第11話 甘い吐息、運動のあと
五月の終わり、午後八時すぎ。商店街を抜けた先の海沿いの遊歩道は、昼の熱をまだコンクリートに残したまま、潮風だけが冷たく指先を撫でた。街灯は一定の間隔で並び、光の丸が、歩くたび足元から足元へ移っていく。
心海は、白い缶を片手に持ったまま、歩き出す場所を探していた。缶はまだ温かい。さっき店の前で飲んだ甘さが、舌の奥に残っている。残っているのに、胸の奥の重さは少し軽くなって、今なら背中を起こせる気がした。
「……ここなら、誰も見てない」
そう言いながら、見ていないことを確認している自分がいた。海を見に来たふりをして、姿勢を正す練習をする。誰にも頼らないで、誰にも笑われないで、ちゃんと歩くために。
心海は肩を後ろへ引こうとして、すぐにやめた。引きすぎると胸が張って苦しい。苦しいと息が浅くなる。浅くなると、さっきまで隠れていた「大丈夫」が喉の手前に浮く。
深く吸って、長く吐く。大智が教室で言った通りに。息を吐くと、夜風が口元を冷やし、甘い息が自分でも分かるくらいに白く感じた。白くはならないのに、白い気がする。
歩き出す。三歩、四歩。背中を起こしているはずなのに、足が前へ出ない。胸の前で腕を寄せる癖が戻りそうになり、心海は缶を持つ手をわざと前へ出した。前へ出すと、腕の重さで肩が落ちる。落ちた瞬間、また姿勢が崩れる。
「……難しい」
声が漏れたとき、後ろで足音が一つ、同じテンポで鳴った。
心海は振り向かなかった。振り向いたら、全部が「見られた」になってしまうから。見られた途端、体が固まるのを知っている。
「寒くない?」
低い声が、風に乗って届いた。聞き覚えがありすぎて、心海の背中が一瞬だけ硬くなる。
大智だった。仕事帰りのジャージの上に薄い上着。走ってきたのか、前髪が少し乱れている。けれど距離は、ちゃんと離れている。声が届くぎりぎりの位置。
心海は、缶を握り直した。温かさが指先に残っている。残っているのに、心臓だけが早い。
「……寒くないです。散歩です」
散歩、と言うと嘘が混じる気がして、心海はすぐに付け足した。
「歩く練習、してます」
言ってしまった。言った瞬間、恥ずかしさが首筋へ上がる。けれど、大智は笑わなかった。口角を上げずに、ただ頷いた。
「うん。じゃあ、歩幅、合わせる」
合わせる、と言われたのに、押しつけられる感じがしない。大智は心海の隣へ来ない。隣へ来る代わりに、半歩後ろの斜めに立ち、歩き出すタイミングだけを揃えた。
「急がなくていい。呼吸が先」
心海は、頷いた。頷いたら負けみたいな気持ちが一瞬だけ顔を出して、すぐ消えた。消えたのは、言葉が優しいからじゃない。言葉が具体的で、逃げ道があるからだ。
心海は、缶を持つ手を胸の高さで安定させた。肩甲骨を背中の奥へ置くようにして、足の裏で地面を押す。押したら、歩幅が少しだけ伸びた。
「いま、いい」
大智が、短く言った。褒めるというより、確認。心海はその「確認」に、胸が熱くなるのを感じた。熱くなると、息がまた上がる。
「……あ、だめ。息、上がる」
心海が言うと、大智はすぐに速度を落とした。落とし方が急じゃない。心海の足が追い越さない程度に、ふっと緩める。
「上がったら、止まっていい。止まるの、負けじゃない」
同じ言葉を、同じ声で言われると、今度は刺さらなかった。刺さらない代わりに、胸の奥がほどける。
心海は立ち止まり、背中を街灯の柱に軽く預けた。預けると、柱が冷たくて、冷たさが心地よい。
「……今日、店で」
言いかけて、言葉が詰まる。試食会で笑われたこと。悔しくて泣いたこと。泣いたのに、缶をもらってしまったこと。握った手が震えたこと。
大智は、先を促さない。促さずに、缶の白さだけを見た。
「甘い匂い、する」
心海は、驚いて自分の息を吐いてみた。たしかに甘い。甘いのは缶の中身だけじゃない。泣いたあとに残った砂糖の味が、まだ唇にいる。
「……笑われました。新作、子ども向けって」
言った瞬間、悔しさが戻ってくる。戻ってくると目の奥が痛い。心海は目を逸らし、海の方を見た。波の音が、細かく足元まで届く。
大智は、少しだけ眉を上げた。
「子ども向け、悪い?」
問いかけは軽いのに、答える場所がちゃんとある。
心海は、すぐに「悪くない」と言えなかった。悪くないと言えば、笑われた自分を許すことになる。許すのが怖かった。
そのとき、背後から妙に元気な声が飛んだ。
「先生ー! やっぱりここだった!」
里希が、夜の遊歩道を走ってきた。手にはコンビニ袋。袋の中で、氷ががさがさ鳴る。那美子も一緒で、腕時計を見ながら歩いている。
里希が心海を見つけて、すぐ止まった。
「心海さん! 夜に一人は危ないって! 俺が守る!」
那美子が、即座に言う。
「危ないのは、里希の声量。近所迷惑」
里希が「ひどい!」と胸を押さえる。夜の遊歩道に似合わない芝居で、心海の口元が勝手に緩んだ。緩んだ自分に気づいて、また恥ずかしくなる。
大智は二人に視線を向けて、事情を察したように軽く息を吐いた。
「来たの、どうして」
里希が袋を掲げた。
「俺の勘! 先生が帰り道で見守るって言ってたから、俺も見守る! あと、氷。店主さんが『湿布代より安い』って」
那美子が、袋の中から小さな保冷剤を取り出し、値札を剥がしながら言った。
「二個で百円。腰を冷やすより、ほっぺを冷やすほうが、泣いたあとには効く」
心海は、言葉の意味を理解する前に、保冷剤の冷たさを頬に当てられた。那美子の手は短く、迷いがない。冷たさが頬から目の奥へ届き、痛みがふっと引く。
「……冷たい」
心海が言うと、那美子は真顔のまま答えた。
「冷たいのは、泣いた証拠。泣いてない人は、冷やす場所がない」
里希が「名言っぽ!」と騒ぐ。大智が小さく笑って、すぐに口を閉じた。笑うときも、音を大きくしない。
心海は保冷剤を頬に当てたまま、息を吐いた。吐息が甘いままでも、恥ずかしくない気がした。さっきまで、甘い息が自分の弱さみたいだったのに、今は、ただの匂いだ。
「子ども向け、悪くない」
心海が小さく言うと、里希がすかさず乗る。
「悪くないどころか最強! 小学生は正義! 俺、買う!」
那美子が目を細める。
「里希が買うのは、在庫の圧縮。店の利益にはなる」
里希が「やった!」と勝手に喜び、また声が大きくなる。大智が手を上げて、里希の声量を下げる合図をする。里希が慌てて口を押さえ、肩をすくめた。
心海は、そのやり取りを見て、胸の奥がふっと温かくなるのを感じた。温かさが来ると、涙が出そうになる。でも今日は、涙の前に息を吸えた。
「……もう少し、歩きます」
心海が言うと、大智は頷いた。
「うん。四人で。歩幅は、心海に合わせる」
その言い方に、心海の喉の奥がきゅっと鳴った。合わせる、が、押しつけじゃない。自分が中心に置かれるのが怖いのに、今日は逃げなかった。
四人で歩き出す。里希が先に行きそうになるたび、那美子が袖を引いて戻す。大智は心海の斜め後ろで、呼吸の音が乱れたらすぐ分かる位置にいる。心海は、甘い吐息を夜風に混ぜながら、足の裏で地面を押した。
街灯の丸い光が、足元から足元へ移っていく。移っていくたびに、心海の背中がほんの少しずつ起きていく気がした。
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