第7話 節約デート案、即却下
五月の第二日曜の前日、土曜の午後。商店街は、いつもより花の匂いが濃かった。花屋の店先に並ぶ赤いカーネーションが、風に揺れて小さく擦れ、紙の音がする。菓子店のガラス越しには、苺のショートと、丸いチョコのケーキに「ありがとう」の札が立っていた。
那美子がレジ横のメモ帳を指で叩いた。紙には「二人で外食→高い」「公園で菓子→安い」「交通費→ゼロがいい」と、端数まで書いてある。
「節約デート案」
那美子が抑揚のない声で読み上げると、里希が満足げに頷いた。
「ほらな、これなら先生も心海も負担ねぇし――」
「却下」
返事は、心海だった。台車の取っ手を握ったまま、顔を上げる。
「私、外で『節約』って言われたら、今の自分が値札みたいに感じます」
言い終えてから、自分で少し驚いた。言えた。言えたことが、胸の奥を温める。
那美子は瞬きひとつせずに頷いた。
「了解。節約は家計。デートは気持ち」
心海は裏口で、台車の取っ手を握っていた。銀色の取っ手はひんやりして、指先が落ち着く。棚の一番下に残った小麦粉の袋を、腰を曲げずに引き寄せる。先週の「壁に背をつけて呼吸を三回」が、思い出せるくらいには、腰の奥の重さが引いていた。
「心海ちゃん、段ボールも。今日は箱が足りん」
汐乃が、伝票を片手に裏の通路を横切りながら言った。言い終わる前にレジへ戻る。背中が迷わない。迷わない背中を見ると、心海は少しだけ背筋を伸ばせる。
「はい。すぐ」
台車の上に袋と箱を載せると、音がひとつだけ乾いた。乾いた音が、心海の胸の中の「自分でやる」に似ている。けれど今日は、無理に鳴らさなくていい。
表のドアベルが鳴る。高い音が甘い空気の中で跳ねた。里希の声が続けて飛ぶ。
「母の日ってさ、結局、ケーキだよね! 花よりケーキ!」
「花は枯れる。ケーキは腹に残る」
那美子の声が、レジの横から平然と返す。計算機を叩く指の速さが、いつもより速い。
里希が、カーネーションの束を持って来て、レジ前で胸を張った。
「見て! 俺、ちゃんと花も買った! 母、泣く!」
那美子は値札を見て、眉ひとつ動かさず言った。
「三本束は単価が高い。二本と一輪を別で買うと安い。束ね方で感動が変わらないなら、そっち」
里希が固まる。
「感動、束ね方で変わらんって言い切った! 怖い!」
汐乃が、奥から短く言う。
「怖いのは売上が落ちること。里希、喋るなら箱詰め手伝え」
「はい!」
里希は返事だけは早い。心海は台車を押しながら、その「はい」が羨ましいと思った。返事の勢いで、体が動ける感じ。心海の返事は、いつも一拍遅れる。
裏の通路に、歩き慣れた足音が来た。大智が、入口で傘立てを見て、首をかしげている。外は晴れているのに、傘立てを見る癖があるのかもしれない。
「こんにちは。予約、してないけど……小さいの、あります?」
声が、いつもの体育館より少し低い。客としての声。けれど目は、店内の甘さより先に、心海の手元と腰の位置を見た。
心海は台車を押したまま、足を止めた。止めると、取っ手が指に食い込んで、現実に戻る。
「あります。えっと……」
言葉が、喉で引っかかる。案内しようとして、手が空かない。空かないのに、空いているふりをしそうになる。いつもの癖。
大智が、一歩だけ横にずれた。台車の通り道を作る動きが、自然だった。
「通るよ。ぶつからないように、ゆっくりでいい」
心海は頷いて、台車を押した。押しながら、胸の奥で小さく笑ってしまう。「ゆっくりでいい」を、こんなところでも言われるとは思わなかった。
ショーケースの前で、心海は台車を止め、手を離した。腰が、勝手に前へ倒れない。倒れないことが、少しだけ誇らしい。
「母の日、ですか」
自分から話しかけたことに、心海が一番驚いた。
大智はショーケースの中を見ながら、少しだけ目を伏せた。
「うん。……毎年、迷う。何を渡せばいいか」
迷うと言う声が、妙に正直だった。心海は、その正直さに、言葉を置く場所を見つけた。
「じゃあ……ケーキに、短い札を付けます? 『いつもありがとう』とか」
「短い札、いいね」
大智が頷くと、那美子が背後から混ざってきた。混ざり方が、会計のそれだ。
「札は無料。字を書くのも無料。ただし、心が伴わないと返品不可」
里希が笑いながら、箱を抱えて寄ってくる。
「返品って! 母の愛を返品できたら大ニュース!」
汐乃が奥から言う。
「ニュースいらん。手を動かせ」
店内が笑いでふわっと軽くなる。その軽さの中で、心海は、大智の横顔を見た。笑っていない。けれど、口元が少しだけ緩んでいる。
大智はケーキを決めて、心海の方へ向き直った。
「札、心海さんが書く?」
心海は反射で「大丈夫です」と言いかけて、口の中で止めた。止めたところで、五秒だけ息を吐く。吐いた息が、甘い匂いに混ざる。
「……書きます。字、下手じゃないので」
言い切ると、里希が拍手しそうになって手を止める。
「いま、心海さんが自分で言った! 大丈夫じゃなくて、言った!」
那美子が淡々と返す。
「拍手は酸素を消費する。箱詰めを先に」
心海は笑って、札にペンを走らせた。紙がすべる音が、今日は怖くない。書き終えると、指先が少しだけ温かい。
会計が終わり、大智が箱を受け取るとき、心海は思い出したように言った。
「この箱、重いので。帰り、片手じゃなくて両手で持った方が……」
言いながら、自分が誰かの体を気にしていることに気づく。気づいて、胸が少しだけ熱い。
大智は箱を両手に持ち替え、笑った。
「ありがとう。……心海さんも、今日は無理しないで」
その言い方に、心海の背中が少しだけ柔らかくなる。
大智が店を出る前、ふと立ち止まった。振り返り、心海の台車に目を落とす。
「さっき、台車。使えてた」
褒める声が、軽すぎない。持ち上げない。事実だけを置いていく褒め方。
心海は頷き、取っ手を握り直した。
「……はい。あれ、使うと、楽です」
楽と言えた。言えたことが、喉の奥で小さく光る。
大智は、出口で一度だけ手を上げた。触れない手。距離を守る手。
「また、体育館で」
心海は背中を起こして、声を出した。
「……はい。次も」
言った瞬間、里希が後ろで「うおー」と小声で盛り上がり、那美子が「うるさいと電気代が上がる」と言い、汐乃が「電気代は上がらん、売上が上がれ」と切る。
笑いの中で、心海は台車を押し、店の奥へ戻った。胸の中の五秒が、今日はちゃんと自分のものだった。
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