第5話 甘い吐息、焼きたて
閉店後の厨房は、昼間より音が少ない。冷蔵庫の低い唸りと、換気扇の回る音だけが残る。オーブンの中で、クッキーが少しずつ色づいていく匂いが、甘く広がっていた。
心海は天板を引き出し、焼き色を確かめた。熱が顔にぶつかり、思わず息を吐く。
「ふう……」
短い吐息は、砂糖みたいに甘く聞こえた。自分の口から出たのに、自分の耳が勝手に恥ずかしがる。心海は咳払いで誤魔化し、天板をそっと戻した。
今日の試作は、三種類。プレーン、塩バター、そして柑橘の皮を細かく削ったもの。汐乃は腕を組んで、タイマーを見ている。見ている目が、数字にしか向いていないようで、ちゃんと心海の手元も拾っている。
「焼き色は、もう一段濃い方がええ。写真映えする」
「はい」
心海は返事をしながら、砂糖の量をメモに書いた。書く手が少しだけ震える。震えるのは熱のせいにしておく。熱のせいにできるうちは、まだ楽だ。
そのとき、表のドアベルが一度だけ鳴った。閉店札は出してあるはずなのに。心海が顔を上げると、厨房の入口のガラス越しに、人影が揺れている。
汐乃がレジから顔を出し、ドアを半分だけ開けた。
「閉店——」
言いかけて、相手を見て止まる。
「……先生?」
大智が、申し訳なさそうに立っていた。手には、小さな紙袋。体育館の帰りに寄ったのだろう。髪が少し湿って、外の夜気を連れてくる。
「すみません。これ、忘れ物。体育館のロビーに落ちてた。菓子店の紙袋だったから、ここかなって」
紙袋の口から、見覚えのあるロゴが覗く。心海が昼間に使った包材だ。汐乃が受け取りながら、淡々と言った。
「助かる。閉店後に来るなら、明日でもいい」
「明日だと、忘れそうで」
大智の言い方が真面目で、心海は笑いそうになった。忘れそうで、という言い方が、何かを大事にしているみたいに聞こえる。大事にする言葉は、胸の奥に残りやすい。
汐乃が紙袋を棚に置き、視線を心海へ向けた。
「心海ちゃん、先生に一枚。試作、味見させて」
命令の形なのに、逃げ道がある。断ってもいい空気。けれど断る理由もない。心海はトングで、焼きたてを一枚、皿に乗せた。
皿を持って厨房の入口へ行くと、大智が少しだけ身を引いた。距離を詰めない癖が、ここでも出る。心海は皿を台の上に置いた。渡すのではなく、置く。大智が自分で取れる距離。
「ありがとうございます」
大智がクッキーを割る。ぱき、と乾いた音がして、湯気が一筋上がった。香りが立ち上る瞬間、大智の鼻が少し動く。香りを受け取る動き。
「……焼きたて、いいね」
その言葉だけで、心海は胸の奥が熱くなる。オーブンの熱ではない熱が、首の後ろへ上がる。汗が首筋ににじみ、さっき借りたタオルの感触が思い出されて、ますます落ち着かない。
心海がもう一度、熱い空気に負けて息を吐いた。
「ふう……」
大智が一瞬だけ目を逸らした。逸らし方が不自然で、逆に分かりやすい。心海は意味が分からず、眉を寄せる。
大智は咳払いをひとつして、クッキーの欠片を口に運んだ。噛む。噛む音が小さく、夜の厨房に妙に響く。大智の喉が一度だけ動いて、言葉が落ちた。
「……甘いね」
甘い。今のはクッキーの話なのに、心海の顔が熱くなる。熱くなったのを誤魔化すように、心海はトングを置き、作業台を拭く。拭く布巾が、すでに砂糖でざらついている。
もしここに里希がいたら、「今の吐息、恋!」と叫ぶだろう。那美子がいたら「吐息は無料。解釈は有料」と言うだろう。二人はいないのに、心海の頭の中で勝手に台詞が鳴って、ますます落ち着かない。
そのとき、表のシャッターの隙間から、もう一度ドアベルが鳴った。今度は遠慮のない音だ。
「閉店後でも買えるって聞いた! 俺は聞いた!」
里希が、シャッターの下から頭だけ滑り込ませるみたいに顔を出した。汐乃が目を細める。
「誰に聞いた」
「俺の胃袋!」
里希が胸を張る。那美子がその後ろから、頭を下げずにすっと入ってきた。袋を二つ持っている。持ち方が無駄に効率的だ。
「閉店後の在庫は、廃棄が出る。廃棄は損。損を避けるのは正しい」
汐乃がため息をつく。
「正しさで店は回らん。金で回る」
那美子が即答する。
「だから払う」
里希が「俺も払う!」と叫び、財布を開けて小銭をばらまきそうになる。心海は思わず笑ってしまいそうになって、また口元を押さえた。押さえた手が、熱い。
里希が大智に気づいて、目を丸くする。
「え、先生! 夜の厨房! しかも心海さん! これ、もう……」
那美子が横から切る。
「憶測は無料。発言は責任がいる」
里希が「はい」とまた素直に黙る。その素直さに、厨房の空気が少しだけ救われた。
大智は慌てて、手を上げて説明しようとして、結局、紙袋を指した。
「忘れ物を届けに来ただけです。……クッキー、すごく美味しいです」
最後だけ、感想が本音で、里希が口を押さえる。
「先生、今の言い方、やばい。心海さん、耳、赤い」
心海は「赤くないです」と言いかけて、言えなかった。言うと、赤いのが確定する気がしたからだ。
汐乃が、冷蔵庫の上から締切表を一枚引き抜いた。紙が擦れる音が、空気を現実に戻す。
「新作、来週まで。試作は三種類。原価表も明日まで。先生の感想は、感想として。仕事は仕事」
淡々。数字。期限。甘い匂いが、急に台所の仕事の匂いに変わる。
大智が慌てて手を振る。
「いや、感想っていうか、ただ……えっと、匂いが」
汐乃が目を細めた。
「匂いは、覚えんでいい。買うなら覚えて」
心海は吹き出しそうになって、唇を噛んだ。噛むと、砂糖の甘さの向こうに、少しだけ塩気がする。
大智が紙袋の持ち手を握り直し、軽く頭を下げた。
「邪魔してごめん。……でも、来てよかった。匂い、覚えられた」
汐乃が即答する。
「覚えたなら、明日買いに来て。売上にして」
大智が「はい」と素直に頷いて、さらに可笑しい。心海は笑うふりじゃなく、ちゃんと小さく笑ってしまった。笑った瞬間、胸の奥が軽くなる。軽くなって、また怖くなる。
大智は帰り際、厨房の入口で一度だけ足を止めた。
「次回の小部屋、無理しない。距離、最初に聞く」
心海は頷いた。頷くと、焼きたての甘さが、喉の奥へ落ちる。
ドアベルが鳴り、大智の背中が夜の商店街へ溶けていった。心海はオーブンの前で、手のひらを見た。粉じゃなく、汗がにじんでいる。汗のせいで、指が少しだけ滑る。
心海は指を握って、ほどいた。甘い匂いの中で、自分の吐息の音をもう一度だけ思い出してしまう。思い出して、慌てて天板の端を拭いた。拭いても拭いても、胸の熱は取れなかった。
大智が去ったあと、里希は割引の袋を抱えて「俺、空気読んだよね?」と自慢げに言った。那美子は袋の口をきっちり折り返しながら返す。
「読んだ。珍しい」
「褒めて!」
「褒めると増長する」
汐乃が二人にレシートを渡しながら言った。
「増長は店の外でやれ。厨房は締切の場所」
言い方が冷たいのに、声はいつものままだ。心海はそのいつものままに、救われる。甘い空気が甘いまま残ると、心が溶けてしまいそうだったから。
里希と那美子が帰ったあと、厨房はまた静かになった。心海は天板を洗いながら、さっき大智が目を逸らした瞬間を思い出してしまう。思い出すたび、胸の奥がむず痒い。
窓の外、商店街の灯りが揺れている。誰かの笑い声が遠くで弾ける。心海は蛇口を閉め、濡れた手をタオルで拭いた。拭いたのに、手のひらの熱は残る。
『次回の小部屋』
大智の言葉が、耳の奥で小さく鳴る。心海はカレンダーを見た。次回の日に、自分で線を引く。線を引ける。線を引いていい。
心海はペンを取って、日付の横に小さく丸をつけた。丸は小さい。小さいけれど、消えない。
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