1‐1 第8話 直平の思い、おとわの思い、そして直満と直義の駿府出立

 ◇1545年(天文13年)1月下旬 井伊谷城 井伊直平、井伊おとわ、井伊直盛◇


(井伊直平)

 亀之丞が空間に現れた扉の向こうに入っていくと、扉は何もなかったかのように、消え去った。一瞬にして静寂がその場に訪れる。床には人形の亀之丞が静かに眠っている。直盛も、千賀も、おとわも、言葉を発することなく己と同じく扉があった空間を見つめている。つい今しがたの出来事は、まさしく神仏のお導きによる奇跡なのじゃろう。


 苦難にあった井伊のなかで、次代への希望であった亀之丞が、病に倒れ生死をさまよい、死を覚悟せざるをえない状況にまでになった。直満、直義は謀反の疑いをかけられた。これは井伊を押さえつけるための今川の悪意にほかならない。しかし、それを覆すことも今の井伊には難しいこと。悔しさを長年、腹のうちに溜め込んできた。


 あの大きな亀之丞は、成長した姿なのだろう。体躯の立派な、頼もしい若者である。それにしても、井伊谷の外を知らぬはずの亀之丞が、あれほどまでの外の情勢についての詳しい知識を持ち、他勢力の動向についても考察し井伊から今川を逆襲しようなど考えているとは驚くばかりだった。

 

 遠江の国人衆、天竜川より西の我ら井伊をはじめとする衆らは、力で遠く及ばず今川の軍門に降ったが、それは決して本意でない。そのことは表に出すことはできないことであるが。だからこそ、亀之丞の話は、魂に響くものがあった。


「直盛よ、直満と直義は、いつ駿府へ出立することになっているか?そろそろなのであろう?」

「はい、2日後に、出立の挨拶に来る予定です」

「その場には、小野政直も同席するのだろう?」

「此度は、小野が、直満と直義を駿府へ同道(連れていく)するということなので、そういう予定のようです」


 小野はその機会に、亀之丞の病状を見舞いと称して、確認しに来るだろう。現状を今川へ報告するために。忌々しいことだが、さすがに拒否はできぬことだな。


 いつのまにか千賀、おとわが、眠っている亀之丞の傍に寄り添い、様子をしげしげと眺めている。やがて、おとわは指先を亀之丞の頬にあてがい、感触を確かめるようにさすりだした。


「おとわよ、触ってみた感触はいかがじゃな?」

「おじい様、亀之丞の顔と体も、人の温かさがあるみたいです。口元では小さく息をしているし、これが人形だって、なんて、知らなければ信じられない」

「体温もあるのか。……何ともすごいものよ。影武者として申し分ないことこのうえないものよのう」


 儂も亀之丞の傍に行き、両手で手を取り軽く握ってみた。よく知る亀之丞のかわらぬ感触と思え、そこに違和感も感じなかった。亀之丞は千賀にお世話を頼むと言い残していったが、病状の心配をする必要がなくなり、体裁だけを取り繕うためのお世話なら、それ自体には何も問題はないように思えるのう。


 10日間。亀之丞は準備に必要と言った。そこでしかできない準備、おそらく魔法に関係するものなのだろう。亀之丞を待つ間、周りに疑念を抱かせないように過ごさなければ。人形の亀之丞の身を心配する演技はやらねばならぬな、ああ、もう心配いらないという喜びが表情に出てしまわないようにしなければならぬ。存外、難しいことかもしれぬな!


「奥山殿のところには、儂が出向いて、10日後に龍泰寺へお連れしよう。おひよも久しぶりであるな。なにせ、この新年では謀反の疑いをかけられたせいで、皆々との顔合わせや挨拶もろくにできなかったからのう」

「今村殿のほうは、直盛、お主が話をしてくれるということでよいかの?」


 どうやら儂の口も軽やかに、声にも張りが出てきたように感じる。悪くない、悪くない。


 ――――――――――


(井伊おとわ)

 上気した顔と頭がぽわぽわしてる。つい先ほどまで、亀之丞がそこにいた。急に大人になって、格好よくなって。神様が遣わしてくれたという美人のめいどさん?お母さまや私とは全く違う髪の色、顔のつくり、体の大きさ。愛さんの大きなおっぱいにはびっくりした。亀之丞も男だから、やっぱりああいうおっぱいの大きな女性が好きなのかな?

 いまだぺったんこな自分の胸をさすってみる。私はどのくらい大きくなるのかしら……。


「おとわ、どうしたの?大丈夫?」

 お母さまに声を掛けられて我に返る。いやだ、変なこと考えてたのが見透かされたかしら!?


「お母さま、大丈夫です。いろいろ驚いたものだから……」

 誤魔化せた?


「うふふ、神様にはびっくりしたわね。それに、それと同じくらい、大きな亀之丞にはびっくりしたわ。おとわのお父様(直盛)に負けないくらいの、立派な井伊の男ぶりよ。それに、私たち親の前で、あなたを大胆にも抱き寄せて」

 お母さま、私いきなりで何もできなかったのわかってるくせに、いじわるね!


「お母さまの意地悪!」

 力なく言い返したものの、恥ずかしさにあわわとした気持ちになる。


「そうだ、亀之丞は大丈夫かしら?」

 亀之丞はもう出掛けてしまっていないのに、咄嗟にでた言葉はいかにもおかしい。今、目の前で寝ている小さな亀之丞は、人形の亀之丞ということだし。


 亀之丞に近づいて、顔を見る。生気がなさげな感じで、ちゃんと病人ぽい感じがわかる。普通にみて、人形にすり替わっているなんて、気づけないと思う。ずっと一緒にいた私だって騙されると思う。そのくらい、亀之丞は亀之丞している。変な言い方になるけど。おじい様、お父様、お母さま、みんなもきっと同じはず。そのくらいは見ていてわかるわ。


 お母さまも亀之丞のそばに近寄ってきた。私は亀之丞の顔に手を伸ばし、指先でほっぺたを突いてみた。ぷにっと指先が亀之丞の頬肉に沈み込む。次に手のひらを広げて、優しく撫でてみた。温かかった。激しい高熱が続いていた時期もあったと聞いているけれども、どんなに苦しかったのだろう。気絶したまま戻らないから、このまま死んじゃうんじゃないかと思って、悲しくて悲しくて、何もできない私はただ焦りばかりが募る日々だった。

 大きな亀之丞は、とても逞しく、私を軽々と抱きかかえて、その手の中に包まれた感触はまだしっかりこの身に残ってる。


 私は井伊家当主、直盛の娘。亀之丞は、次期当主で、私の許嫁で、近い将来良人となる人だ。小さいころから互いをよく知る間柄だけど、小さい亀之丞は弟みたいで、私の後にくっついてくるところが可愛かった。大きな亀之丞は、頭が良くて、堂々としていて、もう大人だと思う。何だが置いてけぼりにされてしまったみたいな感じもする。ちょっと助平なところがある気はするけど、それは私を相手にだったら、別にだめじゃないよ?


 おじい様とお父様が、叔父上たちのこと、龍泰寺のこと、お話をしている。そういえば、最近はおひよちゃんと会っていないから、久しぶりに会えるのね。奥山家は井伊の重臣でとても大切な存在だから、亀之丞も奥山家の力を必要としているのね。それでも、親朝のおじい様をわざわざ名指しで指名するのはどういうことなのかしら?おひよちゃんのお父様(朝利)ではなくて。


「おとわ、10日間のあいだは、私とともに居りましょう。亀之丞のお世話は私が任されましたが、あなたも傍にいて、ぼろが出ないように私の支えになってください」

 2日後に直満おじ様、直義おじ様が、家老の小野殿と一緒に井伊谷城へ登城し、駿府出立の挨拶に来るという。そのための備えということだと思う。


「はい、お母さま」

 亀之丞は小野を欺くと言っていた。だから明後日は、とても大事な日になる。もう井伊の戦いは始まっているんだ、と思うくらいできっと丁度いいんだ。


 ――――――――――


(井伊直盛)

 2日後の朝、井伊谷城。

 直満からの先触れの使いの者が、まもなく一行が登城する旨を伝えてきた。外は遠州のからっ風が吹き込み、冷え込む一日になりそうだ。身支度を整え、一行の到着を待っていた。おじい様は控えの部屋へ行き、直満、直義と言葉を交わすという。亀之丞の見立てが当たるとするならば、今日が今生の別れの日、ということになる可能性が非常に高い。亡きわが父(長男、直宗)に続き、次男(直満)、三男(直義)を失うとなれば、おじい様の男子は駿府にいる病弱な四男(直元)だけとなる。弱い井伊の立場ゆえ、それに抗うことはできない。私も悔しいが、おじい様の心中はいかばかりかと思う。


「おじい様、大丈夫ですか?」

 つい、そう声をかけてしまった。


「直盛、儂なら大丈夫じゃ。思うところは色々ある。しかし、送り出すしかないのじゃから、せめて、ふたりが我らのことに心を残さず申し開きをしっかりできるように後押ししてやるしかない」


 そう言い残して、おじい様は控室へと向かっていった。私も毅然として、会見に臨むこととしよう。千賀を部屋に呼び、あらためて亀之丞への見舞いにとなったときの段取りについて打ち合わせをする。流行り病の可能性もあり、人の出入りは最小限に控えていること、今は小康状態にあるが、意識は戻っておらず、長時間の滞在はご遠慮いただきたい旨をおじい様を通じて小野にあらかじめ話をしてもらうことになっている。

 おとわも千賀とともにやってきた。緊張している表情にみえるが、そこには何か秘めた決意のようなものがあるように感じられる。とてもよい表情だ。危機に際し、井伊が心をひとつにして、それを乗り越えようとしているのだ、といった連帯感が染み渡る。


「殿、直満様、直義様、小野様が参られました。お通ししてよろしいでしょうか?」

 控える小姓よりいよいよ来訪のときを伝えられる。


「うむ、お通しせよ」

 襟を正して居住まいを直す。広間の襖が開かれ、直満、直義、小野政直の3人が入室し、5間ほど先の場所に並んで着座した。普段と変わらぬ3人ではあったが、今この場に緩んだ空気感はなかった。かといって重苦しさもなかった。おじい様との対面、会話がよい作用を与えたに違いない、と感じられた。小野は特に何かという様子は見せていない。今のこの流れは、小野の思い通りにすすんでいるのだから、きっと焦りもないのだろう。


「直満、直義、大儀である。今川殿に井伊には謀反の意がないこと、よくお伝えしてきてくだされよ」

「政直も、お役目大儀である。ふたりのお世話と、今川殿へのおとりなし、よろしくお願い申す」


 これが亀之丞の描く井伊の天下取りのはじめの一歩、になるのだろうか。



(あとがき)

第1章、第2章は戦国パート(井伊谷、駿府)の登場は限定的です。要所にエピソードを配置しています。複合する世界観を立体的に感じていただければと思って書いています。

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