第3話 個人レッスン、始めます

 雨上がりの体育館ロビーは、床のタイルがまだ少し濡れていて、靴底がきゅっと鳴った。自動販売機の前に立つ人の肩から、湿ったタオルの匂いがふわりと漂う。姿勢教室が終わった直後の時間は、みんなの呼吸がまだ運動のまま残っていて、笑い声も少しだけ大きい。


 心海は靴ひもを結び直すふりをして、なるべくゆっくり立ち上がった。立ち上がる速度を落とせば、誰とも目が合わずに済む気がしたからだ。鏡のある小ホールから出たばかりなのに、まだ自分の肩の角度が頭の中に残っている。残ったまま、見ないふりをしている。


 「心海さん」


 呼ばれて、指先が一瞬で冷たくなる。振り向く前に「大丈夫」を準備してしまう自分が嫌で、心海は靴ひもをもう一度だけ引っ張った。ほどけてもいないのに、引っ張る。自分の気持ちだけがほどけそうで、ほどけたら怖い。


 大智が、ロビーの端で靴袋を抱えたまま立っていた。近づいてこない。距離は保ったまま、声だけをこちらへ投げる。投げ方が、拾うか拾わないかを相手に残す。


 「このあと、五分だけ。時間ある?」


 五分。店の裏で座る五分とは違って、これは選べる五分だ。心海はその違いが分かるのに、口が先に逃げ道を探す。


 「今日は……忙しいので」


 忙しい。言った瞬間、胸の奥が薄く痛む。何が忙しいのか、自分でも曖昧なのに。菓子店の仕込み、家の洗濯、明日のシフト。言葉にすれば全部本当で、でも本当の忙しさは、目の前の「頼る」だと自分だけが知っている。


 大智は頷いた。追いかける代わりに、提案の形を少しだけ変える。


 「じゃあ、一対一なら、怖くない? 小部屋、鏡が少ない。人の目が少ない。声も、外に漏れにくい」


 心海は、言葉の中の「少ない」を数えた。少ない。少ない。少ない。どれも、心海が欲しい条件なのに、欲しいと言うのが怖い。


 「怖くないです」


 言い切ったあとで、続けてしまう。


 「……怖くない、けど。忙しいです」


 同じ言葉を重ねて、逃げ道を二重にする。自分で自分に鍵を掛けるみたいに。


 そのとき、ロビー奥の倉庫の扉が開き、台車の音ががらがらと近づいてきた。背の高い男が、マットを肩に担いでいる。汗で前髪が額に貼りつき、片手でそれをかき上げながら歩いてきた。


 「大智、まだここ?」


 男は大智を見つけると、口角だけ上げた。


 「太瑛。片づけ終わった?」


 「終わった。……で、片づけないのは、口?」


 太瑛の視線が心海へ移る。値踏みじゃない。ただ状況を測る目。心海は反射で肩をすくめた。肩をすくめたのを自分で見て、さらに縮む。


 太瑛はマットを床に置き、膝で軽く押して角を揃えた。その手つきが、妙に丁寧だ。丁寧なのに、言葉はあっさりしている。


 「忙しいって言うなら、時間を作れ。作らないと、いつまでも忙しいままだ」


 言い方は軽いのに、胸に落ちる重さがある。心海は言い返せなかった。言い返す言葉を探している間に、自分が「時間を作れない人」みたいに見えてしまうのが悔しい。


 大智が、太瑛の言葉を少しだけ薄めるように、笑いを混ぜた。


 「太瑛の言い方、いつも領収書みたいだね」


 太瑛は肩をすくめる。


 「領収書は必要だろ。後で『聞いてない』って言われる」


 その「聞いてない」が、心海の胸に引っかかった。聞いてない、じゃなくて、聞けなかった、言えなかった。自分の中の言葉はいつもそこで止まる。


 ロビーの反対側から、元気な足音が近づいた。


 「先生、まだ口説いてるの?」


 里希が、濡れた髪をタオルで拭きながら笑っている。言い方が軽いのに、周りが一斉に振り向いて、空気が少しだけざわついた。


 「口説いてないよ」


 大智が即座に返す。否定の速さが、少しだけ可笑しい。


 里希は心海を見て、わざとらしく両手を広げた。


 「心海さん、個人で教えるってさ。これ、恋の始まりってやつ?」


 心海は咄嗟に笑うふりをした。笑うと、声が出ない。声が出ないと、「大丈夫」を言えない。言えないことが、逆に救いだった。


 那美子が、売店の袋を提げて通り過ぎざま言う。


 「恋なら、割引は効かない。むしろ手数料がかかる」


 里希が真顔になる。


 「手数料ってなに! 恋に取引とか持ち込まないで!」


 「取引じゃない。維持費」


 那美子は袋の中の水を一本取り出し、しれっと里希に差し出した。


 「水、一本。しゃべりすぎ」


 里希が「はい」と素直に受け取って、場がまた笑った。笑いの波が一度広がってから、すっと引く。その隙に、心海の口が勝手に動いた。


 「……次回だけなら」


 言った瞬間、心海は自分の声を疑った。自分の中の誰が喋ったのか分からない。今の一言で、何かが動き出す気がして、怖いのに、胸の奥が少しだけ温かい。


 大智の眉が、ほんの少しだけ上がった。喜びを派手に見せないように、わざと呼吸を一度整える。


 「うん。次回だけでいい。時間は、心海さんが決めていい」


 決めていい。そう言われると、心海は余計に怖くなるのに、同時に、胸の奥がほどける。自分の速度でいい、と言われた気がした。


 太瑛が台車を押しながら、わざとらしくため息をついた。


 「ほら、口が片づいた。次はマットだな」


 「はいはい」


 大智が返し、心海へ視線を戻す。


 「帰り道、急がなくていい。雨上がりは滑るから。……それと、もし時間が決まったら、受付にメモでいい」


 メモでいい。声じゃなくてもいい。心海はその選択肢に救われた。


  心海が一歩引くと、大智も一歩引いた。その一歩が、心海の胸の奥に残った。押される怖さじゃなく、引かれる寂しさでもない。相手がこちらを待つ、という未知の感覚。


 里希が、わざと大げさにため息をつく。


 「次回だけ、って言った! ほら、那美子さん、記念撮影!」


 「撮影は保存容量がいる」


 那美子はスマホを見せて、「残りが少ない」と真顔で言った。里希が「恋の容量は無限だよ!」と叫び、太瑛が台車の持ち手で里希の肩を軽く押した。


 「無限は電気代が増える。静かにしろ」


 里希が「はい」とまた素直になる。素直になる速度が、里希の唯一の長所かもしれないと心海は思い、思ったことに自分で驚いた。誰かの長所を数える余裕が、自分にある。


 大智が太瑛に小声で言うのが聞こえた。


 「……無理はさせない。急に触れるのも、やめる」


 太瑛が短く返す。


 「お前、触れる前に聞け。聞いたら、相手も自分の線を引ける」


 その会話が、心海の背中にすっと入ってくる。自分の線を引ける。線を引いていい。心海は胸の奥で、まだ見えない線を指でなぞった。


 ロビーを出ると、外の空気はまだ湿っていた。商店街へ向かう道の舗道が夜の灯りを薄く映し、遠くで港のクラクションが短く鳴る。心海は歩きながら、ポケットの中で指を握った。


 帰宅してすぐ、スマホの画面を開く。店のシフト表の写真に目を落とし、指が止まる。汐乃に「次回、少し早く上がれますか」と送るだけ。それだけなのに、送信ボタンが重い。


 心海は深く息を吸って、吐いた。吐いた息の先に、体育館の小部屋の「少ない」が並ぶ。


 「……次回だけ」


 もう一度口に出してから、心海は送信を押した。押した指が、少しだけ震えていた。震えたままでも、押せた。押せたことが、誰にも見られていないのに、少しだけ誇らしい。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る