虚構8 旅の最初の出会い

 荒野の果て、魔族領の入り口に位置する「霧の峠」。

 ここは、人間と魔族の境界線を象徴する場所だ。

 霧が常時立ち込め、視界をぼやかせる。

 古い石碑が並び、風に削られた文字が「魔王の領域」と刻まれている。

 クリードは馬の背に揺られながら、ゆっくりと峠を登っていた。

 王都を出てから三日目。

 食料は十分、剣は研ぎ澄まされ、心は燃えていた。

――はずだった。


「本当に……ここから先が魔王の領土か」


 クリードは独り言のように呟いた。

 地図によると、この峠を越えれば魔族の村落が点在する。

 ニュースで何度も見た「魔王軍の拠点」のはずだ。

 黒い鎧の軍勢が闊歩し、炎の魔法が飛び交い、人間を敵視する恐ろしい世界。

 それが、クリードの想像だった。

 だが、現実は違う。

 峠の頂上近くで、霧が少し晴れた瞬間、

 クリードは目を疑った。

 道の脇に、簡素な露店が並んでいる。

 人間の商人らしき男が、魔族の女性と笑いながら交渉している。

 子供たちが、角を生やした魔族の少年と人間の少女が混じって、追いかけっこをしている。

 空気には、焼いた肉の香りと、甘い果実の匂いが混じっている。


「これは……」


 クリードは馬を止め、辺りを見回した。

 ここは戦場のはずだ。

 魔王の脅威が最も濃い場所のはずだ。

 なのに、なぜこんな平和な光景が?


「よう、旅の者か? 珍しいな、人間が一人でこの峠に来るなんて」


 声がした。

 道端のテントから、赤みがかった肌の魔族が顔を出した。

 中年男性、曲がった角に、商人らしい笑顔。

 ガルド――彼は魔族の交易商人である。

 彼はテントの布をめくり、商品を並べたテーブルを指差した。


「剣、鎧、魔法薬、何でも揃ってるぜ。

魔王領に入るなら、準備は万全にしとけよ。

あそこは危険だからな……って、冗談だよ」


 ガルドの笑い声が、霧に溶けていく。

 クリードは警戒しながら馬を降り、近づいた。

 剣の柄に手をかけたまま。


「私は……勇者クリードだ。魔王を討つために来た」


 その言葉に、ガルドは一瞬目を丸くした。

 そして、爆笑した。

 腹を抱えて、テントの柱に寄りかかるほど。


「勇者!? はははっ、本気かよ! 王都のニュースで見たぜ、レオンって奴。お前か!

まあ、座れ座れ。酒でも飲むか? 人間製のワインだぞ、いいやつ」

 

 クリードは戸惑った。

 敵意がない。

 むしろ、歓迎されている。

 彼はゆっくりとテントの前に座り、ガルドが差し出したワインの杯を受け取った。

 周りの露店からも、好奇の視線が集まる。

 人間の商人たちが「勇者だってよ」と囁き合う。


「本当に……魔王の領土なのか、ここは?」


 クリードが尋ねると、ガルドは肩をすくめた。


「そうだよ。魔王陛下の領土さ。でもよ、陛下の姿なんて、何百年も誰も見てねぇよ。俺の爺さんも、爺さんの爺さんも、見たことないってさ。ニュースでしか見ねぇ影みたいなもんだ」


 クリードはワインを一口飲んだ。

 甘く、喉を滑る。

 人間のワインと同じ味。


「だが、魔王軍の脅威は本物だ。国境で戦闘が起きている。死者が出ている」


 ガルドはテーブルの剣を磨きながら、鼻で笑った。


「脅威? あれか、局地戦のやつか。あんなの、管理されたお芝居みたいなもんだぜ。人間側も魔族側も、死者は最小限。予算内で収まるように調整してる。だってよ、戦争が本気でエスカレートしたら、交易が止まるだろ? 俺みたいな商人、食えなくなる」


 クリードは杯を置いた。

 言葉が、胸に刺さる。


「お芝居……? だが、ニュースで見た。魔王軍の大群が、炎を吐いて襲ってくる。勇者が倒さない限り、平和は来ない」


 ガルドは磨いていた剣をテーブルに置き、目を細めた。


「ニュースか。あれ、ほとんどスタジオで撮った作り物だぜ。俺の知り合いが、魔王軍のエキストラやっててよ、角つけて、咆哮して、血糊飛び散らせて。視聴率取るためのショーさ。

本物の魔王? いるかいないか、誰も知らねぇ。でも、いないと困るんだ。魔王の脅威がなくなったら、武器が売れねぇ。工場が止まる。

みんな失業だ。お前みたいな勇者が来て、倒しちまったら……世界中が大混乱だぜ」


 クリードは沈黙した。

 頭の中で、幼い頃の記憶が蘇る。

 村の焼けた家。

 泣く幼馴染。

 ニュースの画面で見た、魔王の影。

 あれが……作り物?


「そんなはずはない。私は……世界を救うために来たんだ」


 ガルドは優しく笑った。

 商人らしい、計算高い笑みではなく、

 ただの人間――いや、魔族としての、素の笑み。


「救う? 誰を? 俺らを? 人間を? まあ、がんばれよ、勇者さん。でもよ、魔王領を進むなら、気をつけろ。本物の脅威は、魔王じゃねぇかもな。上層部の連中が、お前を狙うかもよ」


 クリードは立ち上がった。

 ワインの杯を返し、馬に跨る。

 霧の向こう、魔族領の奥が見える。

 平和な村の灯りが、ぼんやりと揺れている。


「ありがとう。……考えさせてくれ」


 ガルドは手を振った。


「いつでも戻ってこいよ。剣、半額で売ってやるぜ」


 クリードは馬を進めた。

 霧の中を、ゆっくりと。

 心に、初めての亀裂が入った。

 魔王の脅威は、本当に脅威なのか?

 ニュースは、真実なのか?

 世界は、本当に救うべきなのか?

 霧が濃くなる中、クリードは独り、剣の柄を握りしめた。

 旅は、まだ始まったばかりだ。

 だが、疑問の芽は、すでに根を張り始めていた。

 誰もが、同じ空気を吸っている。

 誰もが、同じ嘘の中で生きている。

 そして、

 勇者だけが、

 その空気に息苦しさを感じ始めていた。

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誰も望まない魔王不在の世界 Omote裏misatO @lucky3005

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