第8話 姿勢と、目線と
五月のはじめ、土曜の朝。雨上がりの港町は、舗道の水たまりが空を二重に映し、商店街の店先では新聞紙が濡れた傘を受け止めていた。市民体育館へ向かう道で、心海は歩幅を小さくしながら背中を起こす。腰はもう痛くない。痛くないのに、体は覚えていて、怖さだけが先に来る。
受付の前には、いつもの「姿勢教室」の紙が貼られていた。その横に、別の紙が一枚増えている。「鏡の前 目線の練習」。文字だけなのに、胸の奥がかすかに熱くなる。目線。上げる。簡単な動作のはずなのに、心海にとっては坂道みたいだった。
「おはよう、心海さん」
大智は先に来ていた。ジャージの袖をまくり、床のマットを整えている。気づくと、手を止めて、心海の靴袋を受け取る動きに切り替えた。先に「見て」から、次に「する」。順番がきれいで、心海の呼吸が合わせやすい。
「おはようございます」
心海は返しながら、目を合わせる場所を探した。合わせると逃げたくなる。逃げたくなると、「大丈夫」を言って終わらせたくなる。
小ホールの鏡は、雨の日の湿気で少し曇っていた。大智は手のひらで鏡の端をこすり、円を描くように曇りを拭った。曇りが取れて、心海の姿がくっきり映る。背中の丸みも、首の傾きも、全部見える。
「今日は二回目。前より難しくしない。目線だけ、少し上げる」
大智は鏡の前に立ち、まず自分でやってみせた。背中を起こし、顎を引きすぎず、目だけを少し遠くへ置く。変に格好つけない、生活の中でできる形。
「鏡の中の自分の、目を見る」
言われた瞬間、心海の心臓が一度だけ早く打った。鏡を見るのは嫌いじゃない。けれど、自分の目に向き合うのは、急に怖い。
「いきなり長く見なくていい。五秒だけ」
五秒。その数字が、心海の胸を少しだけ軽くした。前に母の日の前日、五秒を大事にした話が、体に残っている。
「……五秒なら」
心海は鏡の前へ立った。立ったまま、目線が勝手に床へ落ちる。床の青いマットに目が吸い込まれていく。大智はすぐには何も言わない。ただ、心海の呼吸が止まりかけたタイミングで、短く声を置いた。
「息、吐いて」
心海は息を吐いた。吐いたら、胸のあたりの固さが少しだけゆるむ。目線がほんの少しだけ上がる。鏡の中に、見慣れた顔が現れた。見慣れているのに、どこか他人みたいな顔。
「いま、目を合わせた。できてる」
褒める声の温度が、ちょうどいい。熱すぎない。冷たすぎない。心海は、五秒を数えようとして、二秒で目が逸れた。
「……無理です」
言ってしまってから、舌の上で言葉がざらつく。無理、と言う自分が、急に弱い気がした。
大智は否定しなかった。鏡の横に立ち、指で曇りが残った部分を示すだけ。
「無理じゃない。二秒できた。次は二秒のまま、息だけ止めない」
心海は、二秒のまま、もう一度やってみた。目を合わせ、息を吐き、逸らす。たったそれだけで、頬が熱くなる。
「うわ、先生、めっちゃ優しい言い方する」
背後から声がして、心海は肩をすくめた。里希がドアの隙間から顔を出している。体育館の廊下に響くような声なのに、ここではわざと小声にしているのが、少しだけ可笑しい。
「個人の時間に割り込むなら、料金表がいる」
那美子の声も続いた。いつの間にか廊下にいて、腕時計を見ながら、まっすぐな顔で言う。
里希がすぐに返す。
「じゃあ俺、見学料払うから。心海さんが目線上げたら、俺が拍手する」
「拍手は無料。騒音は迷惑」
那美子の返しに、里希が「こわ」と笑う。大智も笑いそうになって、でも一拍置いてから口元だけ緩めた。
「二人とも、ここは今日は見学だけ。声は一回まで」
言い方が柔らかいのに、線引きがはっきりしている。里希は「はいはーい」と手を上げ、那美子は財布をしまって頷いた。二人がその場から離れると、空気がまた静かになる。
心海は、さっきより肩が少しだけ軽くなった。笑いが怖さを薄くする。薄くなったところに、大智の声が入る。
「じゃあ、二秒を三回。終わったら、水飲もう」
やることが具体的で、逃げ道がある。心海は頷き、鏡の中の自分の目を二秒だけ見た。二秒を三回。終わったら、息がちゃんと戻っていた。
「できた。今日の分、合格」
大智はそう言って、ペットボトルを差し出した。差し出すのではなく、机の上に置く。心海が自分で取れる距離。
心海は水を飲み、喉の奥の乾きがほどけるのを感じた。そのほどけ方が、少しだけ嬉しい。
昼過ぎ。菓子店の裏口では、焼きたての香りが通りへ漏れていた。苺はもう終わりかけで、代わりに「瀬戸内レモンのクリーム」を使った新しい菓子の試作が始まっている。汐乃が手帳を開き、数字を指で叩いた。
「新商品、来週の火曜に出す。今日と明日で味を決める。ポスターも間に合わせる。寝不足で顔色悪いと、客は買わん」
寝不足、という言葉に、心海は内心で小さく肩をすくめた。昨夜も試作の配合をノートに書き直し、気づけば午前二時だった。眠いのに、眠ると負ける気がした。休んだら、何かが途切れる気がした。
大智が店に来たのは、閉店の少し前だった。手には小さな紙袋。売り場ではなく、裏口からそっと入ってきて、汐乃に会釈をした。
「心海さん、今日、目の下が青い」
鏡で見た自分の目線より、ずっと正確に当てられて、心海は笑ってしまう。笑うと、余計に眠さがばれる。
「大丈夫です。寝たら、負けなので」
言った瞬間、汐乃が手帳を閉じた。
「勝ち負けは売上で決まる。寝ないで失敗したら、負け確定」
理屈が鋭い。心海は言い返せず、泡立て器を握り直した。握り直す手が、ほんの少し赤い。洗い物と熱い鉄板で、指先が荒れていた。
大智はその赤さを見て、眉が動いた。動いたけれど、声を荒げない。
「休もう。今日は、仕込みは俺が手伝う。汐乃さん、十 分だけでも」
汐乃は即答する。
「店の手伝いは歓迎。でも心海ちゃんは今日は抜けるな。手が覚える前に休むと、怖くなる」
怖くなる。言葉が、心海の胸に刺さる。怖くなるから、休めない。休めないから、もっと怖くなる。
心海は、泡立て器を動かしながら言った。
「泣いてもいいから、止めません」
汐乃がふっと鼻で笑い、背中越しに言う。
「泣くなら手を止めるな」
言い方はきついのに、なぜか支えになる。心海の目が熱くなって、視界が揺れた。涙が落ちそうになっても、手は動かした。生地の音が、ボウルの内側で一定のリズムを刻む。
そのとき、大智がそっと近づいた。泡立て器には触れない。ボウルにも触れない。ただ、心海の手首の位置を空中で示して、ゆっくりと言う。
「手、力入りすぎ。ここ、少し抜く。そうすると、赤くならない」
心海は涙を瞬きで押し戻し、言われた通りに力を抜いた。抜いた瞬間、腕が軽くなって、息が戻る。息が戻ると、泣きそうになる。泣きそうになるのに、止まらない。
閉店後。シャッターの音が商店街に落ちるころ、心海は一人で倉庫に残っていた。汐乃はレジ締めに戻り、里希は「明日も来る」と言い残して帰った。那美子は材料費の計算を汐乃に渡して、すっと姿を消した。
倉庫の机の上に、いつの間にか小さな鍋が置かれていた。ふたの隙間から、味噌の香りがする。横には、折りたたまれたメモ。
『勝ち負けじゃなくて、明日も動けるか。食べて、五分だけ横になって。大智』
文字が、体育館のメモと同じ癖で書かれている。短いのに、逃げ道がある言い方。心海は鍋のふたに触れ、指先に残るぬくもりに息を止めた。止めて、吐いた。
空っぽの倉庫で、鍋の匂いだけが自分を包む。心海は、今日一日我慢していたものが喉まで上がってきて、慌てて口を押さえた。押さえた指の間から、涙がひとつ落ちた。
泣いているのに、手は止めなくていい。けれど、いまは手を止めてもいい気がした。鍋を温め直すために、ガス台へ歩く。その歩幅が、小さくても確かだった。
鍋が温まる音を聞きながら、心海は鏡の中の自分の目を思い出した。二秒。三回。今日の自分は、ちゃんと見た。
「……明日も、行きます」
心海はそう呟き、味噌汁をよそった。湯気が目にしみて、また涙が出た。涙は拭った。拭ったあと、箸を持った。頼るのは負けじゃない、と、やっと自分で言えた気がした。
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