第10話 笑われた後の、悔し涙
五月の終わり、午後七時。商店街の灯りが一つずつ点き始め、港から吹く風が、昼の湿気を少しだけ押し流していた。菓子店の奥の小さな作業台には、白い皿がずらりと並び、そこに小さな切れ端の菓子が置かれている。苺、レモン、あんこ、薄い塩の粒。甘い匂いの下に、粉と潮が混ざる。
汐乃が、腕時計を見てから言った。
「閉店後、十五分だけ。夏の新作、決める。食べたら、言う。言ったら、次」
言い方が完全に段取りで、誰も逆らえない。里希はなぜか紙皿を二枚持って、やたら張り切っている。那美子は電卓アプリを開いたまま、材料のメモを見返していた。試す前から、頭の中で数字が動いているらしい。
心海は、皿の端に置いた自分の試作品を見た。透明なゼリーの中に、白い小さな球を浮かべ、上に砕いたラムネをほんの少し。港の夜の灯りみたいに見える、と自分では思った。けれど、そういう感想は口にすると浮く気がして、言えないまま、指先をエプロンで拭いた。
最初は汐乃の定番案。上品な抹茶のムース。皆が頷く。次は那美子が選んだ材料の安い組み合わせ。汐乃が「いい」と言い、那美子は頷きも笑いもしない。里希が「さすが節約の女神」と言いかけて、那美子に視線だけで止められる。
そして、心海の皿の番が来た。
汐乃がスプーンで一口すくい、舌の上で転がしてから、ほんの少し眉を上げた。
「色は、面白い。……味は、どう思う?」
問われた瞬間、心海の喉が乾いた。自分の答えで、皿の行き先が決まる。それなのに、答える声が出ない。出ないのに、出す顔だけは作ってしまう。
「さっぱり、してます。……夏、なので」
里希が勢いよく食べた。目を丸くして、口を開く。
「うわ、これ、駄菓子っぽい! 俺、好き! 小学生、絶対買う!」
褒めているのに、胸がちくりとした。小学生。子ども。自分が怖がっている言葉に、里希は悪気なく手を伸ばす。
その横で、納品に来ていた問屋の若い男が、笑うように言った。
「子どもっぽいっすね。かわいいけど、今どきはもっと“大人向け”が売れますよ」
軽い笑いが、作業台の上を滑った。里希が「えー」と言いかけ、汐乃が指先で止めた。那美子は電卓を閉じて、皿の上だけを見ている。誰も心海を責めていないのに、心海の肩だけが勝手に縮む。
心海は口角を上げた。上げる癖が先に働く。
「そう、ですよね。私も、そう思います」
自分の声が、驚くほど軽かった。軽い声が出た瞬間、胸の奥に重いものが落ちる。落ちたのに、拾えない。
汐乃が手短にまとめる。
「よし。次。心海ちゃんのは、あとで調整できる。今は、候補に残しとく」
残す、という言葉に救われたはずなのに、救われる前に、心海は立ち上がっていた。
「お皿、洗ってきます」
誰も止めない。止められたら、崩れるから。心海は流し台のある裏へ回り、蛇口をひねった。水の音が大きくなると、ようやく顔がゆるむ。ゆるんだ瞬間、目の奥が熱くなった。
「大丈夫」
口の中だけで言った。言っても、涙が出た。手の甲で拭くと、水と混ざって、どこまでが涙か分からなくなる。分からなくなるのに、喉の詰まりだけは分かる。
背中を丸めたくなった。丸めたら楽で、楽だと悔しい。悔しさが、もう一粒、涙を落とす。
裏口の外から、コトン、と金属が触れる音がした。自販機の取り出し口が開いた音。続いて、缶を二本持った足音が近づく。心海は慌てて顔を上げ、蛇口を閉めた。水音が止まると、静けさが刺さる。
大智の声が、扉の向こうからした。
「外、出られる?」
問いかけが、強くない。心海は返事をせずに、エプロンで頬を拭いた。拭っても、目の赤さは消えない。それでも、扉を開けた。
裏口の外は、夜の風が少し冷たかった。大智は街灯の下に立ち、缶を一本、手のひらで温めていた。自分の体温で温めたみたいに、ゆっくり。
「これ」
缶のお茶が差し出される。距離は近すぎない。受け取れるけれど、避けられる距離。
心海は一瞬だけ迷った。受け取ったら、頼ったことになる。頼ったら、負けになる。そう思う癖が、喉の奥で暴れる。
でも、缶の表面が湯気みたいに光って見えた。温かいものが、いま欲しいと体が先に言った。
心海は、手を伸ばしてしまった。
指先が缶に触れた瞬間、握った手が震えた。震えが止まらないのが恥ずかしくて、心海は笑うふりをした。
「……暑いのに、温かいんですね」
大智は笑わないで、目だけを少し細くした。
「冷たいのも買った。でも、いまの君、手が冷たかった」
言い当てられると、胸が痛い。痛いのに、責められていない。大智は「泣いた?」とも「何があった?」とも言わない。言わない代わりに、風の当たらない場所へ一歩だけ移動し、心海が並んでも並ばなくてもいい位置に立った。
心海は缶を握った。温かさが、指先から腕へ上がってくる。上がってきて、涙の熱と混ざる。混ざると、なぜか呼吸が少しだけ楽になる。
「……子どもっぽい、って」
心海は、自分でも驚くほど小さな声で言った。言ってしまってから、慌てて付け足す。
「違うんです。私、別に。そういうの、気にしてないので」
口から出るのは、また「大丈夫」の形。形だけが上手いのが悔しい。
大智は、缶の残り一本を自分で持ったまま、少しだけ首を傾げた。
「子どもが喜ぶ味って、悪いことじゃない。大人だって、たまに欲しい」
心海は缶のプルタブに爪をかけた。開ける音が小さく鳴る。香ばしい匂いが立って、鼻の奥がまた熱くなった。
里希の声が、店の中から聞こえる。
「先生ー! 外にいるなら、俺にもなんか買ってきてー!」
那美子の声が続く。
「里希は水でいい。無料の水」
笑い声が混じる。店の中はいつもの調子だ。心海はその調子に戻りたいのに、戻る前に、涙がまた一滴こぼれた。こぼれて缶に落ちると、缶の表面で丸く広がった。
心海は急いで拭こうとして、手が震えているのに気づき、さらに悔しくなった。
「……私、変ですよね」
大智は否定しない。「変じゃない」と言うと、心海がまた受け流してしまうと分かっているみたいに。
「変、かどうかは分からない。でも、いま、君の背中が丸い。……今日だけ、少し起こそう」
大智は自分の背中を軽く叩き、動きを見せた。触れない。言葉と動きだけ。
心海は缶を胸の前で抱えたまま、真似をした。肩が少しだけ後ろに引ける。引けた瞬間、胸の中の空気が広がり、涙の詰まりが少しほどけた。
「……ありがとうございます」
言った途端、声がかすれた。かすれた声のせいで、もう笑うふりができない。
大智は、缶を持つ自分の手を見た。
「礼を言うなら、味の話も。俺、さっきの、好きだった」
心海は顔を上げた。大智の目は、まっすぐでも押しつけでもなく、ただ、そこにある。心海の胸の奥が、温かい缶より先に熱くなる。
「……じゃあ、次は。子どもっぽい、じゃなくて」
言いかけて、言葉が途切れた。代わりに、缶をもう一度握り直す。震えはまだ残っている。けれど、震えの中に、戻りたい場所ができた。
店の中から、汐乃が呼ぶ声がした。
「心海ちゃん。戻るぞ。次の皿、出す」
心海は缶のお茶を一口飲んだ。温かい液体が喉を通り、胸の奥へ落ちる。落ちて、悔し涙の塩気を、少しだけ押し流した。
「……行きます」
心海は大智の横を通り、裏口へ戻った。戻る背中はまだ小さい。でも、さっきより少しだけ起きている。大智はその背中を見送り、缶の冷めかけた方を自分で飲んだ。
甘い匂いのする夜風の中で、温かさがゆっくり広がっていくのを感じながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます