第4話 : 一途になったサキュバスは、もう奪わない
「……服従、します。貴方は私の主人(マスター)であり、世界のすべてです」
安アパートの薄暗い寝室。先ほどまで健二の命を狙っていたはずのサキュバス――ルシアは、床に跪き、恭しく頭を垂れていた。
その瞳には、もはや獲物を狙う冷酷な光はない。ただ、一途で、湿り気を帯びた情熱だけが宿っている。
「いや、服従って……。俺なんかでいいのかよ? 見ての通り、金もない、地位もない、友達すらいない。ただの、余り物の人間だぞ」
健二の困惑まじりの問いに、ルシアはふっと、慈しむような微笑みを浮かべた。
「いいえ。他の男たちは、中身が『空っぽ』だっただけ。日々の虚栄や欲望で、魂を切り売りして、なにも残っていなかった。……けれど、貴方だけは違った。誰にも愛されず、誰にも使われなかったからこそ、貴方の精気は一度も開封されず、熟成され続けていた。……私にとっては、宇宙で一番の宝物なんです」
ルシアは健二の手をとり、自分の頬に寄せた。
「もう、貴方の命を奪うような真似はしません。ただ、側にいさせてください。貴方の漏れ出る吐息を浴びるだけで、私は永遠に満たされるのですから」
だが、その平穏を切り裂くように、部屋の空間が歪んだ。
壁一面に禍々しい魔法陣が浮かび上がり、冷気と共に、魔界の監視者の声が響き渡る。
『――見苦しいぞ、ルシア。任務失敗どころか、下等な人間に絆されるとは。サキュバスの面汚しめ』
「……お姉様」
ルシアの顔が強張る。魔法陣の向こう側から、無数の魔力の触手が伸び、健二を絡め取ろうとした。
『その男を殺し、精気を回収して戻れ。さもなくば、お前を処刑し、その男もろともこのアパートを消滅させる』
「やめろ……!」
健二が声を上げるが、強大な魔圧に押し潰されそうになる。
その時だった。
「断ります」
ルシアが立ち上がった。彼女の背から、かつてないほど巨大な漆黒の翼が展開する。
健二から「お裾分け」された、三十年分の濃縮エネルギー。それがルシアの体内で爆発的な魔力へと変換されていた。
「この人を殺すというのなら……私は、魔界を捨てます。お姉様だろうと、魔王様だろうと、私の『唯一』に触れようとするなら、そのすべてを焼き尽くして差し上げます!」
ルシアの全身から放たれた漆黒の衝撃波が、部屋に浮かぶ魔法陣を粉々に打ち砕いた。次元の裂け目が悲鳴を上げて閉じ、静寂が戻る。
それは、一人のサキュバスが、種族としての本能を超え、愛のために「神」にすら背いた瞬間だった。
エピローグ
数週間後。
佐藤健二の日常は、表面上は何も変わっていなかった。
相変わらず職場では「背景」のような扱いで、誰からも話しかけられない。上司からは、相変わらず自分の目の前にいないかのように資料を押し付けられる。
だが、今の彼には、帰る場所があった。
「おかえりなさい、健二様! 今夜は貴方の好物を作っておきましたわ」
ドアを開ければ、そこにはエプロン姿(中身は相変わらずあのマイクロビキニだ)のルシアが、満面の笑みで駆け寄ってくる。
彼女は健二に抱きつき、その首筋に顔を埋めて、幸せそうに深呼吸をする。
「はぁ……。やっぱり、健二様の匂いが一番落ち着きます。あ、今、少しだけエネルギーが漏れましたね? ありがとうございます、ごちそうさまです」
「……ただの体臭じゃないのか、それ」
健二は苦笑しながら、彼女の頭を撫でた。
世界中の誰も、彼を必要としていないかもしれない。
世界中の誰も、彼がここにいることを知らないかもしれない。
けれど、たった一人。
魔界を敵に回してまで自分を選んだ、最高に綺麗で、最高に一途な彼女だけが、彼を「唯一無二の王」として崇めている。
それだけで、彼の「未使用だった人生」は、お釣りが来るほどの幸福で満たされていた。
今日も彼は、世界という孤独な砂漠の中で、自分だけの小さな、けれど何よりも熱い楽園を抱きしめる。
誰にも選ばれなかった男は、魔界で一番危険な存在だった。
(完)
「誰も困らないゴミ」を選んだはずのサキュバスが、人類最強の「未使用者」を引いてしまった話 Omote裏misatO @lucky3005
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