第6話 触れられると、勝手に固まる
五月の最初の土曜日、午前。体育館の廊下は、窓からの光が白く伸びて、床の線をやけにくっきり浮かび上がらせていた。普段の小ホールより奥にある小部屋は、鏡が一枚だけで、人の声が外へ漏れにくい。扉を閉めると、外のボールの跳ねる音が遠くなる。
心海はドアの前で、指を組んだりほどいたりした。組むと落ち着く気がして、ほどくと逃げ道が増える気がする。どちらも正しくなくて、どちらも必要だった。制服の名札は外してあるのに、胸のあたりが落ち着かないのは、名札のせいじゃない。
「どうぞ」
大智の声が、部屋の中から聞こえる。心海は小さく息を吸って、ドアを開けた。
大智が先に部屋に入り、マットの端を揃えていた。揃え方が丁寧で、角がきっちり合うと、彼は小さく息を吐いた。吐いた息が見えるほど寒くはない。けれど、心海の手のひらだけが少し湿っている。
「来てくれて、ありがとう」
礼を言う声が、教室のときより柔らかい。柔らかいのに、心海の背中は硬いまま。硬いままでも立てる姿勢を、心海は探した。
「今日は、背中の動きだけ見る。痛いところが出たら、止める。止めるって言っていい」
大智が先に言う。言われると、言えなくなる癖が出るのに、先に置かれると少しだけ楽だ。心海は頷いた。頷いたのに、喉の奥が乾く。
心海は鏡の前に立った。鏡に映る自分の肩が、左右で少し違う。気づいた瞬間、視線を逸らしたくなる。逸らす代わりに、息を吸った。吸った息が胸の上で止まりそうになる。
「最初に、距離の確認をしよう」
大智が、床の線を指さした。
「ここまでなら近づいていい、って場所を、心海さんが決めて」
心海は驚いて、床を見た。自分が線を引く。線を引ける。そういう発想が、自分の中になかった。
心海は、つま先を少しだけ後ろへ引いた。引いた分だけ、肩が上がる。大智はその動きを見て、何も言わずに一歩下がった。下がる速さが、心海の呼吸を邪魔しない。
「ここ、くらい」
心海が小さく言うと、大智は頷いた。
「了解。じゃあ、声でいく」
声でいく。心海は、胸の中でその言葉を何度か転がした。転がすと少しだけ丸くなる。
「腕を前に。ゆっくり」
大智が横に立つ。横。真正面じゃない。逃げ道がある位置。心海は腕を上げた。上げると、肩が前へ逃げる。逃げた瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
大智の手が、ゆっくり上がった。肩ではなく、背中の中央へ。触れる前に、声が一つ落ちる。
「触ってもいい?」
心海は頷いた。頷いたはずなのに、背中の皮膚が先に拒む。手が触れた瞬間、心海の肩が石みたいに固まった。固まって、呼吸が止まる。止まった自分に気づいて、さらに固まる。
大智はすぐに手を引いた。引く速さが、謝る速さだ。
「ごめん。いま、固まった。……今日は見て、言うだけにする」
宣言の言い方が、逃げるためじゃなく、守るために聞こえた。心海は、止まっていた息を吐いた。吐くと、胸の奥が少しだけほどける。
「私、勝手に……」
言いかけて、言葉が見つからない。勝手に、固まる。固まるのが恥ずかしい。恥ずかしいのに、恥ずかしいと言うのも恥ずかしい。
大智は頷き、鏡ではなく床の線を見た。
「勝手じゃない。体が先に守るんだと思う。だから、言葉で追いつけばいい」
追いつく。心海はその言葉を、足元で拾った。拾って、胸の中に置いた。
大智は距離を取り、手を使わずに肩甲骨の位置を自分の背中で示した。自分の背中を触って、動きを見せる。心海は鏡でそれを追い、真似をした。真似をしようとすると、体がまた固まりそうになる。固まりそうになって、心海は一度だけ、息を吐いた。
「ふう……」
吐いた瞬間、肩が少しだけ落ちた。大智がその落ち方を見逃さない。
「いま、肩が一センチ下がった」
数の言い方が、責めない。結果を褒めるでもない。起きたことを、起きたまま言う。心海はもう一度だけ肩を下ろした。下ろすと、首が少し長くなる。長くなると、視界が少しだけ広がる。
休憩の時間、大智がペットボトルを差し出した。差し出すけれど、押しつけない。心海が自分で取れる距離に置く。
「菓子店、忙しい?」
心海は一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「……来週、新作の締切で」
言いながら、口が乾く。仕事の話なら言える。頼る話は言えない。その差が、少し悔しい。
大智は「そっか」と言って、指で軽く時計を指した。
「なら、今日は短めにする。疲れてる日に長くやると、体が覚えるのが怖い方になる」
怖い方になる。言い方が、心海の中の言葉と似ていて、胸がきゅっとなる。大智はそのまま、もう一つだけ言葉を足した。
「怖いのを、増やしたくない」
心海は返事ができず、ボトルの水を一口飲んだ。水が喉を通る音が大きい。飲み終えると、ようやく声が出た。
「……ありがとう」
心海が言うと、大智は一拍だけ置いた。
「こちらこそ」
休憩のあと、大智は小さなメモ用紙を取り出した。体育館の備品らしい白い紙に、短い文字を書く。書く手が早いのに乱れない。
「家でできるのは、これだけ。壁に背をつけて、呼吸を三回。できたら終わり。できない日は、やらない」
やらない日を最初から許す言い方が、心海の胸に静かに落ちた。心海はメモを受け取った。受け取る手のひらが湿って、紙が少しだけ柔らかくなる。
「できない日……あります」
心海が言うと、大智は「ある」とすぐ返した。
「ある。だから、続く」
続く。続くのは、根性じゃなくて、逃げ道があるから。心海はその逃げ道を、ポケットの中で握った。
小部屋を出ると、廊下の空気が少し冷たかった。ロビーのベンチには、里希がだらんと座ってスマホをいじっている。那美子は売店の前で、値札をじっと見ている。
里希が心海を見つけて、顔を上げた。
「個人レッスン、どうだった? 先生、甘い感じ?」
那美子が間髪入れずに言う。
「甘いのはクッキー。人は甘くすると腐る」
里希が「怖っ」と肩をすくめる。心海は笑ってしまいそうになって、口元を押さえた。押さえた手のひらが、まだ湿っている。
大智は二人に軽く会釈して、心海にだけ小さく言った。
「今日は、よく来た。……次も、心海さんのペースで」
心海は頷いた。頷くと、胸の奥が少しだけ軽くなる。軽くなったのに、手のひらは熱い。
体育館を出ると、外の空気は潮の匂いを運んでいた。心海は歩きながら、手のひらを見た。汗がにじんでいる。体育館の中は涼しかったのに、手だけが熱い。
心海はその手を、ポケットに入れた。隠すためじゃない。握って確かめるために。指を握ると、汗で少し滑る。滑っても、逃げない。
港へ向かう坂で、心海は吐く息を数えた。さっきの「触ってもいい?」が、胸の奥でまだ鳴っている。許可を聞かれたことが、こんなに残るとは思わなかった。
信号待ちで、心海は手のひらをもう一度だけ握った。汗が、指の間で光る。
「次も……行く」
小さく言って、口の中で自分の声を確かめた。確かめた声は、潮の匂いに混ざって、どこかへ流れていった。
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