第4章 影は誰の背後にも

 施設を訪れたわずか三日後の深夜、美咲の絶叫を聞いて部屋に踏み込んだ両親は、血の海のなかで狂乱する娘の姿に言葉を失った。


 美咲は取り憑かれたように自分の背中をかきむしっていた。あの日、影を自分自身だと認めた瞬間から、影による侵食は加速したのだ。味方だと思っていた影は、今や美咲の意志を無視し、彼女の肉体という殻を内側から食い破ろうとしていた。


「剥がれない、剥がれない……!」


 皮膚の一部として癒着してしまった影を拒絶しようと、自分の肉を爪で抉り取っていた。両親の通報で駆けつけた救急隊員や警察官が必死に抑え込んだが、彼女はうわ言を繰り返し、自分の体を傷つけようとし続けた。




 数日後、精神科の閉鎖病棟へ運び込まれた美咲をしずくが訪ねた。病室は窓に格子が嵌められ、昼間でも重苦しい影が溜まっている。ベッドに座る美咲は、暴れないように全身を拘束具で固定されていた。その姿は痛々しいほどに痩せこけ、肌は土気色に変色している。


 しかし、何よりも恐ろしかったのは、美咲の背後に立っているそれだった。もはや霧でも煙でもない。それは美咲の影から地続きに立ち上がった、真っ黒な肉塊だった。影は美咲と同じ制服を纏い、同じ背丈を持ち、そして美咲の顔を醜悪に引き延ばしたようなかおを備えていた。


「……ねえ、水無瀬さん」


 美咲の口は動いていない。背後の影の口が動き、掠れた美咲の声で囁いた。


「見て。みんな私を見てる。お父さんもお母さんも、お医者さんも、フォロワーも。みんな、私だけをずっと、見てる……」


 影の手が美咲の肩を掴み、耳たぶを愛撫するように触れている。それは美咲の栄養を吸い尽くし、存在そのものを入れ替えようとしているかのようだった。


「……黒いもやは、嘘が大好きなの」


 しずくは震える声を振り絞った。


「他人の秘密を暴いて喜んでいたとき、自分を特別だと思い込もうとしていたとき、そのもやはあなたの孤独を食べて大きくなった。それはもう美咲ちゃんじゃない。あなたの絶望が形になった、化け物だよ」


 美咲の瞳が、一瞬だけしずくを捉えた。その奥に助けを求める小さな光が見えた気がしたが、影が美咲の首をぐいと後ろに逸らすと、光は深い黒の中に沈んでいった。影はしずくに向かって、美咲の声で「次は、あなたの番よ」と笑った。




 病院の廊下を歩くしずくの耳には、どの病室からもカサカサという乾いた音が聞こえてくるような気がした。ナースステーションで談笑する看護師の背後にも、死にゆく患者を見守る医師の肩にも、黒いもやは着実に根を張っている。嫉妬、虚栄、自己嫌悪、そして孤独。人間の心が持つ不可避な闇そのものが、影の種なのだ。


 病院の重い回転扉を抜け、冷たい夜気に身を晒した。街灯の下を人々が行き交う。楽しげに笑い合う恋人たち、家路を急ぐサラリーマン。そのすべての背後に、黒いシミのような何かが主の歩調に合わせて揺れている。


 ふと、ビルのショーウィンドーが、しずくの姿を映し出した。彼女は足を止め、ガラスの中にいる自分を凝視した。しずくの背後。そこには薄い、けれどもしぶとくまとわりつく黒いもやが、蛇のようにうねっていた。

 母を救えなかった後悔。力を持ってしまった自分への嫌悪。この絶望的な景色を一人で見続けなければならない孤独。


「私は……負けない」


 自分を励ますように呟いたが、ガラスの中の影は、しずくが言葉を発するたびにわずかにその解像度を上げていく。彼女が正しい自分であり続けようとすればするほど、その正しさへの疲労という闇もまた、深く、濃くなっていくのだ。




 街灯の下、彼女の足元から伸びる影は、意志を持っているかのように指先を広げ、次の餌を探して街の奥へと長く、不自然に蠢きながら這い寄っていった。

 もはや、彼女自身の輪郭と、背後の影の見分けはつかなくなっていた。



(C),2025 都桜ゆう(Yuu Sakura).

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影を育てる少女 都桜ゆう @yuu-sakura

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