第13話 雨の日の傘
六月の中旬、午後六時すぎ。菓子店のシャッターを半分だけ下ろすと、商店街の通りが一気に暗く見えた。軒先から落ちる雨粒が、灯りの下で細い糸みたいに光っている。焼き鳥屋の煙は今日は低く、湿った空気に押し戻されて、甘い匂いと一緒に足元へ溜まっていた。
「心海ちゃん、傘、持った?」
汐乃がレジを締めながら言った。硬貨の重なる音が、雨音に混ざって短く鳴る。
心海は「はい」と答えそうになって、言葉が喉で止まった。傘立てを見た。見ても、そこに自分の傘はない。朝、玄関で見たはずの柄の色が、頭の中でだけ揺れている。
「……忘れました」
汐乃は帳面を閉じる手を止めずに言った。
「忘れたなら、取りに戻るか、買うか。濡れて風邪ひいたら、明日の仕込みが一人減る」
数字の話になると、心海は強く言い返せない。心海はエプロンを外し、畳んでロッカーに入れた。濡れた空気が背中に貼りつき、肩が前へ落ちそうになる。
「買います。コンビニで」
言いながら、財布の中を思い浮かべた。今日の売上の端数を握っているから、大丈夫。大丈夫、と頭で言った瞬間、口が勝手に「大丈夫」を作りそうになって、心海は奥歯を噛んだ。
裏口を出ると、雨が強くなっていた。商店街の床は、タイルの目地に水が溜まり、小さな川になっている。心海は軒下に体を寄せ、濡れない角度を探した。探すほど、誰かに見られている気がして、背中を丸めたくなる。
傘を買いに行くだけ。ほんの百メートル。そう思って一歩踏み出した瞬間、雨粒が頬に当たり、冷たさに肩がすくんだ。足元がつるりと滑り、心海は慌てて軒柱に指をついた。指先の木が濡れていて、余計に心細い。
「……最悪」
言葉が漏れたところで、道の向こうから足音が近づいた。走る音じゃない。急ぐ音でもない。濡れた地面を避けながら、一定の速さで来る音。
心海は顔を上げなかった。上げたら、頼りたくなる気がしたから。
雨音の中に、傘を開く音が重なる。ぱっと空気が変わる。
「ここ」
低い声。大智だった。
心海がやっと顔を上げると、大智は黒い傘を差したまま、軒下の端に立っていた。傘の先が心海の前で止まっているのに、体は近づいてこない。近づかない距離のまま、傘だけが差し出されている。
心海は息を一つ飲み込んだ。
「……先生、どうして」
大智は答えを急がない。
「体育館、片付け終わって。通ったら、シャッターが半分で……雨、強いから」
言い訳みたいに言わない。確認みたいに言う。心海は「大丈夫です」と言いかけた。言いかけて、今度は飲み込めた。
「借ります。借りるだけです」
借りるだけ、と言えば、自分が負けない気がした。
大智は「うん」とだけ頷き、傘の持ち手を心海の指先に近づけた。渡すのではなく、届く場所に置く。心海が自分で掴める距離。
心海が持ち手を握ると、大智の手はすぐ離れた。触れた時間は短いのに、手のひらが熱くなる。熱くなるのが恥ずかしくて、心海は目を逸らし、雨の向こうを見た。
「……先生は?」
心海が聞くと、大智は傘の骨を少しだけ持ち上げた。
「一緒に入る。嫌なら、言って」
嫌なら言って、と言われると、嫌だと言えない自分を知っているのに、今日は違った。心海は小さく首を振った。嫌じゃない、のほうへ。
傘の下に入ると、空気が急に狭くなる。狭いのに、息が詰まらない。雨音が布一枚で柔らかくなり、二人の足音だけがはっきりする。
歩き出す前に、心海は傘の端を自分の肩より少しだけ外へ寄せた。寄せると、自分の右肩に雨が当たる。濡れるのが分かっているのに、そうした。
大智がそれに気づき、声を落とした。
「濡れる」
心海は頑固に言った。
「借りてるので。先生が濡れたら、返せない」
返せない、の意味が自分でもよく分からなくて、心海の頬が熱くなる。大智は笑わずに、傘をほんの少しだけ心海側へ戻した。戻し方が強引じゃない。心海が拒める速さで、少しずつ。
そのとき、向こうの角から拍手が聞こえた。雨の中なのに、乾いた拍手。
「おおおー! 傘、共有! いいぞ先生!」
里希だった。大きな透明傘を差し、反対の手で拍手している。拍手するたび、傘が揺れて、雨が里希の肩に当たっている。
「見てない! 俺、何も見てない!」
言いながら、全身で見ている。心海の頬が一気に熱くなった。熱くなって、足元を見る余裕がなくなる。
「里希くん!」
声を出して追いかけようとした瞬間、心海の足がタイルの水溜まりを踏んだ。つるり。体が横に流れる。
「……っ」
声にならない息が出る。大智の傘が、すぐ心海側へ倒れた。傘の布が壁になり、心海の肩が雨から守られる。大智の手が心海の腕に触れる前に、声が落ちる。
「支える。いい?」
確認が、間に合う。心海は頷くより先に、体が傾くのを止めたい。頷きが遅れて、それでも頷けた。
大智の指が心海の肘の外側に、短く触れた。強く掴まない。倒れないだけの力。心海はもう片方の手で壁に触れ、足の裏で踏ん張った。
止まった。
心海は息を吐いた。吐いた息が、傘の内側に少しだけ曇りを作る。
「……すみません」
言った瞬間、里希が遠くで「わー! ごめん!」と叫び、逃げるように走り出した。拍手はもうしていない。逃げ足だけが早い。
那美子が、里希の後ろから追いかけるように歩いてきて、淡々と言った。
「雨の日に拍手をする人間は、滑る。統計」
里希が「統計って何!」と叫びながら、角を曲がって消える。
心海は、笑いそうになって、笑えなくて、喉がきゅっとなる。笑えないのは怖さが残っているからじゃない。恥ずかしさが胸の前を塞ぐから。
大智が、肘から手を離した。離すのが早い。触れたままにしない。
「痛いとこ、ない?」
心海は首を振った。今度は「大丈夫」を言わなかった。言わないまま、言えることを探す。
「……助かりました」
大智は、短く頷いた。
「うん。よかった」
その一言が、雨音より静かに胸に落ちた。心海は傘の柄を握り直す。握り直すと、手の中の熱が少し落ち着く。
コンビニの前まで来ると、店の明かりが雨粒を金色にした。心海は傘の外へ一歩出ようとして、止まった。
「……傘、返すの、いつがいいですか」
大智はすぐ答えない。少し考えるふりをしてから、言った。
「次の教室。……それか、店の前で」
店の前、と言われると、汐乃の顔が浮かぶ。汐乃はきっと、数字で何か言う。言うだろうけれど、言われてもいい気がした。心海は小さく頷いた。
「じゃあ……次の教室で」
言った瞬間、傘の内側の空気が少しだけ軽くなった。借りるだけ、と言ったのに、次ができたから。
大智はコンビニの入口で立ち止まり、傘を少しだけ後ろへ引いた。心海が濡れずに入れる角度を作る。心海はその角度に、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……先生」
呼ぶと、大智が目を向けた。目が真っ直ぐで、逃げ道がある。
心海は言葉を選び、選んだまま落とした。
「拍手、いらないです」
大智の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「うん。二人分で、十分」
雨はまだ降っている。けれど、心海の背中は、さっきより起きていた。
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