第12話 二十歳の名刺は、まだ薄い
六月のはじめ、午前九時すぎ。港町の市役所は、玄関の自動ドアが開くたびに雨上がりの匂いを吸い込み、床のタイルをつるりと光らせていた。案内板の矢印は親切なのに、どれも自分に向けられていない気がして、心海は書類を抱えたまま足を止めた。
腕の中の封筒は、菓子店の店主・汐乃が渡してきたものだ。六月十五日の日曜、港の朝市に出す焼き菓子の届け出。薄い紙が数枚、なのに重い。紙は軽いのに、失敗したら店の顔に泥を塗る気がするからだ。
心海は「生活衛生」の札を見つけ、番号札の機械の前に立った。画面には項目が並び、指が止まる。どれが正しいのか分からない。分からないのに、後ろに人が並んでいる。並ばれると、胸がきゅっと狭くなる。
「……大丈夫」
口の中だけで言って、押した。適当じゃない、つもりで。発券された紙には「D―42」と印字されていた。薄い紙が、今日の心海の名刺みたいだった。
待合椅子に座る。座ると、背中が丸くなりそうで、心海は膝の上の封筒をぎゅっと抱えた。抱えると余計に丸くなるのに、手が勝手にそうする。
番号表示が電子音で鳴り、「D―42」の文字が点った。心海は立ち上がり、窓口へ向かう。靴の音が自分だけ大きい。
担当者が、書類を受け取り、淡々と言った。
「ここの欄、店舗名と代表者名、あと、販売場所の地図が要ります」
地図。心海の頭の中が白くなる。地図なんて、聞いていない。聞いていない、と思った瞬間に、汐乃の顔が浮かぶ。「説明はした。覚えてないだけ」と言われそうな目。
心海は笑ってしまいそうになった。笑えば誤魔化せる。いつもみたいに「大丈夫」で終わる。終わらせたくないのに、終わらせる癖が先に走る。
「……地図、ですか」
声がかすれた。担当者は、責めるでもなく、紙の端を指で示した。
「この形式で。手書きでも構いません。朝市の区画番号が分かれば」
区画番号。さらに分からない。心海は封筒の中を急いで探った。紙ががさがさ鳴り、焦りが音になる。視界の端で、別の窓口に立つ女性が、すっとこちらに顔を向けた。
那美子だった。腕時計を見ながら、書類を一枚ずつ重ね、角を揃えている。揃え方が、財布の中の札と同じ。
那美子は担当者に向かって、必要最低限の声で言った。
「港の朝市の区画番号は、商工課の登録票に書いてあります。心海が持ってる封筒の、二枚目の右上」
心海は、はっとして二枚目をめくった。右上に、小さく「A―12」と書かれている。見えていたのに、見えていなかった。
担当者が頷く。
「はい、それです。地図は、ここに朝市の会場図を貼れば大丈夫です。商工課の窓口でコピーできますよ」
那美子が、即座に指を一本立てた。
「コピー一枚、十円。現金」
担当者が苦笑し、「そうですね」と返した。
心海は、頬の内側を噛んだ。助けられた。助けられた、と感じた瞬間、胸の奥がざらつく。自分の不注意を見せたみたいで、恥ずかしい。恥ずかしいのを隠すみたいに、顔がしかめ面になる。
那美子は心海の顔を見て、わずかに眉を動かした。
「顔、余計な筋肉を使ってる。疲れる」
その言い方が会計みたいで、心海は余計に悔しくなった。
「……分かってます。自分で、やります」
言いながら、声が尖る。尖った声が自分の耳に刺さって、さらに情けなくなる。
那美子は肩をすくめず、ただ一歩だけ引いた。引いても、その場から消えない。消えないけれど、手は出さない。
「自分で、やるなら、順番。商工課で図をもらう。次にコピー。最後に戻る」
順番、という言葉が、あの人の声と重なる。体育館で、いつも言われている言葉。
心海は封筒を抱え直し、商工課の矢印に向かった。廊下は長く、蛍光灯が白い。白い光が、心海の頭の中の白さを増やす。
商工課の窓口で会場図を受け取り、コピー機の前に立つ。財布を開く指が震えた。十円玉が見つからない。見つからないと、息が浅くなる。那美子の言った通り、余計な筋肉が顔に集まる。
そのとき、隣のコピー機から紙を受け取る手が見えた。男の手。指が長く、爪が短い。目線を上げる前に、声がした。
「十円、いる?」
大智だった。市役所の腕章をつけた職員じゃない。体育館で見慣れたパーカー姿のまま、書類の束を片手に持っている。用事があって来たのだろう。なのに、心海の十円玉の迷子に、すぐ気づいた。
心海は、反射で「大丈夫です」と言いかけて、喉の手前で止めた。止めたのに、目が泳ぐ。借りたら負け、という古い癖が、まだ足首を掴む。
大智は十円玉を差し出さなかった。差し出す代わりに、自分の掌の上に置いて見せた。取るか取らないかを、心海に渡す形。
「貸す。返す場所は、ここでいい」
大智がコピー機の横を指した。冗談みたいな言い方で、でも本気で、逃げ道を用意している。
心海は一呼吸置いて、十円玉を指でつまんだ。つまむとき、指先が大智の掌に触れないように、ほんの少しだけ慎重になった。触れないのに、熱い。
コピー機が動き、紙が出てくる音がやけに大きい。紙が出るまでの数秒で、心海の胸の中のざらつきが、少しだけ沈んだ。
必要な書類を揃えて、生活衛生の窓口へ戻る。担当者は、今度は迷いなく受け取り、受付印を押した。赤い印が紙に落ちる音が、妙に頼もしい。
「これで大丈夫です。朝市当日は、許可証を掲示してくださいね」
心海は深く頭を下げた。頭を下げたとき、背中が少しだけ起きている。起きた背中のまま、窓口を離れた。
廊下の角で、那美子が腕時計を見ていた。里希はいない。騒がしい声がないぶん、心海の心臓の音がよく聞こえる。
那美子は、受付印のある紙をちらりと見て言った。
「終わった。帰れる」
「……はい」
心海は言いながら、悔しさがまだ残っているのを感じた。自分でできたのに、最初につまずいた。助けを借りた。借りた分だけ、自分が薄い気がする。
その薄さを抱えたまま、出口へ向かうと、大智が少し後ろから追いついてきた。追いついてきても、隣には並ばない。歩幅だけを揃える。
市役所の自動ドアが開き、雨上がりの空気が流れ込んだ。
大智は、心海の手元の紙を見て、ただ一言だけ言った。
「やり切ったね」
心海は立ち止まり、紙を見た。D―42の番号札はもう捨てた。けれど、受付印のある紙が手に残っている。薄い紙。二十歳の名刺みたいな紙。
「……薄いです。まだ」
心海がそう言うと、大智は首を振った。
「薄くても、今日のは、ちゃんと心海の名前で通った」
その言い方が、胸の奥にすっと入ってきた。助けられた悔しさが、少しだけ別の形に変わる。悔しいのに、嬉しい。
心海は、大智に十円玉を返した。返すとき、指が大智の掌にほんの少しだけ触れた。触れた瞬間、心海の喉の奥が熱く鳴った。
「……ありがとうございました」
言えた。短い言葉。けれど、自分の口から出た。
大智は、笑い声を立てずに口元だけ動かした。
「どういたしまして。次は、十円いらない方法も考えよう」
那美子が、背後から淡々と割り込む。
「十円を浮かせるより、先に小銭入れを持つ」
心海は思わず笑ってしまった。笑ったら、頬の筋肉がほどける。ほどけた頬のまま、心海は雨上がりの道へ出た。
薄い名刺でも、今日は折れなかった。
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