第3章 美咲の影

 水無瀬しずくが去った後の教室は、一時的に奇妙な解放感に包まれていた。不気味な警告を吐く転校生がいなくなり、日常が戻ってきたはずだった。しかし、その日常の裏側で、美咲の精神は急速に摩耗していた。


 美咲は最近、背中から肩にかけて、得体の知れない重苦しさを感じている。それは単なる疲れではない。まるで、濡れた重いコートを無理やり着せられているような、逃げ場のない圧迫感だった。鏡を見れば、そこに映るのはいつも通り丁寧に手入れされた自分だ。しかし、一瞬でも視線を逸らせば、肩越しに黒い指が覗くような気がして、彼女は何度も激しく振り返った。


「……私のせいじゃない。あいつが変な呪いをかけていったからだ」


 美咲は震える指でスマートフォンの画面を操作した。彼女にとって、匿名での投稿は自分を保つための生命維持装置だった。


『あの転校生、結局母親が人殺しで施設送りだって(笑)予言者ぶってたけど、一番身近な悪も見抜けてなかったわけ?』


 自分を不快にさせた存在を貶め、嘲笑の的にする。すると、瞬く間に画面上の数字が跳ね上がり、賛同するコメントが書き込まれていく。画面の向こう側にいる見ず知らずの他人が、自分の言葉に熱狂し、自分を特別な存在として崇めている。通知が届くたびに、美咲は自分がクラスの枠を超えた、大きな力を手に入れたような全能感に酔いしれていた。


 だが、その快感に比例するように、背中の重みは増していく。もっと反応が欲しい、もっと誰かを叩きたい。そう願う心が強まるにつれ、美咲の耳元でカサカサという乾いた音が響くようになった。それは何百人もの人間が耳元で同時に「もっとやれ」「もっと面白いものを見せろ」と囁いているような、不気味なノイズだった。




 ある夜、美咲は寝室の大きな姿見の前で立ち尽くした。部屋の照明を落とし、スマホのライトだけで自分の背後を照らしてみる。すると、そこには確かにいた。  

 彼女の肩から、蛇のようにのたくった黒い煤(すす)が立ち昇り、天井を黒く染めている。もやは以前よりも密度を増し、生き物の内臓のような湿り気を帯びて蠢いていた。


「ひっ……!」


 美咲は思わずスマホを放り出した。しかし、暗闇に沈んだ画面から届く通知の光が、もやを不気味に浮かび上がらせる。もやは逃げようとする美咲の首を、確実に絞めるように絡みついていた。


 一睡もできないまま、恐怖と震えの中で夜を明かした。美咲にとって、もう学校どころではなかった。朝日が昇ると同時に、彼女は狂ったように身支度を整え、学校を無断欠席して家を飛び出した。数時間をかけて辿り着いた、しずくのいる児童養護施設。面会室に現れたしずくは、以前よりも一層影が薄くなり、その瞳には静かな絶望が宿っていた。


「水無瀬さん、助けて……! これ、剥がしてよ!」


 美咲は泣き叫びながら、自分の肩をかきむしった。


「ずっと後ろに誰かがいるの。あなたが変なことを言ったから、私に呪いが移ったんでしょ!?」


 しずくは、美咲の背後を哀れみを持って見つめた。そこにはもはや、もやとは呼べない巨大な繭のような影が美咲を包み込んでいる。


「……それは、私があげたものじゃない。美咲ちゃんが、自分で育てたんだよ」


 しずくの声は、氷のように冷たく、けれど慈悲に満ちていた。


「お願い、もうやめて。誰かを傷つけて、それで自分を見てほしいって願うのを、今すぐやめて」


 美咲は息を呑んだ。画面の向こうでしずくの母親の事件を面白おかしく書き立てていたことを、こいつは全部見抜いているのか。


「今すぐその気持ちを捨てて。誰かを攻撃するのをやめれば、そいつも消えてくれるかもしれない。今ならまだ……、間に合うから!」


 美咲は震える手で、ポケットの中のスマホを握りしめた。その時、端末が激しく震えた。さっき投稿した『人殺しの娘と直接対決してみた』という虚偽の記事に、かつてないほどの反響が届いている。


(これをやめたら、私は何者でもなくなっちゃう。誰も私を見てくれなくなる。そんなの、死ぬより怖い……!)


 美咲の心に芽生えた執着を感じ取り、背後の影がボコボコと沸き立った。影の中から、細長く節くれ立った黒い腕が伸び、美咲の頬を愛撫するように包み込む。


「……ああ、そうか。これ、私なんだ……」


 美咲の瞳から迷いが消え、代わりに異常なまでの昂揚感が宿る。彼女にはもう、しずくの警告は届いていなかった。彼女の背後の影は、美咲と同じ形に膨れ上がり、美咲と同じ笑顔を作って、しずくに向かって勝ち誇ったようにニタリと笑った。


「……もう、美咲ちゃんじゃない」


 しずくは立ち上がり、背を向けた。もやは美咲の承認欲求を完全に飲み込み、彼女の肉体という名の殻を、内側から食い破ろうとしていた。

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