第2話 汗ばむ理由は、湿気だけじゃない

 四月の半ば。港町の体育館は、雨の名残を抱えたまま息をしていた。外は曇っているのに、館内だけが妙に蒸す。自動ドアが開くたびに湿った空気が押し込まれ、床のワックスの匂いに混ざって、濡れた傘の布の匂いが漂った。


 心海は、入口で傘の水滴を払う手をやめずにいた。払えば払うほど、袖口が重くなる。受付の前に立っても、リュックの肩ひもを直しても、首の後ろだけが先に熱くなっていく。


 「お、来た。逃げなかった」


 背後から、聞き覚えのある声が飛んだ。里希が、雨粒を額の前髪に残したまま、やけに明るい。


 「逃げ……てないです」


 心海は言いながら、視線を合わせない位置を探した。合わせたら、また「大丈夫」と言ってしまう気がしたから。


 受付の引き出しがすっと開き、透明な袋が出てきた。白いタオル。付箋には四月の日付だけ。


 「これ、もしよかったら」


 大智の声だった。前より少しだけ近い。けれど、腕は伸ばしすぎず、袋は机の上に置かれた。渡すのではなく、置く。心海が自分で取れる距離。


 心海は一拍遅れて袋を見た。汗がにじむ首筋より先に、喉の奥が乾く。


 「……ありがとうございます。でも、私」


 言い切る前に、那美子が横から覗き込んだ。財布を閉じる音が小さく乾いている。


 「袋は再利用できる。捨てないなら、損しない」


 それが励ましなのか会計なのか分からなくて、里希が吹き出した。


 「那美子さん、たぶん人の心にもレシート出すタイプ」


 「出すなら、保管して」


 返しが早い。周囲が笑って、心海も口元だけ動かした。動かしただけで、笑いが胸まで降りてこない。


 小ホールに入ると、鏡が曇りかけていた。床のマットも、いつもより温い。空調が効いているはずなのに、湿気が肌にまとわりつく。心海はリュックを抱え、背中の丸みを意識して立った。意識するほど、肩が前へ逃げる。


 大智が前に立ち、手を叩いた。


 「今日は湿気がある。汗、出やすいと思う。水分は、途中でも飲んでいい。飲むの、遠慮しない」


 心海はペットボトルを握り直した。遠慮しない、と言われた途端に、遠慮の仕方が分からなくなる。


 最初は肩甲骨を動かす準備運動。腕を回すたび、心海の首筋に汗が筋を作った。タオルを使うべきなのに、袋の口を開けるのが惜しいみたいに、手が動かない。人に貰ったものを使うと、もう返せない気がした。


 鏡の中で、大智の視線が心海の肩に止まった。止まって、すぐに外れる。見ているのに、追い詰めない。なのに今日は、足音が一歩、近づいた。


 「背中、少しだけ。ここ、こう」


 大智の声が耳の後ろに来る。肩に手が触れる前の気配。心海の体が勝手に先に反応した。肩がすくみ、足が半歩引ける。引いた瞬間、床のマットがきゅっと鳴った。


 空気が、ほんの少しだけ止まる。


 里希が、その止まり方を見逃さない。


 「先生、近い近い! 湿気より熱い!」


 笑いが起きる。那美子が、鏡に映る自分の前髪を押さえたまま言う。


 「距離は無料じゃない。近づくなら、同意がいる」


 誰かが「それ」と手を叩いて、さらに笑いが広がる。大智も一瞬だけ口元を緩めたけれど、すぐに真面目な目に戻った。笑いに紛れて、心海の息の速さを拾う目。


 大智は手を引いた。引くのが早い。触れていないのに、触れたみたいに心海の皮膚が熱くなる。


 「ごめん。びっくりしたね」


 謝る声が、あくまで静かだ。言い訳をしない。大智は自分の足を一歩下げ、心海の横に並ばず、斜め前に立った。目線を合わせるのも、鏡越しにする。


 「触らないやり方に変える。タオル、使う?」

 心海の耳の奥で、昔どこかの扉が閉まる音がした。誰かの手が、許可もなく肩を押したときの、あの一瞬の重さ。思い出そうとしなくても、体だけが覚えている。


 だからこそ、今日の「ごめん」が、怖さを少しだけ溶かした。責める声ではなく、待つ声だったから。


 心海は反射で首を振りそうになった。首を振ったら、また「大丈夫」で終わる。終わらせたくないのに、終わらせる癖が勝つ。


 袋に入った白いタオルが、心海の視界の端で揺れた。机の上に置かれたままの距離。取るのは自分。


 心海は、指先だけで袋を引き寄せた。ビニールが小さく鳴る。周囲の笑い声が遠のく。自分の呼吸の音が大きい。


 「……これ、借ります」


 借りる、という言い方で、心海は何とか自分を保った。貰う、と言うと、胸が詰まりそうだったから。


 大智は頷いた。


 「うん。返す場所、分かりやすくしておく」


 返す、を先に用意されると、心海の手の震えが少しだけ収まった。


 大智はタオルを一枚、指で軽くつまみ、心海の肩甲骨の位置を空中に描いた。触れないまま、動きだけを見せる。心海は鏡を見ながら、描かれた線を追うように肩を動かした。


 「いま、息、止まってない」


 言われて初めて、自分が息をしていることに気づく。心海は汗を拭った。タオルは柔らかく、まだ洗剤の匂いがする。嗅いだ瞬間、なぜか涙が出そうになって、慌てて瞬きをした。


 休憩時間、里希が心海の隣にずいっと座った。距離の話をしたばかりなのに、距離を詰めるのが早い。


 「さっきの、先生が悪いわけじゃないよ。俺なら、もっと近くても平気」


 心海はペットボトルのふたを回しながら、返事の場所を探した。


 那美子が、椅子の背もたれにかけた自分のタオルを畳み直して言う。


 「里希の平気は、他人の基準にならない」


 里希が「えー」と抗議しかけると、那美子は続けた。


 「それと、近いのが好きなら、壁に寄りなさい。壁は文句を言わない」


 里希が壁に肩をつけてみせ、わざとらしく「壁、俺のこと好き?」とやる。周りが笑って、心海の胸の奥に、少しだけ温いものが落ちた。笑いが胸まで降りてくる感覚。さっきより、軽い。


 再開の合図が鳴る前、大智が水を飲みに来て、心海の前で足を止めた。


 「さっき、無理させたくなかった。次から、距離の取り方を最初に確認する。……それで、いい?」


 問いかけが、ちゃんと問いかけになっている。答える余地がある。


 心海はタオルを握りしめ、喉の奥の乾きを飲み込んだ。


 「……はい。たぶん。次は、もう少し」


 最後の言葉が、かすれていた。自分の耳にだけ聞こえるくらい。けれど、大智の眉が、ほんの少しだけ上がった。


 「うん。もう少し、でいい」


 教室の終わり、心海はタオルを畳んで袋に戻した。受付の引き出しの前で、手が一度止まる。戻したら、今日の「借りた」が終わってしまう気がした。


 それでも、心海は袋をそっと置いた。付箋の上に重なるように。終わりではなく、次への印。自分で置けたことが、小さく嬉しい。


 外に出ると、雨は上がっていた。濡れた舗道が街灯を映し、港の方から潮の匂いが戻ってくる。心海は背中を伸ばし、息を吸った。


 湿気のせいだけじゃない汗が、まだ首筋に残っている。けれど今日は、それを隠すより先に、タオルを借りた自分がいる。


 心海は歩き出した。歩幅は小さいまま。でも、止まらなかった。


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