第2章:通時的、共時的、汎時的
かつて、文化に触れる態度は「通時的(Diachronic)」であった。音楽を聴くとは、ビートルズからオアシスへと流れる歴史の縦軸を、巡礼のように遡る行為だった。過去から積み上げられた文脈や、相手との長い関係性の上に成り立つ丁寧な言葉。そこには「時間の線」を正しくなぞる誠実さがあった。
あるいは、かつての最先端は「共時的(Synchronic)」であることを誇った。九〇年代の熱狂のように、同じ時代を生きる人間たちが横一線の「今」を共有する。そこには同時代性という特権的な連帯感があった。
しかし、2025年の今、ネットというブラックホールが時間を飲み込み、私たちが立っているのはそのどちらでもない。あらゆる過去と現在がフラットに並列された「汎時的(Panchronic)」な海である。
スマートフォンの画面上では、1700年代のバッハも、1960年代のビートルズも、2020年代のTLDPも、すべてが等しく「今」というサムネイルで並列されている。そこでは歴史の前後関係も、積み上げられた文脈も、検索ワード一つで無効化される。この「汎時的」な世界において、あらゆる表現は薄く引き伸ばされ、実体のない記号へと変質していく。
その希薄な平坦さの中で、彼女たちの放つ「身体性を伴うFワード」は、まさに最強の兵器として機能する。
それは単なる記号としての罵詈雑言ではない。アレクセイ・ゲルマンの映画『神々のたそがれ』において、物語の文脈を無視して執拗に映し出される泥や汗、そして意図的に配される生々しいエロス(性器のメタファー)と同じ機能を持っている。それは観客の「教養的な解釈」を拒絶し、理屈を飛び越えて、否応なしに「今、ここに生身の人間がいる」という事実を突きつけてくるのだ。
Fワードとは、言語における爆弾だ。それは積み上げられた教養といった「通時的な積み重ね」を一瞬で無効化するだけでなく、汎時的な海に漂う実体のない私たちを、強制的に「肉体を持つ生身の存在」へと引き戻す。彼女たちがドレスという「歴史の意匠」を纏いながらそれを放つとき、時間の連続性は断絶され、同時に、空虚なデータの海にゲルマン的な「生命の汚濁と拍動」が打ち込まれる。
意味(深み)を捨て、瞬間の強度(表層)と肉体の実感をぶつけるその言葉。それは過去を簒奪し、今この瞬間に自分たちが生きていることを証明するための、最も軽やかで強靭な汎時的表現だったのである。
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