第1部 井伊の独立戦、今川との戦い 第1章 神子誕生 井伊亀之丞とナオフミ・イイの融合

1‐1 第1話 神子誕生 井伊亀之丞の目覚め

【第1部 井伊の独立戦、今川との戦い】


第1章 神子誕生 井伊亀之丞とナオフミ・イイの融合

 

 ◇1545年(天文13年)1月下旬 井伊谷城いいのやじょう 井伊亀之丞◇


 遠江国井伊谷の冬。この地方は降雪地帯ではないが、アルプスを越えた乾燥した寒風が吹きつけて肌寒さを感じるところだ。ここは、井伊家が治め、居城を構える領地。浜名湖の北側に位置し、令和日本では静岡県浜松市浜名区細江町気賀はまなくほそえちょうきがと呼ばれる地域の周辺にあたる。天文13年現在において、当地と近隣との情勢は、井伊家にとって決して安穏としたものではなかった。駿河の今川家は義元のもと最盛期を迎えようとするころで、まさに勢力強大であり、遠江の国人衆こくじんしゅうは悉く今川家に圧迫されて、その威光にひれ伏し服従していた。弱き者は、力ある者に従う……戦国乱世の習いであった。


 井伊家は今川家のお家騒動(花倉の乱はなくらのらん)のさいに、玄広恵探げんこうえたん側に与していたために、今川家当主となった今川義元の井伊家に対しての目はとても厳しいものがあった。今川家内乱後は家内の安定を第一に、とした寿桂尼じゅけいにの方針により、降伏を受け入れられ命拾いしたにすぎなかったのだ。井伊家は舵取りを誤れば、即座に滅亡の危機に直面する、そういう危うい立場にあった。


 前年、井伊家当主井伊直盛いいなおもりの一族で、叔父にあたる井伊直満いいなおみつ井伊直義いいなおよしが井伊領に侵攻してきた武田勢に対処するため、それぞれで軍備を整え、対応に当たっていた。直満は次期当主となった亀之丞の実父で、息子を直盛の養子に出したことで家内での増長が目立つようになっていた……。武田勢への対処を、当主の判断を仰いだうえであればよかったものを、独断ですすめてしまったのだ。直義は直満の弟だが、増長した兄に家臣のように扱われるようになり、不満を抱いていた。武勇を誇る自身の実力を示し、直満に対抗するように動いたのだった。


 この状況を、親今川の家老小野政直おのまさなおに利用され、直満、直義に謀反の疑いあり、と義元へ讒言されてしまった。二人は申し開きをおこなうように駿府より呼び出され、出立する準備の最中であった。


 井伊谷城の一室。数え9歳となった亀之丞は原因不明の病により眠りについていた。数日もの高熱によりついに意識を失い、食も摂れなくなり、水だけは含ませて家中の者が必ず誰かが傍に付き添っていた。家中の者はみな、ただ、祈るように看病を続けていた。


 令和日本の世界と戦国時代では、医療も、衛生も、食糧事情も比べ物にならない。国人領主たる武士の家に生まれただけ環境はましであろうが、この時代では死はとても近いものなのだ。


 沈黙が支配するなか、重ぐるしく、絞り出すように井伊直平いいなおひらが言葉を発した。

「……直盛よ、亀之丞にもしものことがあれば、次の井伊家の跡継ぎをどうするつもりか考えておるか?」

 直平は井伊家当主直盛の祖父で、先代当主井伊直宗いいなおむねの父。亀之丞の曽祖父にあたる井伊家の長老、重鎮だ。


 井伊家の次代を担う男子は、亀之丞ただひとりだけ。直盛には娘がひとりいるのみであった。かの有名な『おんな城主直虎なおとら』となる女子のことだ。亀之丞を養子としたとき、娘と婚約させた。今川家に人質として取られないようにするためだ。


 直盛は亀之丞の顔を心配そうに見つめながら、「亀之丞を失えば、娘の婿養子を今川に決められる可能性が高いだろうと思う……。井伊の力では、……抗えぬ。今度こそそれは受け入れるしかないであろうな……」

 とつぶやく。


 「小野のやつめは、義元に頼み込んで倅の道好みちよしと婚姻させよう、とするだろうな。まったくもって、いまいましい!」

 直平は苦虫をかみつぶしたような表情で吐き捨てた。


 本当に、井伊家を取り巻く今の状況は、これでもかというほどに悪い方向に突きすすんでいるように思えるものだった。明るい話題が何ひとつとしてなく、これ以上状況が悪くなるのを必死に押しとどめようともがく毎日。直平、直盛の苦悩がいつ終わるのかのきっかけすら見えてこないほどだ。


 ――――――


 亀之丞の寝所は、突如として異質な静寂に包まれた。かすかな鈴の音のような響きが遠くから近づき、空気が凍りつく。その刹那、深海の底で水晶が砕け散るように光がまばゆき、ゆっくりと部屋中を満たす……。

 光はただ明るいだけではない。呼吸するように柔らかく揺らぎ、鋭く肌を刺す冷たさを含んでいた。横たわる亀之丞の胸の奥に、神気まばゆい力が流れ込み、心の奥底で何かが目覚めていくのを促しているようだった。


 寝所から溢れる、清冽で、ひりつくような空気。

 異変に気付いた直盛、直平は、慌ただしくもただちに亀之丞の寝所へ向かった。眩むまぶしさと神気に圧されながらも、腹に覚悟を決めて……ふすまをそっと開いた。

 

 そこには、光がまぶしく顔も体の輪郭もはっきりわからないが、恐れを感じつつ、みたところ女神ではないかと思える存在がふわりと浮かぶように佇んでいた。亀之丞は、女神に抱えられて眠っている。どうやら、無事ではいてくれているようだ……。女神様は、なぜ亀之丞を抱きかかえているのであろうか?

 

 とにもかくにも驚きのあまり固まってしまい、声も発することができず、ただじっと、二人は平伏してしばし女神を見上げていた。遅れて、同じように異変に気付いた千賀ちか(直盛の正室)と娘のおとわがやってきて、驚愕した様子で畳にぺたんと座り込み、光に呑まれそうな怖さで肩を震わせながらも……目をそらさず……光をまとう女神様を見やっていた。


 神秘的な響きを感じさせる声が室内に響き渡る。


『約束の時が来ました。亀之丞はわが神子であり、世界を守り導く使徒として、現世に降ろします』

『人の世たるこの世界は、人の子によりて営まれ、守られるもの。世界に危機の芽がうまれたため、私は亀之丞の才を信じ、加護をその身に与え託します』


 集った井伊家の一堂は身じろぎすることもできない……。まるで金縛りにあったかのように。ただ、ただ、女神の発する言葉を必死に受け止めるのみ。


『直平よ、直盛よ、私の言葉をよく聞くのです』

『この子はあなた方の子であり孫であるのは変わりません。ただ、私の加護により、特別な存在になったと理解してください』

『……まもなく亀之丞は目覚めます。そして、秘められた真の才能が覚醒するでしょう』


 女神の紡ぐ言葉を、決して聞き漏らさまいと、皆が必死に意識を保って光の先の神々しいお姿を見詰めている。


『これからこの世界の理は、ゆっくりと改変されていきます。亀之丞は運命と宿命を背負い、戦いの中において自らの決断を迫られる時が来るでしょう……』


 皆は目を見張り、亀之丞を見つめなおす。まだ動く気配はない。


『我が名は伊邪那美いざなみ。亀之丞の魂は黄泉比良坂よもつひらさかに留まり、私が保護しともにあります。まもなく現世へと戻すところです。また亀之丞のもとに、使いを2人遣わします。常にそばに置き、亀之丞の世話を任せるようにしてあります』


 イザナミはそこまで言い終わると、身にまとう光が一層まばゆききらめき、……やがて静かに消えていったのだった。


 ――――――


 消えたイザナミと、光の残滓がなくなると、そこには身の丈6尺はあろう若者が、ニコリと笑って立っていた。

「父上、おじい様。亀之丞です。どうやら死線を越えそうなところをイザナミ様のおかげで助かり、生きて黄泉の国より帰ってこれたようです」


 驚愕の表情、そして戸惑いのなかに歓喜をにじませる直盛たち井伊家の家族一同。……そう、これから、井伊亀之丞の壮大な物語が始まるのだ。



 ――――――――――――――

 【ご案内】

 本作には、一部幻想的かつ感情的な描写が含まれます。

 歴史・軍記・ファンタジーの要素と、人間関係の繊細な心理描写が交差します。

 全年齢向けですが、苦手な方はご留意のうえお進みください。

 ――――――――――――――


(あとがき)

戦国時代を舞台とした雰囲気が出るように試行錯誤を重ねています。それでも神話の世界観が登場するファンタジーですので、それを織り込んで読みすすめていただければ、と思います。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る