる。心海は、その遅れを見逃さない。


 「出費、って……?」


 那美子はレシートを束ねる輪ゴムを、指で引き伸ばした。引き伸ばして、元に戻す。戻すとき、指先がほんの少し震える。


 「好きになると、見積もりが崩れる。時間も、気分も、睡眠も」


 那美子は淡々と言う。淡々と言うのに、言葉の後ろで、息が一度だけ浅くなる。


 心海は、自分の胸がきゅっと鳴るのを感じた。那美子が恋に弱い、なんて言い方は簡単だ。でも、那美子は弱く見せていない。見せないまま、避けている。


 店の表で、傘の骨が開く音がした。ドアベルは鳴らない。けれど、ガラス越しに黒い傘が見えた。大智だ。雨の中、店の前で一度だけ立ち止まり、外の看板灯を見上げている。


 那美子も気づいたらしく、視線をそらすように棚の上を整えた。整える棚はもう整っているのに、手を動かす。


 心海は立ち上がり、裏口の鍵を手に取った。鍵は少し冷たい。


 「……那美子さん」


 呼ぶと、那美子は目だけで返事をした。


 心海はさっきの言葉を、もう一度、口にした。


 「手を貸して。傘、二本いる」


 那美子は一瞬だけ目を細め、すぐに頷いた。頷いて、店の奥から折りたたみ傘を取り出す。取り出す動きが速い。速いのに、乱れない。恋の話で乱れた分を、動きで取り戻すみたいに。


 裏口を出ると、雨は細かく、けれどしつこく降っていた。商店街の床が光り、街灯の丸が水面に揺れる。


 大智がこちらを見て、傘を少し傾けた。近づきすぎない距離で立っている。


 「遅かったね。足、疲れてない?」


 大智の声はいつも通り低い。いつも通り低いのに、今日は胸が少しだけ熱い。さっきの「手を貸して」が、まだ舌の上に残っている。


 心海は傘を受け取り、柄を握った。那美子が横で折りたたみ傘を開く。開く音が、雨の中で小さく鳴る。


 「……疲れてます。でも、歩けます」


 心海が言うと、大智はすぐに言いそうになる言葉を飲み込むみたいに、口を閉じた。それから、ゆっくり言った。


 「じゃあ、歩幅は心海に合わせる。無理はしないで。……でも、困ったら言って」


 最後の「言って」が、前より少しだけ柔らかい。心海は、その柔らかさに、拗ねる代わりに頷けた。


 那美子が、傘の下で小さく言う。


 「言うのは無料」


 大智が一瞬だけ笑い、すぐに口を閉じた。里希がいないのに、ちゃんと笑いが生まれる。


 心海は雨の中で、背中を少しだけ起こした。頼る癖はまだ薄い。けれど、頼らない癖の隣に、「言う」という選択肢が今日も残った。


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