港町の菓子店と『触れるよ』の恋
mynameis愛
第1話 二十歳の背中
四月のはじめ。瀬戸内の港町は、海からの風がまだ冷たく、桜の花びらが商店街のアーケードをくるくる回っていた。市民体育館の自動ドアが開くたび、潮の匂いと、床のワックスの匂いが混ざって鼻の奥に残る。
受付前の列で、心海はリュックの肩ひもを指先で引き寄せ、背中を少し丸めた。服の中に隠したいみたいに、胸の前で両腕をぎゅっと寄せる。列の前に貼られた紙には「姿勢教室 初心者歓迎」と書かれている。歓迎、と読んだ瞬間だけ、歓迎されていない気がするのが不思議だった。
隣の中年女性が、ちらりと心海の年齢を聞くでもなく、「初めて?」とだけ笑った。心海は口角を持ち上げて、「大丈夫です」と答えてしまう。質問は「初めて?」なのに、返事はいつも「大丈夫」。自分でも、少しだけ可笑しい。
小ホールの入口で、講師の名札をつけた男が、参加者の靴袋を手際よく受け取っていた。大智。名札にはそう書いてある。二十八歳、という数字はこの場では誰も知らない。ただ、声の高さと動きで、若いことは分かる。
彼は、順番に目を向ける癖があるらしく、挨拶のあとも、参加者の靴の擦れや、肩の高さや、呼吸の速さを、言わずに拾っていた。拾って、何も言わない。言わないけれど、見ている。
心海の番になったとき、大智の目が、いったん心海の肩に止まった。視線の動きが、軽いメモみたいに速い。
「肩、痛くない?」
声は低く、押しつけがましくない。質問なのに、命令の匂いがしない。
心海は反射で笑って、「大丈夫です」と言いかけた。けれど、口の中で「大丈夫」が転がったまま引っかかる。痛い、と言えば、何かを頼むことになる気がしたから。
「……大丈夫、です」
大智は「そう」とだけ言って、心海の靴袋を受け取った。そこで終わり。追い詰めない。心海はその「終わり方」に、逆に落ち着かない感じがした。
小ホールの中は、体育館の湿った空気とは別物で、少しだけ温かかった。鏡が一面に張られ、床のマットが青い。前列には、やたら声が通る青年が陣取っていた。里希だ。本人はまだ名乗っていないのに、周囲が勝手に名前を覚えたみたいに、誰かが「里希くん、前詰めて」と言っている。
「前、詰めると先生に近づくからね。俺は許すけど」
里希がわざとらしく胸を張ると、何人かが笑う。受付の横で、財布を開けたまま様子を見ていた女性が、ぽつりと真顔で言った。那美子だ。体育館の売店で「今日だけ水が安い」と言っていた張本人で、値札を貼り替える手つきが早い。
「近づくのは無料。戻るのは、交通費」
言い方が完全に会計で、さらに笑いが増える。心海は笑ったふりをして、鏡の中の自分の首筋が赤いことに気づいた。赤いのは運動の前なのに。
大智は、場が温まるのを邪魔しないように、笑い声が落ち着いたところで手を叩いた。
「今日は、背中と肩甲骨の動きを見ます。無理に伸ばさない。痛い、苦しい、怖いが出たら、止める。止めるのは負けじゃない」
最後の一言が、心海の胸の奥に刺さった。止めるのは負けじゃない。勝ち負けで動いていないつもりだったのに、いつも自分の中では勝敗がついていた。頼ったら負け。弱音を吐いたら負け。
鏡の前で、背中を壁につける練習が始まる。心海は背中をつけようとして、どうしても肩が前に出る。肩が前に出るたび、胸が縮む。息が浅くなる。
大智が横を通り、言葉だけを落とした。
「いま、息が止まってる」
心海ははっとして、口から息を吐いた。吐いた息は熱く、春なのに喉の奥が乾く。
「ここ、こう、ってやりたいけど」
大智は自分の手を一度あげて、すぐに下ろした。触れる前に止める。心海の肩の上で、手が空中に残らないように、ちゃんと自分の体に戻す。
「今日は言葉だけにする。怖いのが先に来ると、体が固まるから」
心海はうなずいた。うなずいたのに、うなずくほど、胸が苦しい。怖い、と言っていないのに、怖いことを当てられたみたいだった。
里希が後ろから、わざと小声で言う。
「先生、当てるの上手すぎ。占い師?」
那美子が、また真顔で返す。
「占い師なら、料金表がいる」
笑いが起きる。その笑いの中で、心海の肩の力がほんの少しだけ抜けた。笑いが自分の外にあるから、自分の中に息が戻る。
教室が終わるころ、心海の背中はほんの少しだけ、さっきより壁に近づいていた。近づいたのに、嬉しいより先に、恥ずかしいが来る。自分の体が、誰かの言葉で動いたことが。
靴を履きながら、心海は何度も「大丈夫」を口の中で転がした。転がして、飲み込む。飲み込むと、胸の奥が重くなる。
体育館を出ると、港へ向かう道に夕日が落ちていた。商店街の魚屋から、氷を砕く音が聞こえる。焼き鳥屋の煙が、風に乗って流れてくる。町は生きているのに、心海は自分だけ透明なまま歩いている気がした。
信号待ちで、背中の丸みが戻る。戻った途端、さっき「止めるのは負けじゃない」と言われたことが、逆に痛くなる。止めるな、と自分に言い続けてきたから。
歩道橋の上で、心海は急に息が詰まった。胸の前がきゅうっと狭くなる。視界が少しだけ白くなって、手すりを握る。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく口に出すと、その言葉の軽さに、自分が一番驚いた。
体育館の方角を見ると、遠くの屋根の上に、夕日が反射していた。大智の顔を思い出す。あの声の低さ。手を上げて、触れずに下ろした仕草。
心海は、誰かに追いかけてきてほしいのか、それとも追いかけられたくないのか、自分でも分からないまま、歩道橋を降りた。
歩道橋の階段を降りきる直前、背後で靴の音が一度だけ近づいた。心海は肩をすくめ、振り向く代わりに手すりを強く握った。
「……違う」
追いついたのは、買い物袋を揺らした高校生の二人組だった。笑い声が風に流れていく。心海は胸の奥に溜まっていた息を、ゆっくり吐いた。
そのころ体育館では、大智が受付に戻り、机の横に置かれた忘れ物箱をひとつひとつ確認していた。靴袋、ハンカチ、名もないボトル。
大智は引き出しを開け、未開封の白いタオルを一枚取り出した。教室の備品で、誰でも使っていいものだ。けれど、誰でもの中から、あの背中を選ぶのは自分だと分かっていた。
「これ、次の回に」
受付の女性が首をかしげると、大智は声を落とした。
「肩、固まりやすい子がいた。汗も、出やすいかもしれない。……置いておいてもらえる?」
説明が少しだけ多い。自分でも気づいて、言い終えたあとに口を閉じる。
受付の女性は、何も突っ込まずに、透明な袋にタオルを入れ、付箋に日付だけを書いた。四月。まだ始まったばかりの月。
大智はその袋が受付の引き出しにしまわれるのを見届けてから、外に出た。追いかけない。追いかけたら、相手の「自分で歩く」を奪うかもしれないから。
海の匂いが強くなる道を歩きながら、大智は自分の手のひらを見た。触れなかった手。触れずに済ませた手。
あの子が次に来るとき、また「大丈夫」と笑うだろう。その笑いの裏に、息の詰まりがあるなら。
大智はポケットの中で指を握り、ほどいた。握り直すのは、次の回まで取っておく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます