第4話 頼らない癖
夕方、商店街の端。菓子店の裏口は、焼き菓子の甘さと、潮の匂いが混ざっている。アーケードの照明が一つずつ点き始め、店先のショーケースのガラスが橙色に光った。表ではお客の笑い声が弾むのに、裏の倉庫は紙袋の擦れる音だけが響く。
心海は倉庫の床に置かれた小麦粉の袋を見下ろした。十キロ。持てない重さじゃない。頭の中で言い切ってから、腰の奥が先に嫌な返事をする。返事を聞かなかったふりをして、袋の角をつかんだ。
抱えた瞬間、呼吸が浅くなる。息を止めると楽になる気がして、つい止めてしまう。止めると肩が上がる。上がると首が詰まる。詰まっても、顔は作れる。
「心海ちゃん。その袋、棚に上げといて。明日の仕込みに使う」
店主の汐乃が、伝票を指で揃えながら言った。柔らかい声なのに短い。余白がない。心海は返事だけを早く出した。
「はい」
袋を抱えたまま棚へ向かう。棚は一段高い。腕を伸ばすと、腰の奥がきゅっと縮む。縮むのを押し戻すように、心海は袋をもう一度だけ抱え直した。粉がエプロンに白くついて、胸元が少しだけ冷たく感じる。
「……大丈夫」
誰も聞いていないのに、口が勝手に言う。言えば、できる気がする。できる気がして、できるふりを続けられる。
表でドアベルが鳴り、里希の声が聞こえた。
「閉店前の割引ってある? 今日の俺、財布がさみしい!」
「割引はある。静かなら」
汐乃の返事が即座で、心海は心の中でだけ笑った。静かなら、という条件が里希に一番厳しい。
里希が裏口まで顔を出し、棚の前で踏ん張る心海を見つけて目を丸くした。
「うわ、すご。心海さん、肩で世界を支えてる」
心海は笑って返すことができず、袋の角を棚に引っかけるだけで精一杯だった。里希が両手を上げる。
「手伝う? 俺、無料で——」
「無料は信用できん」
汐乃が伝票を閉じる音だけで切る。里希が「うっ」と小さくなる。心海はそのやり取りに助けられた。助けられたのに、助けられたと言わない癖が残る。
その瞬間、裏口が開いて、外の風が一筋入った。潮の匂いが強くなる。
「ここ、いい匂いするね」
大智の声だった。体育館帰りらしく、肩にバッグをかけたまま立っている。表で買い物をした帰りに、通りかかったのだろう。店の中に入らず、裏口の外側に立ったまま、心海の動きを見た。
大智の視線が、袋の角と、心海の足の開き方に止まる。止まって、手が上がりかける。上がりかけて、いったん止まる。止まってから、ちゃんと声を落とす。
「それ、持つよ」
手が差し出される。差し出され方が、奪うのではなく、受け取るのを待つ形だ。心海の胸がきゅっと縮む。縮むのに、口が勝手に動く。
「大丈夫です。自分で、できます」
言い切った瞬間、大智の手が空中に残った。残って、置き場を失ったみたいに指先が少しだけ揺れる。心海はその揺れを見ない。見たら、受け取ってしまう気がしたからだ。
里希が空気を軽くしようとして、わざと声を上げた。
「先生の手、宙に浮いてる! かわいそう!」
汐乃が裏口の方へ目を向ける。
「先生、買うなら表から。裏は作業口。粉が飛ぶ」
言い方は淡々としている。空気を甘くしない。心海はその淡々に、助けられる。助けられているのに、助けを拒む自分がまだいる。
大智は「すみません」とだけ言って、手を引いた。引くのに、少しだけ時間がかかった。その時間が、心海の背中に重くのしかかる。
心海は袋を棚に押し上げた。肩と腰が同時にきしむ。粉がふわりと舞い、夕日の光に浮かぶ。棚の上に置けた。置けたことより、置けたふりを守れたことが、胸の奥で小さく痛い。
「終わりました」
汐乃が頷き、伝票を棚に差し込む。
「じゃあ次、砂糖。湿気で固まっとるけん、先にほぐして」
次、という言葉で、痛みは帳簿の端へ追いやられる。消えないのに見えなくする癖が働く。心海は砂糖袋を引き寄せ、固まりを木べらで叩いた。叩くたび、粉の甘い匂いが立つ。
ふと、裏口の外で足音が遠ざかるのが聞こえた。追いかけない音。追いかけない音が、風に混ざっていく。
心海はエプロンの胸元の粉を払った。白い粉が落ちても、さっき空に残った手の形は落ちない。落ちないまま、心海の胸の奥に残る。
汐乃が表へ戻ると、里希も一緒に戻った。戻りながら、わざとらしく叫ぶ。
「店主さん! 割引のクッキー、俺の未来のために多めに!」
「未来は自分で焼け」
汐乃が短く返す。里希が「焼けないから買うんだよ!」と抗議して、表の笑い声が大きくなる。心海はその笑い声を背中で聞いた。笑い声があるのに、背中はまだ固い。
砂糖袋の固まりを木べらで叩く。叩くたび、腰の奥が鈍く返事をする。返事を無視して、もう一度叩く。叩く音に合わせて、心海の頭の中で「頼る」という文字だけが揺れる。揺れて、落ちない。
そこへ那美子が、売店の袋とは別の、菓子店の小袋を提げて現れた。閉店前の値引き目当てらしい。袋の上からでも、内容の重さを確かめるみたいに指先が動く。
「今日は、粉が多い日?」
質問が短い。心海はうなずき、砂糖を叩く手を止めない。
「多いです」
「多いなら、道具を使う。台車とか、踏み台とか」
那美子は袋の取っ手を持ったまま、棚の高さを一度見上げた。そこに置かれた粉袋の影が、まだ夕日の残りを吸っている。
心海は「はい」と返した。返事は出る。実行が出ない。那美子は、心海の返事の薄さを測るみたいに、もう一つだけ言った。
「壊れたら、修理代がかかる。体は特に」
会計みたいな言い方なのに、妙に胸に落ちた。心海は木べらを持つ手をほんの少しだけ緩めた。緩めた分だけ、腰の奥が息をした。
裏口の外から、遠ざかる足音が完全に消えたころ、心海は一度だけ棚に背を預けた。背を預けると、さっき見ないふりをした手の揺れが、目の裏でまた揺れる。揺れて、消えない。
心海はエプロンの紐を結び直し、背筋を起こした。起こした背筋が、ちゃんと自分のものか分からないまま、次の作業へ戻る。
閉店後、店のシャッターが半分降りたころ、心海は裏の洗い場で天板をこすっていた。金属が水をはじく音がする。汐乃がふっと言う。
「さっきの先生、真面目そうやな。真面目は、相手を待てるけんね」
心海はスポンジを止めた。止めて、すぐに動かす。止めた時間が怖い。
「……そう、ですね」
返事は出る。けれど胸の奥の言葉は、まだ出ない。頼らない癖は、粉みたいに簡単に落ちない。落ちないのに、次回の小部屋の「少ない」だけが、頭の中で静かに光っていた。
汐乃は続けて、スポンジを水で濡らしながら言った。
「無理する癖、あるやろ。無理したら、粉も膨らまん」
心海は笑うことができず、蛇口をひねる音だけで返事をした。水が手に当たり、冷たさが指先から腕へ上がる。冷たいのに、胸は熱い。
洗い場の窓から、商店街の灯りが見えた。人の流れはまだある。閉店後の甘い匂いは外へ出ると薄くなるのに、心海の中の匂いは薄くならない。
スマホがポケットの中で小さく震えた。汐乃からの返信だ。
『次回、三十分だけ早上がりしていい。粉は台車使え』
短い文。余白なし。けれど、許可がある。心海は画面を見て、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮んだのは怖さじゃなく、ありがたさに似たものだった。
心海は返信欄を開き、「ありがとうございます」と打った。打って、送る前に指が止まる。「ありがとうございます」を送るのも、どこかで負けみたいに感じる癖がある。
心海は深く息を吸って、吐いてから送信を押した。押した指が少し震えた。震えても送れたことを、誰にも見られていないのに、心海は小さく頷いた。
頼らない癖はまだ残る。でも、癖の隣に、文字で頼れる場所が一つだけできた。
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