第9話 しつこい里希の、正しい勘

 五月の半ば、夕方。港町の市民体育館は、窓を開けても湿り気が抜けず、鏡の前のマットがほんのり温い。姿勢教室が終わって、参加者が靴を履く音が一斉に鳴り、潮の匂いと汗の匂いが混ざっていった。


 心海は最後列で、靴紐を結ぶ指をゆっくり動かしていた。結び目がうまく締まらず、何度も同じところを引く。指先だけが先に疲れて、肩がまた前に落ちそうになる。


 「大丈夫」


 声に出してはいない。けれど、唇の形だけが勝手にそう動いて、心海は自分の癖に腹が立った。癖に腹が立つと、余計に息が浅くなる。


 大智は、参加者のさよならが落ち着くのを待ってから、受付の鍵を回していた。鍵の回る音は小さく、けれど規則正しい。その規則正しさが、体育館の空気を少しだけ整える。


 そこへ、里希がずかずか来た。いつもの軽い歩き方じゃない。さっきまで「先生、今日も背中が美しい!」とふざけていた口が、いまは閉じている。


 「先生、ちょっと」


 里希が言うと、大智は鍵から手を離し、里希の顔を見た。見て、すぐに目線を逸らさない。逸らさない代わりに、声を低くした。


 「どうした?」


 里希は胸の前で一度だけ拳を握り、ほどいた。


 「……あの子。無理してる」


 あの子、の指す先を言わなくても、大智の目が鏡の奥を一瞬で探した。心海は背中を向けて、靴紐を結び直している。結び直しているのに、肩の位置が少しだけ不自然だった。


 「見た?」


 大智が短く聞くと、里希は頷いた。頷き方が、いつもの大げさじゃない。


 「さっき、壁のとこ。立った瞬間、ふらって。俺、笑って誤魔化したけど、笑う前の顔が……」


 里希が言葉を探し、鼻の頭をこすった。


 「俺さ、何回も聞くって言われるけど。何回も聞く分、見てるんだよ。あの子、笑うとき、目が笑ってないときある」


 大智は「うん」とだけ返した。否定しない。褒めもしない。里希が言い切れる場所だけを空ける。


 その隣で、財布を閉じる音がした。那美子が、いつの間にか受付の横に立っていた。買った水のレシートを、きっちり二つ折りにしている。


 「無理してる、は、言い方が曖昧」


 那美子は真顔で言う。曖昧、という言葉が鋭くて、里希が肩をすくめた。


 「じゃあ、那美子さんが言ってよ」


 那美子はレシートを財布にしまってから、鏡の奥を見た。


 「息が浅い。肩が上がってる。靴紐を結ぶのに時間がかかる。帰り道、段差でつまずいた。……疲労」


 最後だけ、会計みたいに短い。


 里希が「それ」と指を鳴らした。


 「そう! それ! 俺が言いたいの、それ!」


 那美子は動じない。


 「言いたいなら、最初からそう言う」


 里希が口を尖らせる。けれど、その尖り方に余裕がないのが分かった。心海の背中が、里希にとっても目に入っている。


 大智は受付のカウンターの角に指を置き、ゆっくり息を吐いた。


 「ありがとう。二人とも」


 言い切ってから、大智は視線を落とした。心海が「大丈夫」と言うときの声の軽さを、思い出す。軽い声の下にある重さを、見落としたくない。


 「でも、追いかけて声をかけると、あの子は……固まる」


 里希が即座に言う。


 「じゃあ、どうすんの。先生、放っとくタイプじゃないでしょ」


 那美子が、体育館の時刻表を見上げるみたいに言った。


 「放っとかないで、放っとく距離がある」


 里希が「なにそれ、むず」と眉を寄せる。


 大智は鍵をポケットに入れ、館内の灯りを落とし始めた。消える灯りは、順番がある。順番があるから、焦りが少しだけ抑えられる。


 「帰り道、合わせる。遠くから」


 里希が目を丸くした。


 「尾行?」


 「尾行じゃない。……見守り」


 言い直したのに、里希が笑いそうになって、急いで口を押さえた。


 「先生、それ、言い方がなんか……」


 那美子が、淡々と締める。


 「犯罪にならない距離で」


 大智は苦笑して、「そこ、大事」とだけ言った。


 心海が体育館を出るころ、外はまだ明るかった。港の方角に薄い雲が伸び、風が湿った髪を揺らす。心海はリュックの肩ひもを直し、背中を起こそうとして、起こしきれない。起こしきれないのに、歩く速度は落とさない。


 商店街の入口で、焼き鳥の煙が流れてきた。炭の匂いが鼻をつく。いつもなら少しだけ食欲が動くのに、今日は匂いが重い。重いのは胃じゃなく、胸の奥だ。


 心海は信号を渡り、港へ続く細い道に入った。人通りが減り、歩幅の音が自分のものだけになる。自分の靴の音が大きく聞こえると、心海は無意識に音を小さくしようとして、つま先に力を入れる。力を入れると、ふくらはぎがすぐ張る。


 その少し後ろ。大智は道路を一本挟んで、同じ速度で歩いた。距離は遠い。声は届かない。視線だけが届く。届きすぎないように、視線も、時々外す。


 心海が角を曲がったとき、体がほんの少し揺れた。揺れを戻すまでが長い。大智は足を止め、そこから動かない。近づかない。近づけば、心海はきっと背中を固める。


 心海は、誰もいない駐輪場の脇で立ち止まった。しゃがみ込む。靴紐がほどけている。ほどけていないのに、ほどけたことにするみたいに、結び目に指をかける。しゃがんだ瞬間、胸の奥の熱が上がってきた。


 「……大丈夫」


 今度は声に出た。声に出たことに、自分で驚く。驚くと、笑いが漏れそうになって、笑いが喉で詰まる。


 靴紐を結び直しながら、心海は息を吐いた。吐いた息が白くならない季節なのに、吐いた息が熱い。熱い息のせいで、目の奥が少しだけ痛い。


 誰にも見られていないはずの場所で、心海は背中を丸めた。丸めると楽で、楽だと悔しい。悔しいと、また「大丈夫」を言いたくなる。


 そのとき、道路の向こうに立つ影に気づいた気がした。影は街灯の柱と重なっていて、誰かの形かどうか分からない。心海は顔を上げない。上げたら、何かが変わってしまう気がしたから。


 結び目をぎゅっと締める。指先が少しだけ痛い。その痛みが、今日一日の中でいちばん確かだった。


 心海は立ち上がった。立ち上がる前に、胸の奥の熱を、ひと息で飲み込んだ。


 歩き出す背中を見ながら、大智は自分の手のひらを見た。今日は、触れない手。触れずに守る手。


 「……明日、ちゃんと聞こう」


 声に出さずに、口の中だけで言う。言ってから、大智は歩き出した。心海の背中から、さらに少し距離を取って。


 心海は、誰にも気づかれない場所で靴紐を結び直したはずなのに、胸の奥が熱いままだった。熱さの正体が、湿気じゃないことだけは、分かった。


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